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仮面ライダーセイバー 剣士達の輝く瞬間こそが真の物語【感想・考察】

2021年9月4日

セイバーに多人数ライダーが噛み合わないと思った理由

仮面ライダーセイバーは、多人数ライダーとして見てもかなり挑戦的な作品だった。

龍騎にせよ鎧武にせよ、作品としてはバトルロワイアルやサバイバルゲームの類だ。
対して本作は、ライダー達が一致団結して強大な敵に立ち向かう。まさしく王道の物語だった。
けれど、その挑戦が上手くいったとは言い難い。

どう見ても剣士達の群像劇を作ろうとしているのに、一部のキャラのみに出番が集中してしまい、群像劇として全然機能していない。
この理由は大きく分けて三つある。

一つ目、龍騎の時代では、仮面ライダーを出すのはせいぜい十三人が限度だと結論付けられた。
それでも十三名(+オルタナティブ二名)を出すのはTV本編だけでは不可能だった。

事実、劇場版やTVスペシャルに限定されたライダーが存在している。
そして限界値が設定された理由は、ライダーの登場数が増えると、一人あたりにおける物語のウェイトが軽くなるためだ。
有体に言ってしまえば、それだけの人数に割ける物語の尺がない!

そして、それだけの人数を本編でホントに出しちゃったのが本作である。
正確にはライダーだけだと上記の数には至らない。けれど仮面ライダーセイバーは敵キャラにもかなり強い個性がある。
龍騎は怪人役にあたるモンスターは、デザインや武装くらいしか個性がなく、ほとんどが本能で人を襲う怪物だった。

仮面ライダーセイバーが群像劇を作ろうとしていた根拠は、各キャラにちょっとずつ役割と出番を与えていたためだ。
けれど一話中一キャラに割ける時間は限られている。そうしてちょっとずつ尺を割り振られていくと、登場はするけど大した出番は与えられないキャラが増えていく。
たまに出番自体が全然なくて、さして理由もなく暫く放置されている者もいた。あまりに暇すぎてTwitterで散歩してやがったからね!

そしてキャラは描きたいけど出番が作れないので、番外編として一部外に出されるケースもあった。
「こういう活躍もあったんだよ!」という形ではなく、本来なら本編で書くべきなんですけどマジ無理なんで番外編って形で切り出しましたって内容なのだ。

もしキャラを多数出しながら群像劇化しないならやりようはあった。
例えば勇者王ガオガイガーを代表とする勇者シリーズのメカ達みたいに、個性のみを与えてバックボーンを作らない。こうすれば、自分がメインの回以外は戦闘で出番ノルマをこなせば存在感はアピールできる。
本作の剣士達は、バックボーンだけは皆にしっかり与えながら、多くがメインにはならない状態なのだ。

二つ目は脱落者の少なさ。
龍騎や鎧武だと、ライダー同士は戦い合うもので、途中にどんどん脱落者が出る。

新ライダーが増えたら、その前後で脱落者を出して減少させる。
もしくは理由を与えて、一旦長期退場させてしまう。

これなら多人数ライダーでも、一話で話を回す人数はある程度限られる。
一人あたりに割ける尺もそれなりの分量になるため、群像劇として機能するのだ。

仮面ライダーセイバーは各種雑誌のインタビュー等でも宣言していたように、死亡によるライダーの退場者は少ない。
減るペースは悪いが、後半になるとライダーはむしろ増えていく。
敵幹部は減っていったが、今度は組織内抗争が激化して話も複雑化していく。
一キャラに割ける尺は、話が進んで苦しくはなっても改善されることはあまりなかった。

三つ目が販促事情だ。
仮面ライダーにとってオモチャの売上は作品の生命線である。オモチャを売らねば番組として成立しない。

そしてオモチャはどれをいつ頃売るかの計画は大凡決まっている。
主役を始めオモチャの数や種類が多い者は出番が増えて、新しいライダーは優先して活躍させねばならない。

オモチャの売上があまり期待されていないキャラクターは、出番が減り扱いも悪くなっていく。
多人数による群像劇とは非常に相性が悪い制作スタイルだ。

上記三つの要因が具体的にどう響いたか。
仮面ライダーセイバーは序盤にまず大量のライダーを出した。
この時点で一人単位の尺はかなり限られてしまう。

一号ライダーであるセイバーは主役であり、フォーム数や強化の回数も多い。
次いで二号ライダーのブレイズも序盤から強化フォームが入るため、それに伴い出番や活躍が増える。

三号ライダーポジションのエスパーダは、オモチャ云々よりも物語上重要な立ち位置にいるため、ここも出番は多い。
劇中でもこの三人は最初から最後まで特別扱いされていた。

その分割を食うのが残り三名である。
大秦寺はライダーとしてではなく、刀鍛冶方面である程度出番は確保されていた。
他のバスター、剣斬は年末までのワンクール目は各々の登場回以外は目立った活躍がない。

年内の終盤で、賢人は長期的な離脱イベントが発生。
そしてユーリとサウザンベースが動き出す。

残ったメンバーは仲間割れ。
暫くは新たな仲間(新商品)としてユーリに尺が割かれる。

比較的早く仲間に戻った大秦寺と尾上は、ここから仲間として活躍する……なんてことはなく、新しいライダーを引き立てる噛ませ犬役になっていく。
二人のピークは、仲間割れ中にセイバーと戦う時だった。
敵に回ると厄介だが、味方になるといまいち頼りないというポジションに押し込められてしまう。

当然の如く新しいライダー達も、最初は尺を多めに割かれて活躍もするが、販促期間が終われば他のキャラと同様の扱いを受ける。
そして一部のキャラのみが何度も突出した出番を与えられる。剣士達の群像劇としてみると、非常にバランスが悪い。

これらは決して本作特有のことではない。
けれど、この構成自体、団結して戦うタイプの物語には向いていない。

そして本当に全員が団結して戦い、皆にちゃんと活躍の場がある機会は、劇中でも数が限られている。
序盤の他は、短編劇場版と最終決戦くらいなものだった。

最終決戦は全員に出番を与えながら、かつメインキャラを突出させる理想形を実現した。
最後でようやく見たい流れや活躍が見れたと思ったが、ここだけで三話を消費している。十人もいるのだからそりゃあ当然だ。

剣士達は、群像劇としても団結して戦う物語としても、非常に中途半端な形になっていた。
そしてこうなることは過去作を見れば明らかであり、ほぼ懸念していた通りになったのが残念でならない。

じゃあ「やるべきではなかったか」と問うと、長期シリーズの中で新しい可能性を模索する行為自体は大事で、安易に否定すべきではない。
本作の教訓として、多人数ライダーをやるならあれもこれもと盛り込まず、多人数を活かせる構成にすることは必須のように思える。
そして今回の駄目だった点を次に活かして、「今になって思えば、仮面ライダーセイバーは歴史上大事な転換点だったね」と言えるようになっていることを私は願う。

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