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なぜSNSのオタク界隈は荒れるのか ~特撮界隈から見るSNS社会とオタク文化の闇~

2022年8月5日

オタクの世代間ギャップが作った荒れるSNS構造

若者がSNSを荒らすのか?

現代と過去の異なる部分として、ここまではマーケティングの変化を解説してきた。
これから語るのは、もう一つの大きく異なる要素。視聴者側の変化である。

視聴者だと、主に荒れる原因として挙げられるのは一部の困った人と、十代の若い世代が多い。
特撮は近年特に勢いがあるジャンルでファン数も増えている。大きいクラスタならば、相対的に困った人の数も増えてしまう。
とはいえ、こちらはいつの時代でもいる、ごく一部の方々として今回は置いておく。

問題は後者の若い世代である。
個人差があるのは当然として、若者と老人なら平均的に感性が強いのは前者だろう。
その分感情的になりやすいと言えば、それも否定はできない。

それでも「いつの時代も十代は〇〇だ」と声高に叫ぶのは少々横暴だろう。
今の若者は盗んだバイクで走りだす歌を聴いても共感できない(私の時代でももう一昔前で漫画の世界だったが……)。
人間である以上一定の傾向はあるにせよ、若者の行動様式が時代を超えて変わらないと誰が言えるだろうか。

時代と共に人は変わる。
今の若者がそこまで血気盛んかと言えば、少なくとも盗んだバイクで走る世代よりは大人しい。
じゃあどれくらい盛んなのか? 十年前の十代と、二十年前の十代とどこがどう違うのか。
そこまで含めた上で『今の十代の感性がどれだけSNSを荒廃させるか』を特撮クラスタで解説している人は、今のところ見たことがない。

少なくとも「今の若者がー」と声高に叫ぶ人が思う程、今の十代は他人に対して攻撃的ではない。むしろ良い子ですらある。
しかし、この『良い子』が必ずしもプラスに働くとは限らない。

それにこれは、若者に限った話ではない。
今の三十代や四十代も、二十年前のそれらと全く同じではいられない。

つまり、年齢だけでオタクの質を括るのは暴論になりかねない。
いつの時代も人に最も強い影響を与えるのは年齢ではない。時代の背景にある文化と生活様式だ。

界隈という名の村社会

私の世代は、所謂インターネット老人会に含まれる。
わしはのぅ、中学生時代から六年程、楽天ブログを使用していたのじゃ。その日あったことや、何となく思うことをつらつらと書き連ねておった。ブログがまだ『日記』と呼ばれておった時代じゃよ。
あしあと。カウンター。キリ番。踏み逃げ禁止……うっ、頭が……。僕はまだピチピチのピー歳です。

ホームページビルダーを使って、自分のサイトを構築している者もいた。
企業ではなく個人がサーバーを立てて、無料で貸し出しすることがあった時代である。

この頃は、場所に囚われずネットで他人と交流できること自体が画期的だった。
人と人との繋がりは、リンク集等で繋がれる離れ小島的な個人サイト。楽天やヤフーなどが運営するレンタルブログ。2ちゃんねるなどの匿名掲示板サイトが主流だった。

今だとブログや記事と呼ばれるそれらは、日記帳的なニュアンスで扱われていた。
気軽に短文をポンポン投稿して、個人の発言をRTで情報拡散したり、ネットで拾った動画や記事をシェアしたりなんて概念はない。
動画やちょっとしたゲームは相応に技術のある人が、Flashと言うもので製作する特殊技能だった。

携帯電話はメールと通話での使用がほとんど。人によってはケータイサイトを見るために使うが、ネットでのサイト閲覧はPCが主体だった。現在では立場が大きく逆転している。
アプリ? 携帯使って動画配信? なにそれ。ネット通信でサイトを表示できる最大容量は100キロバイトやぞ。
GIFは動画じゃなくて、サイト表示の容量を落とすために使うんだよぉっ!

なんかね、もうね、この時代を昭和の白黒テレビみたいな感覚で語るの心が痛い!
その後はmixiができたり、Twitterができたり、You Tubeなんていう動画サイトができたり、ニコニコ動画でコメントが流れたりした。
PCでSkypeをして、ガラケーがスマホになって、日本の携帯電話がどれだけガラパゴス化していたのか思い知る。モバゲーがサイトを通してゲームを配信して、ガチャの課金地獄が始まった。そうしてようやく、アプリという形でSNSを活用するのが当たり前になっていく。

なんのこっちゃわからない者達は、つまり今の『おっさん(あるいは淑女)どもは段階を経てSNSという文明の利器を手にした』と理解してくれればいい。
古のインターネッツ老人達は「あーそう言えばそうだった」とか「怪盗ロワイヤルとか懐かしくて死ぬ」とか自分達が歩んできた歴史を思い出したろう。

つまりだ、人類はネットを使い徐々に距離や時間の概念を崩し、LINEやTwitterを使って24時間繋がるのが当たり前の環境を作った。
今や日本という国が、一つの巨大な村社会になってしまったのである。

今の若者は同調平和の世代

お隣にお醤油を借りる感覚でRTしていいねしてリプる。TwitterやLINEなどのSNSで、二十四時間いつでも誰かから気軽にメッセージが飛んでくる。スマホでの常時ボーダーレス状態が、家にテレビや冷蔵庫があるのと同じように、当たり前に存在していた世代が今の十代だ。

学校の休み時間や放課後の雑談が、家に帰ってからもSNSで当たり前に持続する。
ならば、生活の大部分を支配するこの輪から外れる孤独と疎外感は、果たして如何ほどだろうか。

SNS以前のリアルとネットの生活は、境界線が曖昧でもそれなりに別物だった。しかし現在は、そのボーダーが限りなく薄くなってシームレス化が進行し続けている。

こういう社会で生きていくためには、相手を肯定して受け入れることが重要になる。
普通と違う。それはかつてからイジメや一人ぼっちを生み出すものではあったけれど、今はもっと気軽に孤独感を味わえる要素となった。

『普通』の枠から外れていけばいくほど、SNSの会話に付いていけなくなり発言権を失う。そして繋がりの輪からはじき出されていく。
そうならないよう、皆が好きなものを自分も好きになり、皆が観るものを自分も観る。輪の中に留まり続けることが大事なのだ。

ボーダーレスの輪に居ることが日常のルーティーンになると、『SNS上では他人に同調するのが当たり前』という生活習慣が、多かれ少なかれ身に付いていく。
有名なネットミーム「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」が生活に染み込んでいるのだ。

出典:ツギハギ漂流作家

おわかりいただけただろうか。
SNS社会に順応すればする程、他人に対する攻撃性は失われていくのだ。

本章の冒頭で最近の若者は良い子化していると書いたが、それはそうあることが処世術だからである。
こういう話をすると、それは陽キャの話でしょ? こちとら陰キャオタクの巣窟、Twitterですよ? と反論がやってくるだろう。
しかし、陰キャには陰キャなりのグループがある。

まだオタク差別がそれなりに残る時代に学校生活を営んでいた私にも、クラス内にオタク友達はいて、グループを作っていた。
オタクは別に好き好んで孤独になるわけではないから、グループがあれば積極的にそこへと属する。

また、昨今だとオタク差別の流れは着実に減少している。
むしろ、オタクを憧れの対象として扱うケースすらあるのだ。
驚くべきことだが、これは偶然そうなったわけではない。

オタクの一般人化とその理由

現代の若者とは個性を求められる。
ナンバーワンよりオンリーワンの重要視される時代性は、ゆとり世代から二十年以上継続されている。
しかし、その個性は若者のグループ文化と相性が悪い。

例えば、個性として「フィギュアスケートを子供の頃から習っています」と言えば、その場で一目置かれるかもしれないが、ただそれだけだ。
普通から外れたその特技は、SNSによってグループ化された中では共有の話題にはならない。
要するに個性が過ぎれば普通の中から『浮く』のだ。

ここでオタクという『趣味』の出番である。
彼らにとってオタクとは資格のいらない特技である。極論、とりあえず何でもいいからSNSで有名な漫画を読んでおき「僕はオタクです」と言えばオタクになれてしまう。

一昔前に問題視されたファッションオタクは、現在だとほとんど攻撃対象にならなくなった。
かつてのオタクは『なる者ではなく、なっている者』だった。その過程である程度の知識と教養が養われている。

そのため相応の知識を持たない者は、にわかやファッションオタク扱いをされて、偽物のレッテルを貼られる。
ワンピースやドラえもん等、国民的アニメを観ているだけでは駄目。それなりに新作で、オタクが好むオタクらしい作品を、幾つかは押さえていないと厳しい。

ちょっとした個性付けで人気を得ようとした幾人の芸能人が、これで痛い目を見てきたことだろう。
そのためたとえオタクであっても、自らにわか宣言で勉強中の身ですとアピールして、チェックの厳しいガチ勢から己を守る者もいた。

しかし、現在では『にわかだろうと好きならそれで良し』であり、にわかを叩く行為は老害として逆に侮蔑の対象になる。
それを象徴するのが推し文化だ。
「ワンピースが大好きで、推しはサンジです」と言えば、たとえまだ全巻読んでいなくても、とりあえずオタクとして輪に入れる。

それぐらいオタクのハードルは下がり、もう跨ぐレベルに至っていると思う。
オタクが『なろうとしてなれる者』化したことにより、コミニュケーションツールへと変化して一般人へと溶け込んでいるのだ。

おじさん世代の無敵の人化

最新世代にとってのオタクとは『コミュニティ』であり、繋がるためのツールと言える。
対して前世代のオタクとは『アイデンティティ』である。

オタクとは己の生き様であり、そして存在として認めてもらいたいものだった。
なんせオタクであるだけで、性犯罪者とか犯罪者予備軍とか言われていたのが、ようやく薄らいできた時代である。
オタクであるが故に、自己肯定と自己否定の狭間に生きる者達だった。

故にオタクとして、自己の感想や評価に対するプライオリティが高い。
要するに他人との調和より『自分がオタクであること』の方が重要なのだ。

また、SNSとリアルの生活が切り分けられている高齢層の方が、SNS内で他者から外れても失う物がなくて好き放題に動きやすい。

昨今のワードなら無敵の人化していくのだ。
最近、趣味を持たない四十代のおじさんに友達がいない、孤独化問題が話題になっていたけれど、つまりこういうわけである。

加えて三十代以上のオタク達の多くは、今よりもずっとアングラで匿名性の強いネット時代を経験してきた。
今でこそ、誹謗中傷は厳しく罰せられるべきとの風潮だが、一昔前はもっと甘い認識だった。

2ちゃんねるが全盛期だった匿名性時代では、暴言に対する開き直り方が独特だ。
自分達の書き込みを『便所の落書き』と称して、グダグダ言うのはみっともないという姿勢で、誹謗中傷やそれに近い発言を正当化していた。
これは固定の名前を嫌い、似たような口調で発言することが当然の、顔も無く『自己』をできるだけ消す集団だったから成立する理論である。

だからと言って誹謗中傷が許されるわけではなく、裁判沙汰は何度もあった。犯行声明的な書き込みがあると警察も動いており、逮捕者も出ていた。
誰でも見れて、誰が書いたかもわかる便所の落書きは、しっかりと裁かれる対象だ。

それでも当時の空気感で今を生きる者は、Twitterはクソリプこそが本質であり醍醐味だと考えるケースがある。
『火事と喧嘩は江戸の花』気取りの露悪的な方々は、本質的に無敵の人と近い立ち位置だ。

そういう無敵の人な気質とはいえ、特撮オタクという趣味があるので完全に孤立化しているわけではない。かと言って、最新世代のオタク達のように周囲との調和も重視しない。
だから堂々と「俺の意見をくらえっ」が出来てしまうのである。

必ずしも2ちゃんねるを通ってきたとは限らないにせよ、SNS上での無敵の人タイプにはいくつかの特徴がある。

匿名性によってリアルの自分とは切り離されており、その場での横柄な態度で居場所を追われる恐怖があまりない。だから他人を殴っても平気のメンタリティーなら、直接リプや引用RTで攻撃したり、平気で他者の悪口を書く。

RTをして、その後に攻撃的な発言をする。自己保身も兼ねた、空リプと呼ばれる行為をする人も多い。
またはスクショを撮って自分は安全な状態から、相手だけを一方的に晒して攻撃する。

不快な相手は攻撃したいけど、自分が殴り返されるのは恐い。
だから、相手からはできるだけ見えないようにして、一定の安全を担保にして批判する。

これはこれで、ネットウォッチャーを発展の源流とする2ちゃんねるの思想性に近い。
こういう人達にとっては、自分の攻撃は便所の落書きに類するものなのだ。

他にもよく見る特徴としては、以下の二種は失うものが極端に少ない。つまり匿名掲示板時代の空気感を強く残していると言えるだろう。

交流を目的とせず、自分の感想や考察を独り言として呟くことを目的とした、壁打ち系アカウント。
全てがデフォルト設定でプロフィール情報もほぼ皆無、ツイートはほとんどが他者へのリプライばかりの捨てアカウント系。

『自分の意見と違う』という理由で多くの方々からご意見を頂いた経験がある私だが、直接的に心無い罵倒や攻撃的な言葉をぶつけてきたのは、結構な割合で上記二タイプのアカウントだ。
質問箱やマシュマロからの一方的な批判も、匿名的な攻撃としては有名だろう。

なお、身の安全を確保することが目的の捨てアカウント系はともかく、壁打ち系の人が全員悪質な方々なわけではない。
徹底した壁打ち系の人は、一切他者へ絡まずツイートし続けるためほぼ完全に孤立している。
攻撃的なのは、他者への批判も含めて『言いたいことを言うために壁打ち系と名乗っている』タイプであり、こちらは半分くらい捨てアカウント系に足を突っ込んでいると私は思う。

自分の意見を言えるだけで褒められる

私が色々とご意見をもらう身と言っても、体感的に八割以上は賛同である。渡る世間の鬼は少数派だ。
Twitterやブログで作品の感想や考察を好きに書くと、ちょくちょく「他人の否定意見を気にせず、好きなものをどこが面白いか解説していてすごい」とお褒めの言葉を頂戴してきた。
それ自体はとても嬉しい。マジでありがとうございます。
けれど同時に「え、なんで? 自分の好きなものを語ってるだけなんですけど?」と不思議な感覚があった。

しかし現在のSNS文化を理解したことで、ついに自覚してしまったのだ。
彼らは周りの空気が批判的な時に、自分が好きだと語って攻撃されるのが恐い。
嫌な気持ちになりながらも、声の大きい側がマジョリティーだと思って空気を読んでしまう。

そこでハッキリと自己主張ができて、ある程度評価もされる人間は、リスペクト対象になるのだろう。
要するに私氏、自覚がないうちに軽く無敵の人化しかけていた!!!!

この手の恐れ知らずは、周囲と乖離しても知ったことではない。
実際に仮面ライダーゼロワンが一番荒れている時期に、堂々と肯定的な記事を投げ込んでバズったことがあった。

当時……というか、今のリバイスでも似たようなことはしている。

素直な気持ちで言えば、私は周囲との調和や、多数派の意見なんぞ知ったことではないと思っている。
あるのは「私の作品の読み取り方が一番面白い!」の精神だ。

ただし、この精神で賛否両論の流れに突っ込むと相応に敵も作る。
特に、ネガティブなツイートは容易く炎上の原因となってしまう。

過去にあった事例なら、『ライダーやスーパー戦隊は男の子のコンテンツなので、女の子が見ていたら泣くまで馬鹿にするべき』という趣旨のツイートで大炎上した人がいる。
発言内容からして、大変残念な人なので炎上して当然だと私も思う。
これは古オタク特有の、アップデートが出来てない考え方だ。他人の意見より、己の意思を通したいからこそ言葉にしてしまう。
(古い作品でもタックルやモモレンジャーが当たり前にいるのだから、やっぱり的外れなんだけどね)

この残念な例は別にして、三十代以上のアイデンティティー系のオタクは、知識も経験も若いオタクに勝る。
若さ故に知識が少ないまま語る人に対して、物申したくなる感情を持て余しやすい。

実のところ、最新型のオタクより、古いオタクの方が内包している攻撃性は高いと私は考える。
もちろん、大多数の人はそれをむやみに周囲へ振りかざさない自制心はある。そのため、一方的に古いオタクが悪いと言いたいわけでもない。

しかし、この特性が特撮界隈の荒れやすい事情と無関係とも言えない理由がある。

正しい行為なら相手を叩いていい

ここまでで、現在の若い世代とは攻撃性が低く、上の世代にいるオタクの方が攻撃性が高くなりやすいと説明してきた。
では、若い世代の彼らは荒れる要因となり得るのだろうか。実は大いにある。

彼らの平和とは同調によってもたらされる。
平和なグループを維持するために相手を否定しない。全員の意見が揃っているなら、争いは起こらないからだ。

また現在は様々な作品が世に溢れており、とにかく流行を追ってグループ内でその情報を共有する。
一グループ単位なら、ここで意見を揃えるのはさほど難しくない。

しかし、輪が大きくなればなるほど、意見の統一は難しくなってくる。
するとどうなるか。人は輪を重んじれば重んじるだけ、調和を重視するようになる。パーフェクトハーモニー。完全調和こそが理想だ。

これは狭いコミュニティ程安定しやすい。逆に広いコミュニティ、それこそ十万単位は確実にいる特撮界隈だと絶対に維持できない。賛否両論の意見割れが発生する。

平和を愛する心は、その環を乱す者に対しては強い攻撃性を発揮する。誰にでも別け隔てなく優しいアンパンマンも、平和を壊すバイキンマンに対しては修羅と化す。
同調とは褒めるばかりではない。批判も同様に対象となってしまう。

他の人が批判していたら、これは悪いものだと同調して、自分もその中に加わることで平和を維持しようとするのだ。

これは逆に、上の世代程起きにくい。
彼らは『自分の意見』が大事なアウトローなので、他人の意見には関心が薄い。
自分が意見するなら、他人が意見することも同様に扱う。これはこれで結果的に相手の意見を尊重することになる。

もっとも、自分の意見を否定されるのは大嫌いなので、相手から直接攻撃されると容赦なくそれは違うと反論する。
まさに私がこの類である。反省しろよ自分。

つまり、調和を大事にする者は、自分が発端で攻撃的にはなりにくい。
しかし場が乱れると、調和を保つため攻撃的になりやすい特性がある。

皆で仲良く横並びして、出る杭は叩く。
そして厄介なことに、人間は突出する者を引きずり下ろす正義の行為に快感を得るように出来ている。
何故ならこれは、皆のために平和を守る行為とイコールだから。

これをシャーデンフロイデと呼ぶ。
もっとわかりやすく言うと、当ブログでは考察等で最もよく使うフレーズ「正義のためなら人間はどこまでも残酷になれるんだ」の状態である。

人間が誰しも持つサガであり、一定の条件が揃うと誰でも発生する。そしてSNS社会ではこれが起きやすい環境にある。
だったら一番影響を受けやすいのが、最もSNS社会に順応している若い世代になるのは道理だ。

テラーノベルのモラルハザード

若い世代を中心として起きたトラブルであれば、最近だとテラーノベルの実例がある。

テラーノベルは小説投稿アプリだ。
ラインのような形式で、背景とアイコンを設定して、吹き出しを付けて会話するような形式の小説を誰でも簡単に作れる。
機能性だけを見れば、かなり完成度の高いアプリであると思う。

こういった台本型の小説は、2ちゃんのSSからケータイ小説まで、長年幅広く活用されてきた。
他の形式よりもサクサク書けて、小説初心者にも取っつきやすい。

しかし書き手に若い世代が多く、それ以上の年代が極端に少ない環境だと、モラルの維持が問題になった。

具体的には、自作の小説表紙に、他人が描いたイラストを無断転載で使用する。
二次創作だと、小説中に表示されるキャラアイコンで、公式のイラストを無断使用する者が多発。
規約で禁止されている、成年向け要素の強い作品も大量にあった。

Twitterの治安だってお世辞にも良いとは言えないが、ここまで堂々と露悪的ではない。
こういった問題は本来、運営が対処すべきものだ。

例えば、最も有名な小説投稿サイト『小説家になろう』は、プロ作家の登竜門的な要素もあるため著作権等の規約違反には厳しい。
性的な要素も同様だ。人気取りに性描写を多様して警告が飛んだ事例は、過去に散見されている。

テラーノベルは、いずれも大部分が放置状態。著作権違反への対応も、手間がかかる上に対応が遅いとの指摘がされていた。
これらは大炎上したことで、ようやく重い腰を上げて対応が始まったようだ。

ユーザーによる自浄作用についても壊滅的だった。
既に述べたよう、若い世代にとって大事なのは調和であり、それが可視化されたバロメーターとして『いいね』をもらいたい。

小中学生のユーザーが多いことから、子供達による内輪のノリが、そのまま拡張されたような状態になっている。
根本的な知識の無さも相まって、皆がやっているからそれが『普通』のこと。
倫理的な意味でのここまでは良し。これ以上はアウト。そういった線引きが曖昧化してしまう。

少数派や外部からの批判は、完成している調和を乱す者なので、まともに耳を傾けようとしない。

Twitter内の倫理観もややローカルルールなきらいはあるが、二十代以上も大勢いるため、アウトとグレーゾーンの分別は自分の中で整合性を付けている。
そのため、アウト判定をした相手には容赦をしない。
世代やクラスタ毎でも、このゾーンは激変するので、それを分別する能力も要求される。

無責任かつ無慈悲に燃やす者と、自分のモラルに従いながらバズりを狙う者達が混在する世界では、テラーノベルのような開き直りは通用しないのだ。

ただし今回は大炎上したことで、自浄作用も一気に活性化し始めた。
元々ルールを守っていた者達が、ここぞとばかりに大声を上げて注意喚起を始めている。
今回の炎上によって、これまでは空気を読んでサイレントだった者達の一部が動き出したのだろう。

そして、ルール違反だったのだと正しく認識した者。場の空気が変わったことで動いた者。彼らによる修正や謝罪の反省文で溢れかえり、結構な混乱状態になっている。

正義とは調和であり、モラルとは限らない。
テラーノベルは、運営が杜撰なことで、若い世代が抱える問題をわかりやすく可視化したのだった。

特撮界隈が荒れる最大の起点はアルファツイッタラー

若い世代は基本的に調和を愛する平和主義であると同時に、周囲の環境に影響を受けて過激になりやすい。
この二つの要素は切り離せない。

では、全体の環境に強い変化を与えるのは誰か。
これはオタクをアイデンティティーとして、自分の意見を重視する上の世代だ。

しかし、そもそもSNSでは、個々の発言が他人に与える影響力には大きな個人差がある。
ならばその指標を何処に置くか。それはバズりツイートである。
大量のRTで広く拡散されて、同時に多くの『いいね』を獲得している。特に『いいね』が一人一回であることからも、それは民主主義の投票に近い価値を持つ。

中にはメモ機能のように『いいね』を使う者もいるが、名前からして多くは賛成の意として使用する。
そのため大量の『いいね』を持つツイートは、それ自体が界隈の民意として扱われるのだ。

SNSは村社会的な要素を持つ故に、立場的な上下は確実に存在する。
フォロワーが数十人程度の一個人が、多少作品の愚痴を吐いたところで、TLという大河に流されてスルーされる可能性が大だ。
良くて『いいね』が数個、一つでもRTされればラッキーくらいなもの。

言い方は悪いが、他人に影響を与えるスキルが低いからフォロワーも少ない。
(あるいは壁打ち系のように、意図してそうしているケースもあるけれど)

逆に界隈の上位にいるのが、Twitterならアルファツイッタラーと呼ばれるインフルエンサー達だ。
彼らは自分が属する界隈内で、RTと『いいね』を稼ぐ方法を熟知した者達でもある。
そのため、荒れる話題が一気に広まるのも、彼らの影響が恐ろしく大きい。

アルファツイッタラーにも作品の出演者といった有名人や、人気イラストレーター(神絵師)等多岐に渡る。
今回の場合であれば、作品の感想に関わるアルファツイッタラーが該当する。

はてさて、ここで非常に残念なお報せだ。
私はフォロワー一万人以上で、これでも一応特撮系ネタを中心に、割としょっちゅう三桁RTや四桁いいねをゲットしている。
特撮クラスタだけに絞れば、一応アルファツイッタラーに分類されてしまう一匹である。

犯人!! 私もじゃん!!!!

なお、フォロワー1万以上10万人未満は、マイクロインフルエンサーと呼んで五段階中三段目に位置するらしい。同人なら中堅サークルってところだろうか。
調べたサイトによると、ある程度人気が出てきたブロガーやユーチューバーが大体ここに入ってくるそうな。とても生々しい位置だ……。
なお、フォロワーが三桁以下でもバズる頻度が高いなら、十分アルファツイッタラーに分類される。逆もまた然り。

素直な所感を述べると、私は自分がその類の人種であるという自覚は薄い。
たまに知り合いから「お前もその類の一人だよ」と言われて、そーなのかーと思う程度だ。

とはいえ、ここで下手に謙遜すると責任逃れのように扱われてしまうのも困る。
それでも、私の影響力はアルファツイッタラーの中だと比較的緩い。という言い訳を先にしておくが、その理由もこれから説明していく。

アルファツイッタラーが最初のナプキンを取る

彼らの感想系の発言は、特撮クラスタ全体の空気感に大きな影響を与え得る。
その理由は、これまで説明してきたSNSの調和性だ。

界隈の中で調和を重んじる者程、突出することを嫌う。『普通』の中に属しようとする。
そのため安易に『自分だけの意見』を持ちたがらない。

調和重視の彼らにとって、バズりツイートへのRTと『いいね』が意見表明に該当する。
そしてバズりツイートの常連であり、自分の気持ちを代弁する者がアルファツイッタラーなのだ。

バズりツイートで何度も同じ顔(アイコン)を見かけると、界隈内での有名人だと思い、「この人の発言なら信用できる」と判断するようになっていく。
やがて賛否を判断する場面に遭遇すると、自分で決めるよりもまず「彼ならどう考えるだろうか」と、自己の判断を保留するようになる。そしてアルファツイッタラーの判断を見て、安心して自分の意見とするのだ。

つまりアルファツイッタラーとは、多くのTwitterユーザーにとって転ばぬ先の杖である。
もちろん、他のSNSやYouTuber等から情報を得て指針にしている人もいる。単純に、Twitterにいる人ならその界隈にいる有名人の発言が目に入りやすいだけで、行き着く結果はどちらでも同じだ。

アルファツイッタラーはこういう流れと、自分の立ち位置には結構自覚的だ。

自分のツイートがしょっちゅうバズれば自己承認欲求がバンバン満たされて、その快感が癖になってしまう。
自分は周囲から一目置かれる存在であるという意識は、ここでほぼ確実に芽生える。
そのため、SNS内におけるヒエラルキーや構造的なものは、たとえ自分の中でハッキリと言語化できていなくても感覚で理解しだす。

狙ったものか否かに拘わらず、彼らは共感者が増えていく中で、自分の立ち位置や思想が固まっていく。
そのため、彼らの多くはトレンドや界隈の空気を敏感に察知し、それに乗った発言をするのが上手い。

より多くの共感を得るよう、より多くの人からの注目をあつめるよう、自然と自己のキャラを作り上げる。
そうしている内に、いつしか『この発言は良い』ではなく、『この人の発言が良い』になっていく。『自分の発言』ではなく『自分自身』に価値が付くようになることを、自己ブランディング化と呼ぶ。

例えば、Twitterの特撮クラスタだと、私は『長文のブログ記事やツイートのツリーを書く考察系アカウント』として、それなりの人に認識されているだろう。
(特撮系アルファツイッタラーの中では、下っ端もいいところなので「お前誰や」って人も相当数いる自覚もあるけどネ!)

ジョジョのSBRになぞらえ、特撮クラスタを大きな一つのテーブルとするなら、アルファツイッタラーは『最初にナプキンを取る者』だ。後の者はその動きに従って、物事の価値を決めていく。

出典:スティール・ボール・ラン

共感を得るという麻薬

アルファツイッタラーの説明は、我ながら「何コイツ、たかがツイートがバズった程度で何様なの? 王様気分かよ」と言われそうな話だと思う。
Twitterでのバズりとは、言ってしまえばちっぽけなプライドを満たす行為でしかない。そんなことはわかっている。

しかし何百何千のRTと『いいね』を浴びる行為は実に心地よい。
人は案外ちっぽけなプライドを守るために躍起になって生きるのだ。

Twitterだとそのために必要なのはバズりであり、そのための試行錯誤をこらす。
ここからはまた少々業の深い話になるが、だからこそ彼らは気付く。ツイートにおける拡散性の高い法則にだ。

Twitterでバズりやすいのは主に、物申す系、面白い系、感動系、ためになる系だ。この中の一つ以上を強く満たすことで、明確にバズりやすくなる。
中でも感想系のツイートで扱いやすく強いのは物申す系だ。

面白い系もかなり強いが、感想以外に笑いのセンスが必要だ。安定したバズりを得るのは難しい。
感動系は短文の感想では扱いにくく、面白い系と合わせて漫画等の創作系でやる方が向いている。

感想系で最も大事なのは「僕の気持ちを言語化してくれてる」と思わせることであり、『気持ちの代弁≒共感を得る』だと言っていいだろう。

これを上手くやるには、作品に対する率直な意見をぶつけること。そして、断言するように歯切れ良く、強い言葉を選ぶ方が、理解や共感を得やすい。

また、人は楽しい感情ならば自分の中だけで消化しやすいが、不満は誰かに吐き出して共有したくなる。つまり批判的な内容の方が、共感を得やすくバズりやすいのだ。
作品を観ていてモヤっとした要素が出ると、そこを具体的に言語化して断定的な言葉で批判する。
すると「そうだ、俺もそう思ってた!」と大義名分を得て、作品の批判は勢いよく増殖していく。

そのため人の機微を掴むのが上手い感想系ツイッタラー程、大多数が褒めている時はしっかりと褒めて、賛否両論になりだすと強く否定的なツイートが目立ちだす傾向にある。

そのため、作品が特に荒れてるなぁって時は、トレンド上位には同じような顔ぶれの批判ツイートが並んでいる。
個人を攻撃する意図はないので、あえて誰とは言わないし、私は批判行為自体を非難する気はない。

ちなみに私のバズりは四番目を軸にすることを目指しているが、残念ながらためになる系がバズり四天王では最弱である。よわよわツイッタラーでごめんなさい。
また、特に私の考察系のツイートは、批判ツイートに比べても明らかにバズりにくい。

肯定であれ批判であれ、番組の放送中や終了直後にツイートするのが、最も反応を得やすい。
ガッツリと内容を汲んだ考察ツイートは、過去回も含めた状況整理や確認等も必要であり、とにかく言語化に時間がかかる。リアルタイム性なんて最初から皆無だ。

またSNSの特性を自ら潰していくスタイルで、本気を出せば出す程に、すっごく長いツリーとなってしまう。
私はあれこれ考えて解説するのが好きなので、何かに言及する時は普段から一ツイートで済む方が稀だ。

そのため通常のツイートとはまた違う、長文を読ませる努力が必須になる。
これらが影響しているのか、私の考察系ツイートがバズる時は、最初から勢い良く伸びることはあまりない。多くはジワジワ伸びてどこかで爆発する。導火線の付いた爆弾か何かかな?
要は手間暇かかる割に最初の伸びは悪く、さして伸びずに止まることも普通にあり、非常にギャンブル性が高い。

作品をポジティブに楽しんでいる人は、批判の多いアルファツイッタラーを見て「どうして彼らは文句ばかりなのに、特撮ヒーローを卒業しないのだろう」と疑問に思った人も多いだろう。
勿論これだけではなく他の理由も後に解説するが、疑問に対する回答への一端は、このバズりの法則にあると言っていいだろう。

批判の自由と影響力のジレンマ

私も一時期、バズる法則の誘惑に引き込まれるよう、徐々に批判的なツイートが増えていた頃はある。

まるで堕落の如く書いているが、作品への批判は別に悪いわけではない。
作品への感想は鑑賞者が個人個々に持つものであり、各々思うことを述べる権利がある。

彼らは、人気を得るためだけに批判ツイートをしている悪人なのではなく、素直に作品の本音を述べてもいる。
むしろモヤモヤを上手く自分の中で言語化できてしまうので、好き嫌いの作品評価が否応なしにハッキリしてしまう。

それを「君はバズリやすいから、作品を悪し様に書くのはやめろ」と言うのは筋が通らない。
作品を鑑賞している一人として感想や解釈を述べるのは、表現の自由で保証されている行為だ。

私がネガティブなツイートを避けるのは、私の勝手でしている。
なんだったら、『何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ』のセリフを盾に他人を否定する行為は、価値観の押し付けだと思うくらい苦手だ。

私のアカウントは、より多くの人と作品を楽しむことを旨としており、そこからブレだしていたので自ら矯正した。
その対策がサブの鍵アカウントである。要は個人的な反省の産物なのだ。

ただ純粋な事実として、アルファツイッタラーは他者に与える影響が目に見えて大きい。
人によっては『作品を叩くことが正しい行為』という免罪符を与えて、全体の空気が悪くなることを助長する役割を果たしているのも事実だろう。

それとこれはごく個人的な主観だが、ネガティブなツイートが伸びるのは、それ以外が伸びる時に比べてあまり気持ちよくない。
否定的な内容の方が反発して攻撃される確率も上がり、本来なら嬉しいはずのリプや引用RTが付く度に、確認が恐かった時期もある。
我ながら、よくそんな脆いメンタルでアルファツイッタラーやれているよな。

場合によっては、普段褒めてくれたり共感したと言ってくれたりするフォロワーさんから、その話題は触れない方がいいと諌められることもあった。
ポジティブ面で私のこと推してくれている人だと、泥沼の論争に首を突っ込む姿は、そりゃ見ていて良い気分はしなかっただろう。今思えば申し訳ないことをした。

それに一度悪い部分を言葉にしてしまうと、次から次へと批判が出やすくなっていき、そういう目線でばかり作品を解釈するようになる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いだ。
問題箇所にばかり目が行く鑑賞は常にモヤモヤが付き纏う。鑑賞自体は変わらず楽しいけど、それが100%ではなくなるというべきか。

勿論、ポジティブなツイートで人気のアルファツイッタラーさんもいる。
有名な人だと、桐沢たえさんはいつも楽しそうに作品を語っており、ネガティブなことをほとんど言わない。だから安心してツイートを読めて、こっちまで楽しい気分になる。
私がなりたいと思う理想の形の一つだ。

自分が好きなものが如何に楽しいのか。
批判されているけれど、こういう読み解き方もあると語って、もっと作品を楽しむ機会を提供する。
そういうツイートの方が、やはり私の性にあっている。

アルファツイッタラーの選挙性

若い世代を中心とした、Twitter内で調和を好む者達は、自己の意見に対して拠り所を求める。

「このツイートは俺と同じ気持ちだ」と自分で決めているようで、実は第三者から提示された情報を選んでいるに過ぎない。
〇〇さんがこう言っているからと安心して賞賛や批判ができる。そうすることで『普通』の枠に収まり続けられる。

そして、第三者の提供先であるアルファツイッタラーは、その多くが二十代以上の世代だ。
(各個人のプロフィールやツイートを見ていたら大体は推測できる)

彼らはいずれも他者の意見ではなく、自分の意見として言葉を強く押し出せるアウトロー達である。

年代に差があると、価値観の違いからわかり合えないとよく言われる。
私のような世代の古いオタク達は、若いオタク達と相容れないかと言えばそうでもない。

便宜上、古オタク達やそれに相当する知識量を有するオタクを、ガチオタと呼称しよう。
無理やり知識マウントを取って攻撃してくる困ったさんでもない限り、調和を重んじてオタク差別のない文化で育った彼らは、安易にガチオタを否定しない。

むしろ若いオタク達の多くは、自らの知識がガチオタに及ばないことを自認している。
また、知識量が一種のステータスだった時代でもないので、それを恥ずべきことだとも考えていない。
(実際、恥じる必要は何処にもない)

そのため、解釈や考察、自分の感情を分かりやすく言語化してくれるガチオタは、リスペクトの対象として重宝される。
そしてTwitter内で評価されて自己のブランディング化に成功した者が、アルファツイッタラーとして扱われるようになる。

アルファツイッタラーが己の感想や解釈を呟くと、そのファンが呼び水となってツイートが拡散される。もしくはトレンドの流れに上手く乗って、自力で拡散させる技能を有している。
そうしてツイートは多くのユーザーの元へと届く。それが共感できる意見だったら更に『いいね』が投票される。

アルファツイッタラーは一人ではない。
なので、他のユーザーは同意できる意見を選べる。これがTwitterのお気持ち選挙制度だ。

それらは自分の意見であって自分の意見ではないので、そのツイートに否定的なリプや引用が付いても、自分は傷付かなくて済む。

たとえそのアルファツイッタラーが論破されたとしても、それまでには多くの人が推してた事実があり、自分が『普通』の枠にいたことは変わらない。
また、より良き意見があったと思えば、そちらに乗り換えることもできる。

アルファツイッタラーがコロコロ意見を変えていたら、二枚舌扱いされて批判の対象になるが、RTや『いいね』ならあまりそういったことにはならない。
(思考や思想は、誰しも新しい知識や経験と共に変化するので、意見が変わるのは悪いことではない)

私はアルファツイッタラーの中でも、宗旨変えさせることを得意とする側に属するだろう。
「そうだったのか!」と思わせれば勝ちだ。
いやまあ、個人の感想や考察なので、本来は勝ち負けの話じゃないけどね!

「自分の中にあったモヤモヤを言語化してくれた」とお褒めいただいたり、「○○がつまらないと思う人はこれを見て」とオススメいただけることが多い。
また、「この人の解釈を読んだら、作品の見え方が変わった」というお言葉も頂いてきた。

体感的に、私の肯定的な考察・解釈に対する反応は、大抵八割以上がポジティブか、少なくとも批判一辺倒ではなくなる。
賛否両論の作品や展開だったなら『問題点はあるけれど、それだけではない』もしくは『理解できれば面白いけど、わかりにくいのが残念』といった評価に落ち着きやすい印象だ。

「若い世代は自分がないみたいに扱うな! 俺は俺の意見を持っているぞ!」と反論する気骨ある人も当然いるだろうけど、それは失う物の少ない無敵の人の属性だからね。
その気骨で、新たなアルファツイッタラーを目指してみることをオススメする。

大多数とはノイジーマイノリティである可能性

人間は自分の見たいものしか見ない。読み取りたいようにしか読み取らない。

Twitterで発言したら、思ってもいない言葉の裏を、勝手に読み取って反論してくる人がよく現れる。
ブログ記事ならまだしも、ツイートは作品として作っているわけではないので、勝手に解釈してけしからんと怒られても迷惑なだけだ。
(長文ツリーの考察は、後にブログでまとめる情報を『現段階の解釈』としてメモしている感覚が強い)

ただそれでも、私は本格的にバズりだした自分のツイートは『作品』だと考える。一応大勢が見る前提で補足説明を入れて、後は興味が沸いたリプや引用にだけ反応する。ある意味では諦めの境地だ。

他にも『見たいものしか見ない』でよくある事例としては、ツイフェミと呼ばれるTwitter上で男性やオタクを目の敵にしている、自称フェミニストの方々だ。
この界隈の方々は全女性を守護する前提で、『気に入らないもの』を排斥する。『全ての女性』に含まれない女性は、女性扱いしない。確かにそうやって例外として切り捨てていけば、自分の中にある『女性』は維持できるわけだ。ある意味で徹底している。

どれだけ『いいね』されたツイフェミの発言であっても、オタクの多くはそれを『一部の界隈が集まって大声を上げて騒いでいるだけ』だとノイジーマイノリティー扱いする。
全体で見れば、実際にマイノリティーであることは多い。実数の少ない側が強く声を上げることで、事態が動くことはままあるため、反発意見を出すことが大事なのは間違いない。

そして反発する側の多くは、自分達の方が正しく、マジョリティーであると思っている。
なら現実はどうかと言えば、多くの人はそんな諍いが起きていることすら知らない。知っても「ふうん、そんなことがあるんだ」程度で終わる。
根本的に関心が薄いから、目に付きにくく反応も淡白になる。

それに対して「でも理論的に正しいのはこっちだよ。放っておけば巡り巡って大勢の人が迷惑する」と唱えるのは、一見正論ではあるが実は案外そうでもない。
倫理のベクトルは、時代や文化でいくらでも変わる。歴史とは『今勝っている者が正しい』だけ。

もし、フェミニスト側の主張が本当にまかり通る世界なら、それは全体の空気感がそちらに偏っている。大多数の人間にはそれが当たり前で、生活にもさしたる支障はない。
致命的な支障が起きている。もしくはそう感じているのが現在のツイフェミ側であり、単に立場が入れ替わるだけだ。

つまるところ真のマジョリティーとは『本当に知らないか、声を上げようとは思わない程度には興味がない』層なのだ。
私達が感じている『皆』とは『自分』に他ならない。

小さな界隈(ほし)の話をしよう

ノイジーマイノリティーは、特撮クラスタにだって同じことが言える。
作品を視聴しながらTwitterで感想を交わし合うのは、あくまで全体の一部だ。

そもそも、コアな視聴層である子供なんてSNSにはほとんどいない。
稀に見かける「こんなので子供が楽しめてると思えない」というお怒りや疑念の声は、きちんと統計情報を取っていない時点で単なる空想だ。どれだけ童心に返って楽しもうとも、本当に子供心を理解できているわけがない。

大人だって、特撮ヒーローを楽しんでいても、SNSは使っていない層。もっと狭いSNSで集まり、作品を語り合う層。Twitterは使っているが、特撮クラスタは見ていない層。かつては特撮クラスタにいたが、精神的に疲れて作品だけを楽しむようになった層。他にも様々なスタイルで作品を楽しむ人達がいる。

本記事の前半を公開後に、Twitterで読者の感想を調べてみた。
セイバーは観ていたのに、あれだけネタにされていた『セイバー坂』という単語や、ドンオニタイジンが売り切れになっていた事実を知らない者がいる。
特撮クラスタの常識は、世間の常識とは限らない。

Twitterに感想を吐き出すこともなく作品を楽しんでいる。多少思うところはあっても、言葉にして批判する程ではない。
そういう声なきマジョリティーの意見があるのに、可視化された言葉だけを正しい作品評価だと、盲信的に信じている者がいる。

マジョリティーの視点だと、一部の方々が「今の仮面ライダーはつまらない!」「いや、十分面白い!」と熱い議論を交わし合っている。
そこから、議論の流れ弾を食らった、また一部の者達が辟易しているだけなのだ。

これはなにも、特撮クラスタに限った話ではなく、人数規模の大きい界隈ならば多くに当てはまる。普遍的なクラスタ構造だろう。

人数規模以外にも、実生活への影響度が高いジャンルは、個々人の平均的な熱量も高い。その極地とも言える政治クラスタは、いつでも鉄火場だ。

特撮ヒーローも生活への影響度は意外と高い。
現在のウルトラシリーズは、半年周期だが毎年放映している。
ニチアサ作品は一年を通して止まらず走り続ける。特撮ヒーローの代表作達は、ファンにとってライフワークと言って差し支えない。

だから、満足のいかない展開が続くと、『もしや今後もずっとこのままなのか』と深い絶望が襲う。これが不満として言葉になると、高い攻撃性を発揮することが往々にある。

玩具の質や数、値段等も生活に関わる。
二章で解説したプレバン問題がこれに該当する。

結局、荒れやすい界隈にはそういった条件が揃っているのだ。
ここまでくれば、大多数の意見が一致する方が珍しく、『すぐに荒れる』のではなく『ただの平常運転』である。
界隈内で多くの者達が望む平穏の実態は、戦争のない平和な世界ではなく、争いの燃料が尽きた休戦中の状態なのだ。

さて、ここまではネットの変化とSNSの構造、そしてそれに伴うユーザー心理について解説してきた。

この時点で「お前の勝手な妄想で他人を語るな」とボコボコにされそうで、内心怯えているけど。
流石に現代の若者心理等の基礎は、資料を使って調べたものだ。
それ以外にも、今回の記事の執筆にあたって参考にした資料は、最終章後に全て列挙する。普段はここまでしないけれど、今回はそれだけ重い話をしている自覚はある。

それでもここまではまだマシな方で、最後の事情はこれまでの比じゃないぐらい深い闇へと潜っていく。
第三章で自分や推しを悪し様に書かれて嫌な気持ちになった人は、ここで読むのを止めておくのをオススメする。
冗談ではなく、ここからはもう、人によっては無差別大量虐殺の現場を見ることになる覚悟が必要だ。

さて、きちんと注意書きはしたので、後はもう自己責任。
内心怯えていると言ったけれど、それ以上にめっちゃノリノリで書いている。むしろノリノリ過ぎてボリュームがすごいことになって、更新が三つに分かれてしまった。
それはもう朗々と、皆が目を背けたくなる闇を存分に語っちゃうぜ。

音声版:第三章

【次ページ:第四章:オタクの戦略的●●論

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