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なぜSNSのオタク界隈は荒れるのか ~特撮界隈から見るSNS社会とオタク文化の闇~

2022年8月5日

第四章:オタクの戦略的退化論

オタクは時間をかけて退化している

第四章の内容を後に回したのは、この記事において最も反発が大きいだろう部分だからである。
正直、これを最初に書いて煽るような炎上タイトルにした方が読まれやすいのはわかっているのだけど、炎上を前提にした宣伝はやりたくなかった。

歴代最長を大胆に更新した本記事は、ここに至るまでに多くの読者を振り落としてきただろう。
そろそろ本として成立する長さであり、少なくともブログでやるべき長さではない。

既に割と辛辣なことを書いてきたが、ここまで付き合ってくれた方々なら、感情的になって書いているわけではないとご理解いただけていると思う。だよね?

一番闇が深いポイント。それは単純に、視聴者の作品を見る目が落ちていることに起因する。
これは若い世代だけの問題ではない。

特撮クラスタに集まるような、オタク達全体の質が落ちている。
この話を突き詰めると、荒れる要因というだけでなく、オタクという文化の消滅にも向かう要素だと私は感じている。

とまあ、ここまで書いただけでも随分危険な爆弾だと思ったことだろう。こんなのを冒頭に書いていたら、確実に老害扱いされていた自信がある。

オタクの退化とは今に始まったことではない。まだオタクと呼ばれてすらいなかったオタク原人が生まれた時代から、我々は時間をかけて数を増やす代償に、個としての質を落としてきた。

例えば、原初のオタク時代には録画媒体やレンタル店すらなく、アニメや特撮は全て一期一会だった。作品に対するまともな情報源もない。

アニメなら監督と作画監督の違いもわからない。
ネットはおろか、アニメ情報誌すらないというのに、誰に違いの教えを乞うというのか。
監督などの制作者が、積極的に顔を出してインタビューに応えるようになったのは、アニメージュで機動戦士ガンダムを取り上げた辺りである。

古いオタクと言えばコマ単位で見ると豪語する者もいるが、原始の時代にそのような利器はない。
巻き戻しも一時停止もできないその場限りの映像。彼らはその条件から、大量の役職と人名、そして本編の作画や映像のみで、その意味を解析していった。

毎週少しずつ異なる作画や構図。それと照らし合わせて、スタッフ情報から作画監督によって違いがあるのだと気付きを得て、役職の意味を理解する。
その作画監督の情報も、毎週異なるスタッフクレジットを必死に記憶するか、録画以外の方法で記録しておかねばならない。

やがて個々の作画や演出の違いを見分けられるようになり、本編映像から逆に作画監督を言い当てるに至る。ちなみにこれ、最新の洗礼された映像美からは程遠い、マジンガーZやゲッターロボなどの時代の話だ。

アニメや特撮は、全てをリアルタイムで網羅するのは当たり前である。好き嫌いする子はオタクじゃありません。
とりあえず観てから評価する。それはオタクにとって一種の礼節だった。
原初のオタク達は、さながら石斧でマンモスを狩る原始人の如きバイタリティーと性能である。

私の世代ではDVDで安くレンタルできて、作品が多様化して深夜へ移行。放送時間的にも、作品数の物量的にも到底追いきれない本数になった。

原初オタク達が、当時の私達を見たら『文明の利器に頼って、せいぜい好きなジャンルの新作しか押さえないヌルいオタクもどき』に見えることだろう。

サブスク制度が生み出す視聴者意識の崩壊

現在ではレンタル店で一本ずつ借りる必要すらなく、定額で見放題のサブスク制が主流だ。
しかも、TV放映したばかりの最新作ですらすぐに配信開始される。場合によっては同時か、ネットの方が早いケースもある。
逆に押さえるべき最新の話題作が増え過ぎて、過去を追うことの困難さは、私の代の比ではない。
そのため好きな作品だけ観て、推しを応援する心があればオタクとして成り立つ。

私の世代は、原初視点だとオタクモドキでも、最新鋭のオタク視点から見れば全くイメージは異なる。
ストイックな格闘家の如く、アニメや特撮に膨大な時間と金を捧げてきた剛の者だ。

そんな剛の者だった古オタクでも、現在の作品群は到底追いきれない。
また一本単位ではなく見放題で定額になって「お金を払ってレンタルしたんだから、ちゃんと見ないと勿体ない」なんて考え方もなくなる。
むしろ、同じ金額なら量をこなさないと勿体ない。そんな風に考え方はシフトしていく。

近年は特に、タイムパフォーマンス(略してタイパ・タムパ)という概念が生まれて、時間を価値に変換するようになった。その原因は端的に言って、何をするにも時間が足りないのだ。

タイパ的に考えるなら、一時間を使って三十分のアニメを二本観るより、無駄な部分を省いて三本観る方がお得ではないか。
これがOPやEDなら昔からあったことだが、本編映像にまで及び出す。

こうして巷では倍速視聴なる概念が発生しだした。オタクだと倍速視聴については、未だ反対派も多い。
しかし、これも後述するオタク退化の弊害と無関係ではない。

物が溢れて便利になったことで、それに依存して人は物事を考えなくなっていく。
昭和や平成レトロの時代だと、人類より文明の進んだ宇宙人や、遥か未来の人類は、手足が退化してヒョロヒョロで頭脳だけが異様に肥大化した姿で描かれた。

しかし現実では、人間の脳が一番大きいのはホモサピエンスが「一狩り行こうぜ」していた原始時代だ。生活水準が向上していくにつれて、人間の脳はむしろ少しずつ縮小している。
道具が便利になると、人は楽を覚えて退化するのだ。

サブスク制によるオタク文化の変化

サブスク制度はその便利さと安さ故に、視聴者の意識をこれまでとは大きく塗り替えてしまった。それはオタクにとって良くも悪くもある。

良い面で言えば、海賊版動画の衰退だ。
サブスクが根付きだす前だと、巷では違法アップロード動画でアニメや特撮を観る行為が横行していた。
勿論ダメという人もたくさんいたが、事実として利用者が多いからこそ、ちょっと検索すれば動画のリンクが貼ってあるリーチサイトがジャカポコ出てきた。
You Tubeやニコニコ動画ですら、黎明期は海賊版動画の宝庫みたいになっていた。

中にはチャージマン研のように、違法アップロードによって初めて認知され、公式に利益が還元されるに至ったコンテンツもあるのだが……。
その辺は趣旨がズレてくるので、また別の機会にしよう。

Twitterなどでも、アニメの名シーン集みたいな動画アカウントが作られていた。そこに流れるシーンには、違法アップロードサイト特有の字幕が付いているのだ。

サブスクサービスの浸透と充実によって、違法アップロードによる動画視聴は目に見えて減っていった。

悪い面で言えば、倍速視聴も含めた、作品に対するリスペクト意識の低下。それは視聴者のモラルにも如実に影響する。
品物が安くて大量にあると、甘受する側は作り手側への感謝が疎かになりがちだ。
人は案外、中身ではなく値段で物の価値を決める。

定額で作品を観るのが当たり前になると、制作者への敬意や配慮が薄れていく。
そうなると、作品に対する批判で、制作者へ誹謗中傷を浴びせる者が現れやすくなる。

また物理方面でも、Blu-rayが売れなくなる。
一昔前だと覇権アニメとはBlu-rayやDVDの売上で決まっていたが、現在ではどれだけSNSで話題になったかの方が重視されていることからも、その変移は明らかだ。

レンタルビデオ時代だと、新作は高くレンタル期間も短い。そしてレンタル中の確立も高かった。
高価なものという認識があり、好きな作品はお布施としてディスクを買う、推し活的な要素もあった。

しかしサブスクだと、新作は定額サービスの範囲内で無料なのが当たり前だ。
人気の話題作は、サブスク加入者の増加と維持のためには基本中の基本だ。
むしろ古い作品は需要が低く、比較的金払いのいいオタクが求めるため、別途有料化されるケースが多い。

そうなると、あえて高い金額を出してBlu-rayを買う意味も薄れてしまう。
また、オタクが一般化して推し活がキャラに移ったことで、Blu-rayよりキャラグッズへ情熱が注がれやすくなったのもあるかもしれない。

本来ならば、中身の質を上げれば売れるはずのBlu-rayは、それ自体が需要を失い出した。
それでも売ろうとすれば、サブスク配信側にない付加価値を付ける方向へとシフトせざるを得ない。

仮面ライダーで言えば、Blu-rayボックスには映像特典として限定ストーリーを付ける。
Vシネマなら、登場ライダーの強化パーツを特典に付けることが多い。
アニメ『風都探偵』では、高額フィギュアの特典付きを出している。
ファンからすれば普通に特典だけ売って……と思うのは至極当然の真理だ。

他にも、視聴者は金銭や時間的な事情から、一人で入れるサブスクの数には制限がある。
運営側はユーザーの囲い込みが勝負になり、そのための手段はオリジナルコンテンツや独占配信が主体だ。

オリジナルコンテンツの配信は、作品が増えるという観点ではファンはありがたい反面、少々複雑な気持ちもある。
本編が好調なら良いオマケ要素となるが、逆に評価がいまいちの状態だと、そっちより本編に力を入れてほしいと思ってしまう。

むしろ内容次第では、ちゃんと本編でやれとツッコミを入れたくなるものがある。これは切り分け方の問題だ。
Blu-rayボックス側も同様の問題はある。

そもそもサブスクに加入できない者からすれば、限定配信は全く嬉しくない。増えれば増えるほど、またかとストレスになってしまうだろう。

ニチアサ作品が特に厄介なのは、東映特撮ファンクラブをメインにしながらも、テラサでも作品を配信するケースがある。
しかも同時配信で両方追わなければストーリーを把握できない。なんてことまでしてくれた実績がある。外道か……と思いながらも、大体毎年一ヶ月だけテラサに加入する自分だった。

何も考えず観れば楽しいの問題

『頭空っぽにして観れば楽しい』や『心を幼稚園児に戻して楽しむ』とは、特撮クラスタでは作品の褒め言葉としてよく聞く言葉だ。

これは主に話の理屈よりも、物語の勢いや熱量、エモさで視聴者を楽しませて押し切るようなスタンスというニュアンスだろう。
頭を空っぽにして楽しむについては、私も使ったことは過去にあった。
しかしながらこれは『真面目に観ると、作品の矛盾や設定の浅さが気になってしまう』という皮肉や、評価の誤魔化しでも使っていた。

少し話は変わるが、近年はスーパー戦隊の作品評価が上がっていて、仮面ライダーを比較して貶めるような発言もよく見かける。
ウルトラマンZの放送時も、同じようなノリで仮面ライダーセイバーが批判されていたのはまだ記憶に新しい。

この比較が如何に無駄な行為かは、作品のリアリティレベル――その作品がどれだけ現実に沿っているのかを考えればわかる。
スーパー戦隊を観る時、多くのファンは他のドラマを観る時に比べて、リアリティレベルをいくつか落とす。

番組内で、現実だと到底あり得ない展開が起こった時に「だってこれスーパー戦隊だし、突っ込んだら負けでしょ」と考える。
これは正しい。スーパー戦隊は最初から『そういう世界観』を前提とした設定で物語を展開しているのだから、そこに本気でツッコミを入れる人は視聴に向いてないだろう。
言わばこれこそが『頭空っぽにして観れば楽しい』の典型例だ。

ウルトラシリーズは、スーパー戦隊よりもリアリティレベルは上がる。
しかし作品性や物語の構成上、仮面ライダーに比べると平均値は下がるだろうと、私は思っている。

緩い世界観で人間ドラマを入れると、現実感が薄い部分は「細けぇこたぁいいんだよ」と視聴者が無意識に切り捨てる。
(キャラクターの精神年齢が実年齢よりも低いため、悩み方や内容が幼いなど)

リアリティレベルが高い作品だと、ドラマを作るために世界観や状況も相応に作り込みが必要であり、それだけ必要な尺や描写量も増える。

キャラの掘り下げが足りないとか、展開が唐突だみたいな、スーパー戦隊だと流されるツッコミが、ライダーだと許されない。
そのためスーパー戦隊は面白く作れているのに仮面ライダーはできてない。だから最近の作品はダメとか、脚本家がどうこうみたいなことは、本来安易には言えない。

これがMCUのマーベル映画とスーパー戦隊の比較なら、制作環境やら視聴層やら何もかもが違い過ぎて比較が成り立たないと、ほとんどの人が切って捨てる。
同じニチアサや日本の特撮ヒーロー同士という、なまじ共通点があるせいで比較対象にされやすいが、いずれも異なる部分が多々あれば本質はMCUと同様なのだ。

あまり人が認めたがらない面白いと感じる本質

頭空っぽにして楽しい作品と褒める場合、視聴者はそれだけ考えることを放棄している。
そして頭を空っぽにして楽しめない作品を難しい、わかりにくいと批判する。

ここだけ書くと、めちゃくちゃけなしているように思われるかもしれない。
だが実は、これこそ多くの人が目を背ける、嫌な本質を突いている。

リアリティレベルはどれだけ現実に即しているかの判定であって、『リアリティレベルが高い=面白い』作品ではない。むしろこれは逆だ。

近年の特撮ヒーロー作品で、万人受けして最初から最後までファンから高評価を維持した作品は、ゼンカイジャーとウルトラマンZだろう。
この二作に共通する事項は、頭空っぽにして観れば楽しい系であることだ。
あえて明け透けに言うと中身がない。

ゼンカイジャーは、ゼンカイ脳と呼ばれるくらいの独特なハイテンションの作品だ。このゼンカイ脳を物語として成立させるには、小難しいことを考えないことがとても重要となる。
白倉Pも、開始前から知能指数が低い番組にしたいとコメントしていた。

ウルトラマンZも主人公がわかりやすい熱血漢で、非常に素直な好青年だ。ストーリーも大凡、努力・友情・勝利の三つで説明できる。

どちらも、作品単位で伝えようとしているメッセージや思想性が弱い。
頭空っぽで楽しめる系の作品は必然的にそうならざるを得ない。
ここまでハッキリ書くと、作品を知る人達から「そんなことはない」とお怒りの反論が出てくるだろう。それはもちろんわかっている。わかっているとも。

ゼンカイジャーはドタバタコメディーをしながらも、個性の重要さ、家族愛、ステイシーの成長や友情等など、様々なドラマが展開していく。
作品の演出は本当に見事だったが、これらの中にある思想性はどれも王道ど真ん中で、凝ったものではない。

例えば、ステイシーが改心して仲間になることに意外性なんて欠片もない。
彼が仲間になったことで得られるメッセージ性も、少なくとも『ゼンカイジャーでないと得られなかった要素』はなかった。

ウルトラマンZも、ほとんどわかりやすい勧善懲悪の物語だった。
ハルキは怪獣を倒すのに躊躇いを覚えて、その罪を背負う覚悟で戦っていたので勧善懲悪ではない? それは全くもってその通りだ。

けれど、現代社会で典型的な善のヒーローを描く場合は、ほとんどウルトラマンZと同じ形になってやしないだろうか。

悪意があって人に危害を与えるものは罰せられ、理由ありきの悪は『罪を憎んで人を憎まず』として和解する。
これが70年代や80年代のアニメなら、今よりもずっと深い価値観としてもてはやされただろう。

しかし、現代ではおよそオーソドックスでごくごくありふれた『正しい考え方』でしかない。
私は個人的にこれらを『現代的な勧善懲悪』思想だと考えている。

勘違いしないでほしいのは、現代的な勧善懲悪だからつまらないのではない。
むしろ勧善懲悪的だからこそ、視聴者に思考させずストレスを与えない、面白い作品として評価されるのだ。

中身のある作品は視聴者に嫌われやすい

作品にメッセージ性を込めるために中身を入れようとすると、話のテンポが悪くなり、ストレスのかかる展開になりやすい。他にも様々な問題が発生する。

リアリティーレベルが低いと、入れられる『中身』の質も下がる。
そうなるとリアリティーレベルを上げざるを得ず、シナリオは難解さを増していく。

例えば、仮面ライダーゼロワンは高度AIが発展した世界と、そうなった場合に将来起こるだろう問題を扱っている。
ヒューマギアという可視化しやすい形に置き換えて表現してこそいるが、将来起こるかもしれない問題としては現実味のあるものが多い。

メッセージ性を将来や社会に繋げると『考えるべき未来の問題』となる。
そのためゼロワンが視聴者に投げかける問いは、どれも複雑で絶対的に正しい回答は存在しない。

道具が便利になり過ぎると、人はそれに依存してしまい、やがて最初の情熱を失う危険性がある。
そう問題定義すれば「元々過酷な作業を、道具を使って効率化するのは悪くない」との反論もくる。
どちらも現実として起こり得る意見の衝突であり、『正義はあっても正解はない』の類だ。

だからどうにもスッキリしない部分は多々ある。
あえてスッキリさせないことで、人とAIはどう折り合いを付けて生きていくのか、視聴者に考えて欲しいのだ。
これはまさに、他の作品では決してできないゼロワン独自の強いメッセージ性だった。

中身によって複雑化する作品ならば、映画の『ジョーカー』はまさにその典型だ。
この作品を要約すれば、ジョーカーが如何に悪へと堕ちていったかだけの物語だ。

本作はその過程を、つらい現実の中でも夢を諦めずにあがく主人公の目線から、おそろしい生々しさで描いている。
だったら彼はどうすれば良かったのか、というエクスキューズに答えはない。
むしろジョーカーの人生には、共感を見出す者も多い。
なぜなら、そこにあるのはアメリカが抱える貧困や差別に根付く、深い社会問題だから。

ちなみに仮面ライダー本編の評価が賛否両論でも、劇場版作品だと好評になりやすい理由も、『中身』の法則にそのまま当てはまる。なお、これは特撮映画に限った話ではない。

映画は基本的に、巨大スクリーンと音響設備に合わせた派手な画作りが大事だ。
そして話の盛り上げどころや苦難のシーンなど、物語としての流れは、実のところかなり一定になっているケースが多い。

加えて最後は、爽快感のある終わり方をする。これらは個々の作品性ではなく『映画の鉄則』が優先されているためだ。

中身がぎっしり詰め込まれている、先に挙げたジョーカーでも、そこは同様だった。
彼は悪として裁かれるのではなく、共感性の高い『悪』のとして社会的弱者達に担ぎ上げられて終わる。

また、特撮独自の要素として付け加えると、ニチアサ特撮映画は他の映画作品より尺が短い。
昔は尺不足から、物語の掘り下げ面等で文句や批判が少なからずあった。

しかし現在では、一般的に二時間の映画はむしろ長すぎるとさえ言われるようになってきている。
相対的に、東映作品の尺問題もある程度緩和されている。あくまである程度だが。

これらを理由として、本編は受け入れ難い視聴者でも、劇場版ならストレスがかからずスッキリした気分で視聴を終えることができる。

TVでは最後まで視聴者に答えを委ねたゼロワンですら、映画だとわかりやすい物語で爽やかな結末になっていた。
(その分、本編にあった高度AI社会へのメッセージ性は薄らいでいるのだが)

逆にVシネマ系は、劇場で公開される映像作品でありながら、必ずしも映画に沿った作りをしない。
そのため映画らしさの文脈よりも個々の作品性が色濃く出ており、評価の波が激しい。

何でも台詞で説明する時代

もはや身も蓋もない言い方をすれば、頭の良い人に向けた作品は、頭の良い人にしか理解できない。
高尚な芸術品を、素人がみても落書きにしか見えないのと同様だ。

だったら知能指数が低い者を基準にした方が、より幅広い層にウケやすくなる。
(もちろん、考える要素が多い作品だからといって、深い面白さがあるとは限らない。今は意図して総体的な話をしているが、作品個々の評価も当たり前に存在する)

この、理に適っているけど受け入れ難い事実は、制作サイドには当然のように広く知れ渡っている。そして制作者側が順応していった結果、作品に対して視聴者が何か考える余地を全て奪うようになった。

嘘だと思うかもしれないが、実際に作り手が映像技巧を凝らした面白い作品を作っても、出資サイドにもっとわかりやすくしてくれとダメ出しされる。
それこそ作り手が「面白くなくなりますよ」と忠告しても、それで構わないと返されてしまうぐらい、この法則性は遵守されている。

その典型例が、全て台詞で説明してしまうことだ。
台詞で全て説明する行為は作品のリアリティを下げてテンポも悪くする。一昔前までは駄作扱いを受ける所業だった。

しかし今では、映像から読み取れるように表現するのではなく『誰でも全部わかるようにしてくれ』と視聴者側が言う。
この誰でもわかるのレベルは『頭空っぽにして楽しめる』を対象にする必要があり、映像から読み取って状況把握やキャラの心情を察するなんてことは論外だ。
もしやるならば、それはもう完全に過剰演技なぐらい露骨にしないといけない。

例えば以下の例題。

主人公がヒロインに愛の告白をする。
するとヒロインは、俯いて主人公から完全に視線を外すと「あんたなんか嫌いよ!」と強く拒絶する。

目を逸らすという行為は、後ろめたさの表現だ。
そのため視線を合わせず強く拒絶したなら、それは何か事情があって、本心を隠すために語気を強めて誤魔化そうとしているのだとわかる。

顔を背けてわざと感情的に怒鳴るのは、わかりやすい表現だとワンピースの魚人海賊団編で、ルフィに対してナミが「出てけ」と拒絶したシーンがあった。

言葉にして説明すれば、そんなの普通はわかるでしょうと思うかもしれない。
だが、これが実際の映像だと読み取れない人が意外な程に多い。

映像で誰でもわかるようにするなら、まず耳まで顔を真っ赤にして、一瞬嬉しそうな顔をする。そうやってから、ようやく俯いて……と、演技を一つ追加する必要があるだろう。
ここまであからさまに表情が顔に出ると、表現が大げさ過ぎてチープになり、テンポも無駄に悪くなってしまう。

以前に、上記の例題と類似の表現をしているシーンの考察をツイートしたら「そうだったのか」という反響があった。
沈黙やちょっとした動作でも、あえて映しているなら、そこに意図はある。

しかし台詞で説明されることに慣れ過ぎると、動作で何かを演出していても理解ができず、何も考えずにスルーするようになる。
そして話がわかりにくいと批判をする者が現れるのだ。

映像作品特有の表現方法を犠牲にしても、台詞での説明や過剰な演出を優先する。
こうした積み重ねによって、作品の面白さとは『映像から感じる』ことではなく、『誰でも理解できてわかりやすい』が評価軸となっていった。

視聴者の作品の見る目が落ちたのは、オタクが『剛の者』から一般人化したこと。
そして、作品側がわかりやすいものを提供していった結果、視聴者が楽を覚えて平均的な理解力が低下したためだ。

自由な楽しみ方が作品を壊す

現在は『作品の楽しみ方は人それぞれ自由であるべき』が主流だ。
その中には、これまでに説明した『わかりやすさ』も含まれている。

わかりやすさや安易さが、必ずしも悪いとは言い切れない。
わかりにくい作品は、『理解』するため映像をじっくりと観る必要がある。
難解さを上げていき、芸術性を感じる作品へと昇華させても、仮にそれが百人に一人しか理解できないのなら商業的には失敗だ。

深い面白さとは、突き詰めれば学問的になっていく。
純文学の面白さを理解するには、相応の教養を前提として求められるのと同義である。
映像表現も、突き詰めていくとやはりその域に突入する。

また、作品に質を求めだすと、鑑賞者に形式や格式まで厳格に求めだす。
映画はスクリーンのサイズや音響を全て計算して制作しているので、絶対に映画館で観なければならない。テレビやPCで観るなんて映画に対する冒涜だ。
ビデオが普及して、テレビでの映画鑑賞が当たり前になる以前は、そういう思想性を持っている人は多かった。

私はそこまで厳格ではないものの、映像作品をスマホの小さな画面で観るのは避けがちで、主にPCかタブレットを使用する。
選択肢はあるべきと思いつつも、映画鑑賞は劇場が理想であるのも同意だ。

これらも、人によっては理解し難いこだわりだという自覚はある。
鑑賞者を選び、鑑賞方法を選び……そうやって絞り込むと、作品を楽しめる人はごく一握りになってしまう。
多くの人が楽しめるからこその大衆娯楽であるのもまた正論だ。

しかし誰でも楽しめる作品を追求していくと、今度は難しい表現がどんどん淘汰されていく。
すると今度は、これまでは普通の表現だったものが、難しいと扱われるようになる。

また、形式や格式の縛りを外し過ぎるのもやはり危険だ。
作品をどう楽しむかは視聴者の自由。
何処でも、どんな方法でも、自由な楽しみ方を追求する。

それは言葉だけなら理想的かもしれない。
だが作り手や作品へのリスペクトを忘れ、自由さを求め過ぎると、いつか本質を見失う。

例えば、これが野球だとどうなるか。
野球は、技術と駆け引きがある奥の深いスポーツだ。
そのため、本格的にプレイするならルールはしっかり把握しなければならず、高度なプレーには相応の技術が要求される。

それじゃあ皆が楽しく遊べないじゃないか。もっとルールを簡略化しよう。
ボールを遠くに正確に投げるのって、技術が必要で難しいよね。
三角ベースを走るのって、足が早い人じゃないとすぐアウトになって難しいよね。
そもそもバットにボールを当てるのが難しいよね。

野球は一試合にかかる時間も長い。
道具や場所、人数も必要なので、遊べる場所やタイミングも限られてしまう。

一試合に時間がかかり過ぎるから、得点制度っていらないよね。
遊べる人数だって自由に選べるようにしたいよね。
道具も最低限度だけあればいいようにしようよ。

そうして野球は、ただのキャッチボールになった。

キャッチボールはキャッチボールで楽しいものだろう。
しかし、そこには本来あった野球の楽しさはほとんど損なわれている。

わかりやすい。誰でも楽しめる。効率よく時間をかけない。
そこばかりを追求すると、本来あったはずの楽しさを犠牲にしなくてはならない。

作品の視聴も同じだ。
誰でもわかるように、難解な表現は全部台詞で説明しよう。

何処でもサクッと短い時間で楽しめるよう、無駄な部分は削るべきだ。
戦闘シーンは、流れがわかれば十分だから二倍速で進めよう。
登場人物が沈黙してるシーンは無駄だから、十秒飛ばしで先送り。

こうして映像作品の奥深さは失われて、二倍速・十秒飛ばしを行う者が増えていく。
それはもはや作品鑑賞と呼べるのだろうか?

今、特撮作品をリアルタイムで視聴している人は、早送りもスキップも物理的にできず、自分は違うと思っているかもしれない。

しかし考えることを嫌い、自由な楽しみ方を主張する視聴者は、無意識にこういう状態へと近付いているのは事実だ。

ヒーロー作品をヒーロー作品たらしめるもの

前章では、一見すると無関係な『考えない視聴者』と『倍速視聴者』が、実はかなり近い位置にいる話をした。
倍速視聴者が、その行為を肯定する理由は主に二つある。無駄を省いた効率化と、ストレスの低減だ。

効率化は、作品が増え過ぎたことにより、消化が間に合わない問題が起因する。
これは特撮に置き換えてもそのまま通用する。単純に仮面ライダーやスーパー戦隊、ウルトラシリーズ。これらのどれか一つでも、今から網羅しようとすると、とてつもない時間がかかる。
それに特撮作品はこの三つだけではない。また、アニメや漫画等、他にも追いたい作品なら他にも色々とある人は多いだろう。

ストレスの低減も中々に根が深い。
基本的には、楽をすることを優先して、難しさを邪魔なストレスだと排除する。

仮面ライダーでは、ストレスの溜まるシーンが何話も続くことがままある。
それに対して「全部面白い話にしないのが悪い」と反論する人を以前見かけた。
この反論に対して「その通りだ!」と思う人は、まさしく映像から作品を読み取れない人の典型だ。

物語における基本中の基本として、起承転結の概念がある。
物語では最後の結に向かうまでに、承や転の過程で困難にぶつかり、それを乗り越えていく。

人の成長には学びが必要である。
その学びの過程で人は悩んだり間違ったりを繰り返して、自分だけの答えを探す。

そうして得た答えを自分の信念とする姿に、視聴者は登場人物の成長と、彼が獲得したヒーロー性を感じ取るのだ。

苦難や困難はキャラクターに感情移入すると、それ自体が観ていてつらい部分になる。つまりストレスを視聴者へ要求する。
なんで楽しむためにストレスを感じないといけないの?
そんなシーンいらないじゃん。鬱シーンばっかり続くのツマンナイ! カッコいいシーンだけ観たい!

つらいシーンがドラマには必要だって? それで見るのが嫌になったら意味ないでしょ? 全部面白い話にしないのが悪い!

このように『誰でも楽しめる』とは、観ていて苦しい部分すら邪魔な要素になってしまう。
ヒーローとは艱難辛苦を乗り越え成長し、多くの人々を救うからこそ尊い。はずだった。

楽を求め過ぎると、キャラクターがヒーローに成長する過程すらも邪魔になる。
また、ヒーローが悩み苦しんで掴んだ答えは、制作者が伝えたい作品のメッセージ性なのだ。これこそが、作品としての『中身』である。
成長過程、苦しい部分をサクッと終わらせようとすればする程、人はそこから何も学べなくなる。

それでいいじゃないか。だって視聴者は、楽しい時間を過ごすために作品を観るのだ。
キャラクターが苦しむ姿が観たいのではなく、活躍する姿が観たいだけ。それで現実を忘れてストレスを解消したいんだ。

僕らはヒーローから何も学ぼうと思ってないから!!

ストレスとカタルシスのバランス

誰でも理解できて楽しい作品を理想として突き詰めると、『楽しい』は『楽』に変わる。
視聴者が楽をするために、不要な要素を徹底的に省いたものが最適解となる。
そこにはキャラクターの苦難すらも含まれてしまう。

仮面ライダーは販促的な事情で、かなり大きな縛りを受けていることは既に説明した通りだ。
その中でさえ、各作品は独自の世界観とテーマ性を持ち、視聴者達に何かを残そうと毎年頑張っている。

伝えたいメッセージや作品性が、自分に合わないのは仕方ない。
個人個々に好き嫌いがあるのだから、長期シリーズを全部同じぐらい好きになれというのは無理な話だ。

けれどそれ以前に、キャラクターが苦悩しない作品は、大きな成長もない。
ただただ単調な物語が、毎年繰り返されるだけになってしまう。
最初から最後までストレスを与えない物語なんて、そんなものはギャグ系か、ゆるふわ日常系ぐらいしか存在しない。

たとえ主人公が完璧超人だとしても、周囲の人々が影響され、時には葛藤して成長していく。
シンウルトラマンでも、終盤はハッキリとそういうシーンが挟み込まれていた。
それが致命的なストレスにならないのは、映画という媒体で全体の尺が大きく限られているためだ。

才能豊かな主人公が、一の苦労でニや三の対価を得られることはままあるにしても、十の対価を得たら流石に不自然だ。
しかし、これを不自然に感じない人が増えてきた。
苦悩と成長のバランスの悪さに違和感を持てないから、ストレスがかかること自体を安易に否定できてしまう。

異世界転生モノと呼ばれるジャンルから成長してきた小説、所謂なろう系はその代表格だ。
なろう系の主人公はチートスキルを得て大活躍する。それはつまり英雄かそれに近い存在、要はヒーローになる。
(今となっては、様々に異なるパターンはあるが、かつてから基本は大体こんな感じだった)

冒頭に『前世はごく平凡で、取り柄がないまま不幸な事故で死亡した』、『理不尽な扱いを受けてパーティーを追放された』といった前提条件が与えられ、すぐに人生の逆転劇が始まって楽勝ムードになる。

最初に『ヒーローになっていい動機となる不幸』が与えられるが、ストレスのかかる描写はほとんどが省かれ、すぐにスッキリする展開へと移行。
とにかく無駄を省いたテンポ優先のテンプレート展開であり、『結果有りきの動機』が用意されている状態だ。

特になろう系は、余計な文章を削って誰でもわかりやすくする。
そのため世界観や設定がスカスカだ。文章も安易であり、異世界の描写では違和感のある、現代的な比喩を躊躇なく使う。

遥か以前だと、なろう系の安易なチートやハーレムは、小説の底辺という意味で『最低系』と称されていた。
けれど、読者の環境が現状に慣れると、肯定的な意見が増えて今に至る。

今回は問題点を挙げることを目的としているため、あえて否定的な意見を主体で書いている。
しかし考えない視聴者や倍速視聴が増えてきたように、Web形式のライトノベルを繙けば、これはなるべくしてなった変化だと思っている。

無駄を省いてストレスを与えない流れを極めて行けば、苦悩や苦労の割合が減り、対価となるカタルシスがアンバランスな程に大きくなっていく。

若い世代を中心に、こうした効率化重視のシナリオ構造に慣れてしまった。そうしてストレスのかかる展開への耐性が下がっていったのだ。

作品をコンテンツとして消費する視聴者

視聴者が誰でも理解できるわかりやすい作品を求めだすと、ストレスフリーのため様々な弊害が起こることをここまで解説してきた。
こうなった背景には、既に軽く触れたように作品数増加の要因が大きい。

DVD等で作品をレンタルする時代から、動画配信へと移行して、今や定額で見放題が当たり前。
レンタル店は次々と潰れて、現在は動画配信サービスの戦国時代へと突入した。

この環境では、作品の一本一本の価値は目に見えて下がる。
ひたすら大量の作品を追う者達にとって、『作品鑑賞』は徐々に『コンテンツの消費』に変わっていった。

作品の価値がそこまで低下した現状では、特撮クラスタへの影響も免れない。
制作者側が作品に込められたメッセージを、自分なりに考えて受け取って欲しいと願っても、どう観るのかは視聴者の自由だ。
作った側の気持ちなど、見ている側の知ったことではない。そういう考え方をする者が増えてくる。

そこまで極端に考えてないと思うかもしれないが、中には制作者に対して本当に辛辣な言葉を並べる人はいくらでもいる。
制作者に対する敬意や感謝があれば、そういう発言は絶対に出てこない。

そういうコンテンツ消費社会では、視聴者の望むわかりやすい作品を提供しなければ評価してもらえない。

では、作品の楽しさと奥深さを両立することはできないのか。
言うは易く行うは難し。むしろ最難関だとすら思うが、実はこれを上手くやっている作品も中には存在する。

私はその一例が、先程挙げたウルトラマンZではないかと思う。
例えば、ヘビクラは途中まで敵か味方かわからない、怪しい人物として描いていた。これを終盤の展開でハッキリと異なる流れに持っていく。
作品全体を通してみると、ストレスをあまり感じさせない熱い展開だった。

しかし過去作を知っていて、キャラクターとしての行動や思考をしっかり考えて追っていくと、全然違った事実が見えてくる。
ウルトラマンZを勧善懲悪的だと言ったが、実のところヘビクラの思想は一筋縄ではいかない。そういう多重構造化している。

何も考えずに観ても楽しいが、しっかりと作品を読み取れる人は、さらに深く楽しめる。
わかる人にはわかる人向けの鑑賞方法を提供した、視聴者視点による選択肢。これが幅広い層に満足してもらうための、現状での最適解なのではないか。

作品を考える行為の否定

そもそも、SNSの中では作品解釈的な考察自体を嫌う人も一定数いる。
作品の意図や意味を考えて得た解釈とは、所詮視聴者が勝手に想像した妄想でしかない。
その妄想で「だからこの作品は面白いのだ」と言っても、それは作品ではなく、自分の中にある作品の妄想を披露しているに過ぎないのだ。

本当に面白い作品なら、考察なんてしなくても面白い。
例えば、エヴァンゲリオンはそれ単体でも十分面白く、その上で多くの人が作品を考察してきた。
考察する人がいるから面白いのではなく、面白いから考察をする。
実際、そういう趣旨の発言を述べている方をSNSで見かけている。

他にも、お前の考察は妄想だと、わざわざ私へと突撃してきた方もいた。
もっとも、お前の考察は妄想だから論破してやるぜとヒャッハーしてくる人をわざわざ相手にする気もないので、その時は適当にあしらった。

けれど私は、この考え方を完全に否定するつもりはない。
頭を使わずに見る人程、突き詰めればこの結論に行き着く気持ちもわかる。

考える行為そのものが、彼らにとっては無駄なタームなのだから。
とりあえず観て、楽しんで、ああ面白かったとなればそれで良し。

つまらなかったと感じたら、お気に入りのアルファツイッタラーの発言を盾に作品を批判して、不快に時間を消費させられた憂さ晴らしをする。
これが考えない人のスタンダードな流れだ。

あえて嫌な言い方をしたが、気持ちの共有こそがSNSの醍醐味であり、批判自体も『正義の行為』なので楽しい。つまりは真っ当だ。
「私がつまらないと思ったから、その気持ちを書き連ねた。作品を観る側には感想を言う権利がある」

これは全くその通り。一部の反論の隙もない。
つまらないと思うなら作品から卒業しろという意見の方が、ややヒステリックであるとすら私は思う。

しかし、考察否定派の考え方には矛盾がある。
どれだけ短く簡潔であっても、感想自体が一つの解釈である。

『面白い』にも『面白くない』にもそう感じた以上は必ず理由はあって、後はそれを言語化するかしないかだけの違いしかない。
そして理由を言語化した時点で、それはその人の解釈になる。

例えばAさんは「キャラの掘り下げが足りないから面白くなかった」と作品に否定的な感想を書いた。
これは立派な感想であり、そして映像や台詞から読み取った以上は、それも作品に対する解釈だ。

今度はBさんが同じ作品を観て「この演出はこのキャラの今の感情を表している。だからこのキャラの掘り下げ方が面白い」と感想を述べた。
これもまた同じく、一つの解釈なのは言うまでもない。

そして考察と解釈の間にある差は、かなり曖昧だ。
演出からキャラの心情を読み取るのは解釈の範疇だと言う人もいれば、そこまでいけば考察だと断じる人もいる。
後者の考察派だとしても、異なる演出でもっとわかりやすければ、それは考察ではないと感じる。

じゃあどこまでが感想で、どこからが考察なのか。
百人中の八十人が理解できれば感想の範疇だろうか。それとも九十人か。九十五人は必要? たとえ九十五人が理解できていたとしても、残り五人から見れば、それは考察になるのではないか。
百人中百人だって、千人にすれば九百九十五人かもしれない。残り五人からすれば以下略。

感想も考察も、まずは『自分がどう感じたか』が出発点である以上、本質的にはどちらも同じだ。

どう感じたか。それは何故なのか。そしてそこにはどういう意図があるのか。
そこまで考えるか考えないかの差でしかなく、視聴者というフィルターを通した時点で、どのような感想も考察も等しく同列に妄想だ。
「掘り下げがない」と判断した時点で、掘り下げがなかったという解釈、つまりは妄想のストーリーを自分の頭の中で構築している。

どういう意図があるのかの考察を否定するのは、そこまで走らず自分の妄想(結論)を決めた者が、お前の考えは妄想だと言っているのに等しい。
それはとても有名なことわざで、五十歩百歩と呼ばれている。

視聴者には誤読する権利がある

どれだけ深く考察しても、後の展開や製作者の出した見解と全然違う。これも考察が否定される理由の一つだろう。
私もよく外す。けど、正直なところ外していても特に気にしない。
何故なら、それは作品を観た私が受け取って得た、その時の結論であり解釈だから。

解釈=正解だなんて、最初から思っていない
それに、『制作者がこう言ったから正解』というのも実は間違いだ。

例えば、脚本家が『最期にキャラが死んだように眠って物語からフェードアウトする』シナリオを書いた。
それを監督が、『眠ったように見えて、実は死んでいる』という解釈で撮影した。
その時に、役者は『あえて死んだようにも、ただ眠っているだけにも取れるよう』に演じた。

全部、結果的には同じようなシーンで、どれとも取れる。
さあ、この状態で正しい作品解釈は、一体どれになるだろうか。
答えは簡単。どれでもあって、どれでもない。制作者ごとの解釈がそこにあるだけだ。

同じような状況が、仮面ライダークウガでもあった。
重大なネタバレのためちょっと迂遠な言い回しになるが、途中まではある人物が最後に死ぬ予定で、脚本家はシナリオを考えていた。
しかしプロデューサーがそれを止めて、そのキャラは生き残った状態で終わる。

ただし、監督は監督で、実はそのキャラが死んだ解釈ができるように撮っていた。
皆が生きていると思っているのは、実は別の人物が告げた優しい嘘。
最後に映っているキャラは、その嘘をついた人物の空想の姿だった。

これも、どう作品を受け取るかで、そのキャラの生死は変わる。
生きていても、死んでいても間違いとは言えない。
映像作品とは総合芸術なので、絶対的に正しい答えなんて、実は誰も持っていない。

それでもなお、多くの製作者は何かしら伝えたいメッセージを作品に込めようとする。
そして、視聴者の心に何か爪痕を残したいと思う。

だから読み解く行為そのものが楽しく、そして作品から何を受け取ったのかが重要だ。

この作品のメッセージを私はこう受け取った。どうだ、この解釈は面白いだろう。それを伝えることが、私の趣味である。
時には製作者側からの球があまりに乱れていて、キャッチできなかったりデッドボールを食らったりもする。私にとってそれは『つまらない』理由であり作品批判となる。

また、私は前時代型のオタクなので、受け止める行為は作品に対する礼儀だと考えている。
面白いであれつまらないであれ、受け止めた上で自分の答えを作るのだ。

製作者側も自分の意図が伝われば嬉しいと思っていても、全部伝わるとは考えていない。
自分が作品として世に出したそれを、視聴者がどう感じて何と言葉にするか。それが自分の意図したものでなくても、作り手側の多くはそれで構わないと考える。

ここは受け手側の私が言っても説得力がないので、パトレイバーや天地無用、ダンまち等、多くのアニメプロデューサーを務めてきた真木太郎氏の言葉を引用させていただく。

『当然、人によって受け取り方はさまざまになるけど、それでいいんです。受け手には“誤読する自由”があるんだから』

出典:映画を早送りで観る人たち

視聴者には作品を誤読する自由がある。
作者が作品を公開した後でこのシーンはこういう意図でしたと言っても、面白くないと思った視聴者は『伝わらないものを作ったのが悪い』と言うケースはよく見かける。
しかし、それを誤読したのは視聴者側なのだ。

でも、視聴者側の意見は正しい。視聴者側には誤読する自由があるから。

こう解釈したから面白い。
複雑でわかりにくくてつまらない。
エンディングに感動して泣いてしまった。
演出が下手で感動できない。

どの感想も『視聴者側だけ』で完結する行為であり、作り手の意思は必要としない。全ては誤読する自由があるから成立する。

考察が作品の深みを作る

前章にて、エヴァンゲリオンが『考察しなくても面白い作品』の例とされていたが、こちらも根本的な勘違いがある。
エヴァは確かに名作であり、シリーズを通して90年代とシンエヴァにて、二度の大ブレイクを起こした。

けれど、その評価が常に上り調子だったかと言えば否だ。
初期のTVシリーズでは作品自体が真っ当に完結しておらず、制作の遅れからそれまでの流れを無視した最終回を迎える。
ハッキリ言って、現在の仮面ライダーへの不満とかそんな次元ではなく、あまりの意味不明さにファンは大混乱に包まれた。

本来予定していた形とは異なる状態で出された終わりでは、どれだけ議論を重ねようとも真っ当な答えはでない。
前代未聞の事態に、裏切られた気持ちで怒りを露わにするファンも大勢いた。

その後、新作劇場版が発表されるものの、そちらも制作が遅れてまたも内容変更。公開されたのはTV版の総集編と新作の一部のみだった。
これで更なる不満が起こらないはずはない。

そうして遅れに遅れて、ようやく本当の完結編が公開される。
それもまた、大手を振って迎えられる内容ではなかった。
TV版とはまた異なる方向性で、異様かつ異常な終わり方。

他にも途中、映画を見ている観客を、わざと現実に引き戻すような演出まで入る。
どういう意図であれ、フィクションを観ている最中に、これをやったら怒る人が出るのは間違いない内容だった。

凄まじく意味不明であり、凄まじく議論が起きた。
最後にスッキリしない映画は、観客のウケが悪くなってしまう。これはエヴァンゲリオンだろうと例外ではない。

TV最終回も劇場版も、それこそ庵野秀明氏が精神的に病み、思い悩むぐらい、誹謗中傷も当時はてんこ盛りだった。
というか、劇場版の内容からして既に精神的に病んでるとしか思えないんだけど。

アニメが終わった後も続行された正統な漫画版や、『碇シンジ育成計画』や等の延々と続く関連商品もあった。
漫画版の評価は悪くなかったが、如何せんキャラの性格等で異なる部分もあり、しっかりと設定の説明はあるものの、どうしても『アニメとは違うもの』だった。

様々なゲームやメディア展開はあったものの、本当にファンが納得できる補完はなされなかった。後、ものすごく大量のパチンコ台が出た。
ただし、それらは風化を防ぐ役割を果たし、長い時間をかけて作品への議論は続いていく。

何処までも難解なエヴァに、明確な回答を導くことは難しく、様々な見解や解釈で溢れ返っている。
その中には新旧の劇場版に対して、芯に迫るのではないかと思うものも含まれていた。

そうして、途中に使徒化した怪獣王を挟みつつ、エヴァンゲリオンはシンにて、本当の決着を付けたのだ。

無論、シンがファンにとって絶対的な答えであってもなくてもいい。
ただ、今に至るエヴァの評価は、決して作品単体に依るものではなかった。

ここでもう一つ、真木氏の言葉を引用させていただこう。

『誤読の自由度が高ければ高いほど、作品の奥が深い。……というのは、僕の意見だけど』
出典:映画を早送りで観る人たち

賛否両論、批判だらけだったエヴァンゲリオン。けれど、その奥深さと高い評価は、数多の考察が形作ったものだった。

過去作品の消費と衰退

かつての特撮やアニメは、現在に比べると視聴者に大きなストレスを与える作品も多々あった。
例えば仮面ライダーだと、龍騎やファイズといった、話が重くてメインキャラもよく死ぬ作品が該当する。
これらが流行していた頃に、対抗馬としてウルトラマンZやゼンカイジャーをぶつけたとしても、現在のような人気は得られなかったろう。
当時だと明朗簡潔でわかりやすい作品は、陳腐という扱いを受けやすかった。

現在の作品では、ストレスフリーな視聴状況から外れると評価が下がりやすい。
しかし不思議なことに、現環境の対応度が低いはずの過去作品は、作品評価については安定して高いものが多い。矛盾した状態だ。

この理由は、昨今の調和性にあると思われる。
過去作とは既に一般的な評価や解釈が終わっている作品だ。

例えば、エヴァンゲリオンはシン・エヴァが興行収入百億を超える記録を残してシリーズを終えた。
二度に渡るヒットを起こした大名作として、一般的には語り継がれている。

そのため過去にあった多大な賛否両論や、容赦のない批判が蒸し返されることは少ない。
シンエヴァの最終作が公開される前は、Qに対する批判がそれなりに残っていたが、それすら大部分が吹き飛んだ。

また、誰かに作品を教える場合、基本的には相手に見せたいから作品を教えるケースが多い。
それなりの知名度があれば、当時の評価は散々でも好きだったという人はいる。
そして人間には思い出を美化する機能が備わっており、今思えばそんなに悪くなかったという声も増えていく。

だから、基本的には特徴や面白い部分を掻い摘んで紹介されやすくなり、放送当時より評価が向上しているケースはよくある。
予め評価付けが既に完了していて、しかもポジティブに寄り易い。
(実写版デビルマンクラスのような、伝説的に駄目過ぎてネタにされる作品は例外。それはもう、一周回って愛されている)

また、ストレスフリーを望む視聴者はネタバレを気にしない。それどころか、ハズレを観ずに済むよう自分から踏みにいく。
最近の映画は、公式によるネタバレ映像の公開がやたらと早い理由も、これで説明可能だ。

このご時世だと、本気でネタバレを踏みたくない人は極力さっさと観る。
だから狙いは『話題らしいけど、二時間も消費して高い料金を払うぐらいに面白いのかと迷っている人』だ。
話題性が落ちればさらっとスルーされるので、シンウルトラマンは遠慮なく面白い部分を切り貼りしたPVをバンバン出した。

ストレスフリーで作品を楽しみたい人は、ネタバレよりも失敗しないことを重視する。この仕組ならば、後続が過去作を観ても新たに批判が湧き出す確率が下がっていくのだ。

特撮クラスタとしてみれば、争いが起こりにくいのである意味平和ではある。
けれど、別方向で見えない問題が生じているのも事実だ。

過去作や長期シリーズ化されている作品を履修する場合、倍速視聴やスキップが多用されやすくなる。
例えば、シンウルトラマンが公開された当初、『映画の視聴前に、とりあえず抑えておけば良い話はどれか』を求めた人は多くいた。

本来なら、一話から全部観るのがベストなのは間違いないけれど、それだけの時間と体力がない。
だったら作品を楽しむために、最低限押さえるべきポイントを知っておきたい。

この場合、シンウルトラマンについては作品鑑賞であっても、ウルトラマンはコンテンツの消費であり、倍速視聴者の行動だ。

ちなみに自分は倍速視聴はしないが、視聴方法として受け入れるスタンスの人は「面白かったら、倍速ではなく普通に見直してくれるかもしれない」とポジティブに考える。けれどハッキリ言ってこれは現実的ではない。

何故なら面白かったら二周して鑑賞し直す行為は、100%作品を味わおうとする『鑑賞者』の考え方だ。
彼らにとっての視聴はコンテンツの消費だから、もっと根本的な部分で思想が違う。

消費者は、最初から100%で味わいたいとは思っていない。
倍速視聴によって30%やそれ以下の面白さになっても、それで満足している。

むしろ視聴時間が短縮されたことをお得に思う。これはウルトラマンで、最低限の話数だけ観る人の思考も同様だ。
そういう人が、シンウルトラマンを観終えた後、わざわざ一から全部繰り返して観るだろうか?

それは絶対にいないとは言い切れない。こういうエクスキューズを投げかけると、「俺はちゃんと全話観たぞ」と反論する人は必ず現れる。しかしながらそれは、ノイジーマイノリティーでしかない。
シンウルトラマン後に観るものは、ウルトラマンを一から完全に再視聴ではなく、また別の新作である確率がずっと高いことは、容易に想像できるだろう。

逆のパターンとして、過去コンテンツの消費で最初の内につまらないと見切りを付けたら、後はずっと倍速とスキップ。場合によっては最終回だけ観てさっさと終わらせる。そして次の作品へ……。

鑑賞者にとっては高級ステーキでも、消費者にとってはポテトチップス。
ポテトチップスが美味しかったからと言って、もう一袋買ってきて、一枚ずつ丁寧に味わって食べることはない。
不味かったら無理やり全部食べずにさっさと捨てる。ただそれだけのことだ。

ただし、ポテトチップスのヘビユーザーがいるように、面白かったので見直すケース自体は確かにある。
その場合だと、二週目移行は丁寧に全部見直す……という方法ではない。
一周目で面白かった部分のみを抽出して何度も観るのだ。

これもやはりストレスフリーの視聴姿勢だ。
推しキャラの活躍シーンなど、安心してストレスがかからず楽しい部分だけをひたすら繰り返す。
好きな部分だけ楽しんで、残りは破棄する。一度飛ばした部分に二度と価値は宿らない。

作品の再評価を期待して倍速視聴を容認している人は、結果的に作品の衰退を傍観する立場になっている。せめてそこだけは知っておいた方がいいと思う。

オタクが消滅する日

頭を使わずに誰でも楽しめる、ストレスを感じさせない映像スタイル。これは時代が生み出した新しいカタチのコンテンツである。
オタクは一般化していく中で、そういうスタイルに順応しつつある。
その結果、オタクはこれからどうなっていくだろう。

かつてのオタクとは、とても面倒くさい生き物だった。
例えば、SFアニメオタク達はガンダムやロボット作品のリアリティを追求して「こんな設定はあり得ない」と否定したり「いいやこういう解釈をすれば実現可能だ」と反論したりを繰り返す。
巨大ロボットのロマンに燃えるオタク達は、否定と肯定をすることで、フィクションと理屈を結び付けリアリティを維持しようと戦ってきたのだ。

考える。読み取る。自分が納得できる楽しさを、そうやって見出してきた。

それは特撮でも、アニメでも、他の媒体でも全部同じだった。
美しい情景からキャラの心情を投影すべきだ。
主人公はもっと苦悩すべきだ。
この苦難を超えたら、カタルシスでスカッと気持ちよくなれる! ああ、なんてヒーローは素晴らしいんだ!
その過程から僕達も一緒に学び、作品のメッセージを受け取り、主人公と一緒に成長しよう!

だから作品を観てあれこれ考え、意見を交わし合う。時には、解釈の違いから論争になることも少なくなかった。
雑な解釈や、半端な知識を披露する者は、マウントを取られてボコボコにされた。

かつてのオタクは、自覚的であれ無自覚的であれ、そうやって作品を味わい尽くす気概の者達が多かった。
そういう在り方や文化が絶対に正しく、これがオタクのあるべき姿だとは言わないし、言えない。

時代が移り変わり、尊重し合う形になったことで、皆が気軽に作品へ触れやすく鳴った。
思い思いに作品を楽しむ自由の大切さも、よく知っている。

人の解釈や答えは、それぞれにあるべきだと思う。
作品の鑑賞や味わい方だって、やっぱりその中に入る。
だったら、ストレスを否定する考え方や、倍速視聴だって認めなければ矛盾する。

コスパ良く、ストレスなく、欲しいものだけを接種する。
倍速視聴や十秒飛ばしはそういう効能を得られる。
けれどその結果、本来作品から得られるはずだった十の面白さは、せいぜい一かニ程度になってしまう。

当たり前だ。それはどのような作品だったかを真に理解できておらず、ただ『観た気になっているだけ』に過ぎないのだから。

また、台詞で全部説明せず、映像から読み取る従来の作品は、倍速視聴に合わないため衰退しやすくなっていくだろう。

作品を見ずに、コンテンツとして消費するだけの人を、オタクとは呼ばないと私は思う。

しかし、これは個人的な感傷に過ぎないのだろう。老害と呼ばれる虚しいこだわりだ。
倍速視聴で十分だ、むしろ早くストレスなく観れてお得だったと考える人も、現実に結構いる。多分これからもっと増えていくだろう。
正直なところ、今は嫌がっていても、私もいずれ倍速視聴に順応する日が来るとも思っている。

平成ライダーの賛否両論が時代に流され、いつしかなかったことになり、純粋に名作と呼ばれるようになるのと同じ。
今多くの人が抱える嫌悪感は忘れられ、倍速視聴者は普通の行為になる。
そうやって作品に対する面倒くさいこだわりを全て捨て去った時、そこにはもうオタクと呼ばれた人種はいない。

後に残るのはコンテンツだけ。
それもかつてのような形ではなく、『美少女』とか『テンプレート的な設定』とか『時代に合わせた勧善懲悪』といった作品を構成する要素や概念だろう。

それらは、かつてオタクと呼ばれた者達が生み出していった遺産のようなもの。
そういう要素を繋いで、オタク作品は末永く生み出され続ける。きっとそれは面白い作品でもあると思う。

けれど、その頃にはオタクはもう『個人』や『文化』ではなく、オタクという『ジャンル』になっているだろう。

音声版:第四章

【次ページ:最終章:SNS社会を楽しく生き抜くためのオタク道

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