勧善懲悪から脱しきれないキャラクター性
群像劇化しきれていない問題は、後半に入るとキャラクター面でも響いてきた。
一人辺りの尺がないと、キャラクター性の掘り下げも浅くなる。
ただし、初期メンバーの剣士達にはこの問題はあまり生じなかった。
個性という名の味付けが濃くて、それぞれが際立っている。
またメイン三人を除けば、キャラの成長による変化はさほど大きくない。
一人単位の尺が短くても大きな成長を描かなくていいなら、一年を通せばキャラ性については十分描ける。
それに全く成長がないわけではなく、尺の中で描ける範囲でゴールまで辿り着けた。
唯一の例外は蓮で、最後に怒涛のイベントが用意されて目覚ましい成長が描かれていた。これについては後の章で詳細に解説する。
問題はメギドサイドとサウザンベースのライダー達だ。
仮面ライダーセイバーにおける悪役達は、何故悪いのかと言えばそれは彼らが『悪役』だからだ。
群像劇風に描こうとしていた割に、敵サイドにおける描写の薄さはどうにも気になる。
この時点で『セイバーに根っからの悪役なんてほとんどいなかったろうが。エア視聴で叩いてんのか?』とツッコミや批判が殺到しそうだなーと思うが、そういう問題ではない。
確かにメギド組やバハトは、悪に堕ちた理由がある。
サウザンベースの剣士達はマスターロゴスを信じて活動していた。
だがそこには『理由』しかない。
具体的に堕ちた過程がほとんど描かれていないのだ。
バハトは回想シーンがあったものの、絶望して全部を虚無に還すと決意を固めたシーンはなく、いずれも悪役としての変化とキャラ性はかなり極端だ。
サウザンベース組も似たようなものだった。
仲間割れはマスターロゴスが諸悪の根源なのは間違いない。だからと言ってサウザンベースの問題は、マスターロゴスが全て悪いのだろうか?
神代玲花は中盤まで自分は直接戦わず、マスターロゴスの威を借りて威圧的に命令する。他にも搦手でライドブックを盗む等の外道行為から、視聴者の印象はかなり悪かった。
(そして私はこういう外道キャラが好きなので、めっちゃ楽しんでいた)
これらは事実として、大部分はマスターロゴスの命令だった。
けれどマスロゴが命令を出しているシーンから考えて、その手法まで細かな指示があったわけではない。
玲花が兄以外には冷淡で卑劣な性格なのは元々だ。
神代凌牙の、プライドと傲慢が一緒くたになった性格も同様だ。
ついでに蓮も元サウザンベース組らしいので、これもうサウザンベースの教育姿勢に問題があるのではなかろうか。
(少なくとも蓮の師匠からして問題ありそうな雰囲気が出ていた)
とはいえ、サウザンベースのお家事情に関する細かな描写が(少なくとも本編には)なかったので、兄妹の性格が悪いのはそういうキャラクターだからといしか言いようがない。そういう部分を無視して根っからの悪い奴じゃないというのも説得力に欠ける。
そうこうしている内に、マスロゴが飛羽真達と兄妹共通の敵になり、世界情勢も仲間割れしているどころじゃなくなった。
そこから更に飛羽真が共闘を持ちかけて、やっと和解の展開が始まった。
溝を埋めていく作業が、兄の雑なツンデレだったことも見逃せない。
妹に至っては特に何もしていない。
このブラコン、お兄様のツンデレかわいいムーブしかしてなかったからな!
それがいつの間にか、ゼンカイジャーにお邪魔した時には、マジーヌにハグするくらい丸くなっていた。違和感しかない。
(実際はアンジェラ芽衣氏がマジーヌ大好きなのだが、大好き過ぎる故に動けなかったので、スタッフがサービスで入れたシーンである)
兄はまだしも、玲花については『敵だったのに気が付いたら仲間になってた』扱いは存外に間違ってない。
善悪がツンデレとか気が付けばとか、単純な流れで決まっていくのは、少なくとも濃いキャラ性の造形とは呼べない。
ただ例外的にしっかりと積み重ねがあった敵もいる。それがデザストだ。
最初は戦闘を楽しむ残忍な快楽主義者として登場した。
そのデザストが生み出された理由は、作中で『単なるノリでやりました』みたいな扱いで語られた。
実際のメタ的な理由も、ライダーの数に対して敵の数が少ないためである。その後、暫く空気と化してたわけで、本当にかなり行き当たりばったりだ……。
デザストは強さを正義にしている蓮に一度は敗れ、自分と同類の匂いを感じ取りアピールをかけ始める(ただし本編外の配信)。
実際に二人で行動するようになって仲間意識を持ち始めた。
その後、ストリウスに己の存在意義がなかったことを告げられ、死に瀕する。
そこでようやく自分とは何なのか、最期に何を残すかで葛藤を始めたのだ。
その様は短い話数ながらも、丁寧に描かれていた。
残りの命を使い、蓮が成長する後押しに自分の命を使い切ることを決意する。そして彼の中に、己の存在を刻み込んだのだ。
デザストは悪党であり、過去に起こした行為は消えない。
それでも己の存在に疑問を持ち、自分ではない、初めて本当の意味で仲間と思えた者のために命を使い切ることを望んだ。
ただ『こういうことがあった』だけでは単なる設定で、そこに厚みはない。
デザストが経た積み重ねと葛藤の描写こそが、善悪では割り切れない心の有り様だと思うのだ。
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