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なぜSNSのオタク界隈は荒れるのか ~特撮界隈から見るSNS社会とオタク文化の闇~

2022年8月5日

最終章:SNS社会を楽しく生き抜くためのオタク道

サヴァイブせよ楽しいオタクSNS生活

ここまで、掘れば掘る程にドロドロした闇が吹き出してくる険しい旅だった。
特撮クラスタが荒れる理由から、その先に待つオタク滅亡の未来へ行き着くのは、脱線し過ぎじゃないかと自分でも思う。
とはいえ、現在の荒れやすい状況と無関係ではなく、文化としては地続きなのである。

特撮が好きと言えば特撮オタク扱いされるように、かつてはSFが好きと言えばSFオタク扱いされた。
しかし、現在ではSF好きを明言しても、そのままSF好きとしてしか認識されない。
これもSFファンの増加と、考える者達が積極的に行っていたSF考証文化が廃れたことで起きた。

多くの人が知らないだけで、ジャンル化現象は既に現実で起きている。となれば、今界隈が荒れているのは、徐々にオタクが駆逐されている過渡期という見方もできるかもしれない。

他にも、シンウルトラマンのPVがどうしてああだったのかという考察等、知識として得られた副産物も結構面白かったでしょう? と言い訳を添えておく。

というわけで、主題を特撮クラスタに戻そう。
わざわざオタクの歴史と未来まで触れた大きな理由は、あくまでこれは個人の問題ではなく、歴史と文化が背景にあることを知ってもらいたかったからだ。

大きな流れだと個人では変えられない。個人で変えられるのは自分の周囲だけだ。
もし全体の環境が変わるとしたら、それは個人の行動が結果として全体の行動になった時である。要は流行の変化だ。

故に、まずは貴方が生きやすい環境を、貴方が自分で作らねばならない。
私自身、ここ最近は特に、自分とフォロワーが楽しめる環境作りに試行錯誤している。
そこからバズっても、意気揚々と攻撃してくる人をできる限り減らす。どれだけ現実的に平穏を維持できるかが大事だ。

その中でも、これは一定の効果があったなと思えるものをまとめていく。
それが、現在のSNS文化とこれからを見据えて特撮クラスタを……否、アニメや漫画も含めて趣味を楽しんでいく私流オタク道だ。

ネガティブな発言は最低限言葉を選ぶ

嫌な部分ばかりをピックアップされた発言を並べられると、どんどん作品を楽しめなくなっていく。
そういう人達に感化されて、自分もネガティブな発言をしてしまう。
そして否定的な発言には、同じく否定的な人が集まってくる。ネガティブスパイラル。

否定的な発言の方が、言葉遣いは悪くなりやすい。
見ていて気持ちよくない乱暴な言葉使いをする人の割合は、ポジティブな発言よりも、ネガティブな発言をする人の方が多い。
(ただしリプや引用RTでわざわざ攻撃してくる人は、どちらも似たようなものだけど)

言葉がキツいと、反感を買って他のユーザーから攻撃が飛んでくる確率も上がる。
また、否定的な意見を悪と認識する『正義の人』も一定数いることを忘れてはならない。
ネガティブな発言は、自分を荒涼とした場所へと運んでいく。

ネガティブな発言をしないのと、ネガティブな感想を持たないことは同じではない。
しかしながら当然人には好き嫌いはある。個々の感想や作品解釈は自由であるべきだ。

そしてネガティブな意見を全部抑え込むのは、大きなストレスにもなる。
ならばせめて、言葉遣いはきちんと考えるべきだ。

『○○はクソ』とか『○○はもう脚本を書くな』などといった攻撃的な言葉になっていないか。それは、僕を見て! もっと攻撃して! と全裸で喚き散らすようなものだ。
裸の自分はリアルだと捕まるよう、ネットでも大抵碌なことにならない。

他の作品と比較して、ダメ出ししていないか。
比較による批判はネットでも特に嫌われる行為であり、人前でおもむろに服を脱ぎ捨てているようなものだ。

『自分が好きな作品が嫌いな人』や『自分が嫌いな作品が好きな人』を攻撃していないか。
それはリプや引用RTでなくても、自分から他人を刺しに行っているので、全裸云々どころかテロリストの類だ。

たとえ相手が作品に否定的で、自分が肯定的な意見であっても同罪である。
傍から見れば『聖戦(ジハード)』と叫んで攻撃しているテロリストと全くもって変わらない。

誹謗中傷とまではいかなくても、乱暴で汚い言葉の時点で十分に他人への暴力だ。
常識的にやるべきでない行為をやって攻撃されるのは、単なる自業自得としか言いようがない。

世の中には『自分には合わない』といった便利な言葉もある。
ちょっとした言い回しだけで、人の印象とは大きく変わっていく。

やめたいけど、どうしても我慢できなくて批判ツイートしてしまう。
そんな方は、別に鍵アカウントを作ってそこに吐き出そう。
ある程度信用のできるフォロワーに絞れば、ネガティブな発言でも荒れることはまずない。

なお、鍵アカウントは自分でも実践してみた。
ダメ人間の私は、一々アカウントを切り替える一手間が面倒で、結果的にネガティブツイート自体が減った。
さながら、ダイエットのために何を食べて何カロリー増えたのかを記録していると、記録するのが面倒で食べなくなって結果痩せましたみたいな状態だ。

嫌なヤツに見える行いは、自分を変える。
批判行為は、やると正義の行いに感じるので気持ちいい。
作品を皮肉って笑いを取る発言は『いいね』が付きやすくて、認められているような気分になる。

しかしそれは、その人を確実に本当の『嫌なヤツ』に変えていく。
一度『嫌なヤツ』になれば、そう簡単には止まれず直せない。
ネガティブな性質や批判は、ポジティブであり続けるよりずっと楽だ。そして『楽』は、心を良くない方へと容易く流してしまう。

マザー・テレサの有名な言葉が『批判的になってしまう』現象を的確に言い表しているので引用する。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

自分と合わない意見には絡まない

これはもうシンプルに『自分がされて嫌なことを人にしない』だ。
「議論大好き! ドンドン来い!」なタイプの人はそもそもさして現状にストレスを溜め込まないので、当キャンペーンの対象外でございます。

ただし自分は親切心や知的な行為をしているつもりでも、相手からすれば「おら!! 俺のクソリプを食らえ!!!!」な状態の可能性が普通にあるのは自覚しておいた方がいい。
Twitterはクソリプを投げつけるもの? さっさとブロックされてしまえ。

親切心からたまにある事例として、ネガティブな感想をツイートしている人に「これを読んだら考え方が変わるかも」と私の考察ツイートを引用したり、ブログ記事を貼り付ける人がいる。

ある程度気心知れた人や、最近の展開はよくわからなくてモヤモヤしてる人ならば、一定の効果はあるかもしれない。あくまでかもだけど。

しかし、自分なりの感想が固まっている人に見せようとする行為は、まさしく余計なお世話である。
わざわざ読んでくれたとしても「こんな好意的な解釈はできない」と思うのが普通だ。

ネガティブなツイートが場を悪くするのだから、そういうツイートがなくなれば平和になると思っている人を、これまで意外とたくさん見かけてきた。
人には「この作品が好きだ」とアピールするのと同じく「この作品は好きじゃない」と表明する自由も等しくある。

皆がポジティブな感想だけを言い合い、批判的な意見は自粛する。それを優しい世界だと考えているなら思い違いだ。
自分の意見を押し付けて他人を封殺した時点で、そこにあるのは監視と強要による、自由なきディストピアである。

異論は認める

場が荒れてくればあちらこちらで反論合戦になり、自分と異なる意見を見かけると、それだけで攻撃されているように感じてしまう。

そして自分が合わない論を見たら、直接リプや引用はせずとも「こんなツイートを見かけたのだけど」と反論のツイートをする。
これは私も未だにちょくちょくやってしまう。

この理由は、生物学的に人間の遺伝子は農耕民族ではなく、狩猟民族のままだからという説がある。
狩猟民族である人間は、攻撃を察知すると警戒心が一気に高まり、そちらの方に強く気を取られて、身を守るために反撃もする。

異論が普通に飛び交うSNSの環境は、どこから攻撃が飛んでくるかわからない闇の中みたいなもの。つまりSNSって凄まじく人類に向いていないのでは……。

そのため、異論を攻撃として認知しないというのも結構大事だ。
例えば「自分は年下の子が一番可愛い」と思っているとしよう。

では、同年代や年上好きが現れて、その良さを語っているのを見かけたら『私は今攻撃されている』と、突如の襲撃を受けたかのように身構えるか?
よほど強火なロリコンやショタコンであっても、中々そうは思わないだろう。

可愛い年上だって存在するかもしれない。
それだけでなく、年上に可愛いとは異なる、異性の魅力を感じる者も大勢いる。

自分はそう思わなくても、年上好きの性癖が存在することは受容できる。
これは愛すべき年上がいてもいいと、認識していないと起こらない。
『魅力的な年上の存在もあり得るかもしれない』と心のどこかで認めているからだ。

中には年下が好き過ぎて年上という存在の認知がほぼなく、心底どうでもいいと思っている可能性もあるのだが。
それでも興味がない故に『あーそういうのもいるかもね』と思っていることには変わりない。

つまり、大半の人は『年下と年上の可愛い人は両立できる』と考えるので、そこに争いは生じない。
自分とは合わない他人の感想や考察も、認識を少しズラせばこれと同じである。
同じ作品でも、好きな人と嫌いな人がいて、それは個人の視点なら矛盾なく成立できる。

多分これは、割合多くの人が頭ではわかっていることだと思う。
それでも精神的に受容できず攻撃されたと感じるのは、心の何処かで小さく「そうなのかも」と思う自分がいるから。

割合で言えば10%や5%程度かもしれない。それでも小さな疑念は大きな反動を生む。
異論を認めると『自分』という整合性が崩れてしまうので、心の防衛装置が作動して、持論を使って意思を塗りつぶしにかかる。

全然異なる異論と出会ったら、反撃に出る前にまず『そもそもこれは、自分に向けられたものじゃない』を念頭に置く。その上で自分の論と並立できるかどうかを考えよう。
感想と解釈は個人の自由なので、作品の見方が異なるだけなら『そういう論もあり得るんだね』と異論の存在を認める。
それができれば心の負担は小さくなり、反撃するまでもないと無視できる。

面倒くさい相手はさっさとミュート or ブロック

え、中には『〇〇好きのヤツは何でも面白いと思えて生きやすそうだね』とか言って煽ってくる人もいるって?
それはマシンガンで弾をばら撒いて不特定多数を攻撃している、悪意を持った残念な通り魔だ。

また、どれだけポジティブに生きていても、残念ながらネガティブに絡んでくる人はいる。
ポジティブなツイートしかしない人は、作品に対して全肯定で否定意見を一切受けつけない。所謂信者だと勝手に自己解釈されて、攻撃されたことは何度もある。
世の中には『SNSの発言だけで、その人の人間性が全てわかる』と信じ込んでいる人がいるのだ。

もちろんシンプルに『君の意見は間違っている。正しくはこうだ』と反論をぶつけてくる人も、過去には数え切れない程いた。バズるとは、そういう相手を引き寄せることにもなる。

そういう方々は相手にせず無視。視界に入ってくるのがストレスならば、サクっとミュートかブロックしてしまおう。視界から消えるというのは、思ったよりもスッキリする。
この二つは、荒れる環境を改善する行動としては基本中の基本だが、躊躇いを覚える人は一定数いる。特にブロックは、それ自体を悪しき行為と考えてしまいがちだ。

炎上発言した人が、攻撃的なリプや引用RTをする人達を次々とブロックして、対話せずに逃げたと扱われる。これを見て、ブロックは悪人の行動だと認識した人は結構いるのではないだろうか。

発言の炎上と、ブロックで身を守る行為は別物だと私は考える。
炎上発言は、基本的にした方に問題があるとは思う。だからといって、顔も知らない無関係な第三者が、数と言葉の暴力で私刑にしていい理由にはならない。

しかも無尽蔵に湧いてくる攻撃に対して、たった一人で一々返事をする時間も義理もない。
炎上での誹謗中傷が原因で、自殺したと思われるケースもあるのだ。炎上しようがしまいが、ブロックは正当な防衛手段である。

私も過去に経験したけれど、攻撃的なツイートをブロックすると、相手から「話し合えばいいのに逃げた」とスクショ付きで晒されたことがある。
しかしこれは、まともに拡散されることもなければ、仮にされても何も問題ない。

自分の発言に影響力のある人ならば、ブロックが重要な防衛機能なのは重々承知している。
余程理不尽な状況でなければ、自分からブロックされましたなんて恥ずかしい喧伝はしない。

逆にブロックされて騒ぐのは、普段から他人を攻撃していて、それが正しいと思っているような人だ。
一方的に攻撃的なツイートをして、ブロックされたら被害者として振る舞う人の方が危険だと、もうおおよそ浸透している。

無反応は肯定に非ず

厄介な人を相手にしないのは、できれば自分もそうしたい。
けれどその相手よりも、相手のツイートをみたフォロワーに、反論できず黙殺してるんじゃないかと思われるのではないか。中にはそういう不安を抱く人もいる。
その気持ちはわかる。とてもよくわかる。

ならば、その相手にではなく、フォロワーや指摘を見た人に向けたメッセージを作ればいい。
指摘された内容について、相手にではなく自分のツイートに説明や補足を追記する。
その際には、相手の情報を一切載せる必要はない。ただその指摘を見た第三者にだけ伝わればいい。

攻撃したい相手は、ツイートした時点で自尊心を満たしているので、その後に増えたツリーを再確認するなんて稀だ。

この手の対応で大事なのは、無駄な対話をしないこと。
ほとんどの場合はこちらの意図やニュアンスを説明しても延々と食い下がってきて、どんどん話がズレていく。
向こうが求めているのは対話ではなく論破することで、『負けないため』なら論点自体をズラしてくることもよくある。
しかも、論点がズレていることを指摘しても、自分がズラしていることを自覚できない。これは実体験として何度もあった。
相手にとっては整合性が取れていて、もう根本的に噛み合わない。

そのため、こういう手合は応対すること自体が時間の無駄だ。
故に、『反論は相手ではなく、第三者にだけ向けて行う』こと。その方がコスパも良い。

また、話が通じそうな相手か否かは、他のツイートを見ればある程度判別可能だ。
論破が目的の人は、もうその行為が趣味の域に達しているため、発言が下記に偏るケースが多い。

自分が気に入らないものをひたすら批判している。
引用リプで揚げ足取りばかりしている。
自分とのやり取り以外でも、リプが議論で埋まっている。

傍迷惑な趣味に、わざわざ自分の時間を割いて付き合ってあげる必要はない。

指摘される『間違い』を受け入れる必要はあるのか

相手の話を聞かなくてもいいと言えば、よくこういう類の指摘がやってくる。

「自分が間違っているかもしれないなら検討すべき」
「指摘されて間違っていたら、それを受け入れるべきでは?」
「自分が正しいと思い込んでいる人になってしまう」

これらが適用可能なのは、明らかな設定の覚え間違いや勘違い、もしくは誤字脱字の類だ。
丁寧にそれらを指摘してくれる人と、個人の感想や解釈に「俺の論を食らえ!」としてくる相手は別の人種である。
また、その手のミスであっても、攻撃的な突撃を仕掛けてくる不躾な相手とは仲良くしたくない人が大多数だろう。

『間違いを受け入れられない』とか『自分が正しいと思い込む』という考え方は、攻撃される側からすれば論点がズレている。そう、これは受け取る側からすれば『攻撃』のカテゴライズだ。

楽しく話をしていたら、横から突然見ず知らずの人に「君の知見は浅い。この新聞記事を読みなさい」と押し付けられて読みたいと思うだろうか。
システム上は自由にリプや引用リプができるとしても、相手が突然やってきた他人であることは変わらない。

もちろん、相手には指摘をする権利はある。
『言論の自由』によって守られるのは個人が発言をする所まで。その発言に対する反応は相手の自由だ。
ならば「その意見は違う、正しくは〇〇だ」と発言するのも、相手側には『言論の自由』があるため守られなければならない。

じゃあ今度は、自分の意見に対する反応を受け取った側は、必ず返事をしなければならないのか? そのような強制力は何処にも存在しない。

意見を押し付ける行為が自由であるのならば、相手をしないのも自由だ。『言論の自由』には、必ずその内容を相手に聞かせて、自分と議論させるまでは含まれていないのだから。

相手の発言全部に反応しないといけないなら、カルト宗教の勧誘も全部耳を傾けなければいけない。もしあったら絶対悪用するよね、そういう人達。

『反論する相手の話にも耳を傾けるべき』ルールは、聞いてほしい側が勝手に作ったものに過ぎないのだ。
リアルでの対面式ならまだしも、SNSでそれを押し付けるのは、ものすっごく面倒な人扱いされても致し方ないだろう。

異論が欲しいなら自分で探す。見たくなくてもその辺に転がっているのがSNSだ。
たとえ考え方が異なる相手であっても、この人なら一考する価値があると思う人を、予め用意しているケースは珍しくもない。

異論が聞きたくないのと、異論を不躾に押し付けてくる人を避けるのは別の事柄だ。
異論を聞く側からすれば、耳を傾けたいと思うぐらい興味を引く内容を送れないのは、送る側の失敗でしかない。

つまりは「貴方は私に意見したいかもしれないけど、それなら私に貴方の話を聞くだけの価値を提供してね」ってことだ。
何様だよと言われそうだけど、取捨選択の権利は常に受け取り側にあり、不躾に意見を聴けと送り付けてくる側も十分に『何様』の範疇だから対等である。

他人への攻撃は足を引っ張りたい弱者が行う

批判の大部分なんて、所詮は他人の吐くノイズでしかない。
だったら、そんな相手とは関わらなければいい。

自分が旗を持ち、『俺はこの作品が好きだぞ』と全力で振り回して、そこに輪を作ればいいじゃないか。
そうやって共感性のある相手と繋がるのが、SNSの本質だろうと私は考えている。

こういう生き方を実行した結果、しっかりと攻撃の的にもされてきた。
公開していないだけで、質問箱やマシュマロから、嫌味や皮肉たっぷりのお便りもいただいている。アルファツイッタラーは割と気軽に人権を剥奪される。

どう考えたらそういう発想になるのか。どれだけ悪意をもって曲解してるのだろうと、不思議でならないお言葉も頂戴してきた。
嫌な気持にならないかと言われれば、そりゃあなる。傷付かないのかと言われれば当然傷付く。人間だもの。

しかしながら、そういう相手は『自己主張をバズらせることもできないから、目立って気に入らない相手に噛みついてくるザコ』だと思っている。

少なくとも、一定以上フォロワーを持ち自分の主張が拡散できている人から、リプライで攻撃された記憶はない。
引用RTはあったが、実はあれも伸びにくくて効率がよろしくない。
他人を晒し上げて、自分の主張を通すのが好きなタイプ以外だと、積極的に使う人はそんなにいない。
バズれる人なら、噛み付くより旗を振る方が効率も良く楽しいことを、私は体感でよくわかっている。

過去に、特撮女子が変身ベルトを巻き自撮りして、簡単にフォロワーを増やすのが気に入らず、特撮女子は嫌いだと声高に主張する人がいた。
その後、特撮女子を馬鹿にするよう『特撮女子になりきって遊ぶ』ツイートが大量に湧き出した。これが雨後の筍ってものだろうか。

私はそんな特撮クラスタを眺めて、そりゃこんなセンスのない憂さ晴らしをしてるから、フォロワーが増えないんだよと思っていた。
そんなことする暇があるなら、バズるくらい面白いツイートをする努力をした方が、ずっと建設的である。

男性の囲いを目的とした狭義の意味での特撮女子さん方は、私も決して好ましいと思う方々ではない。
だが、自分の持って生まれた資質を生かして戦う行為は否定しない。そのためには人目を引くための努力も相応に必要だ。

純粋にお洒落な服装と変身ベルトの組み合わせにセンスを感じて、『いいね』と思う人もいた。
(少なくとも、その方は上記の『特撮女子』ではないと思うが、特撮女子嫌いの人には目の敵にされていた)

傍から見ていて行動が気に入らないだけで、特撮女子は向こうからわざわざ攻撃をしてこない。
嫌いな人種であれ、攻撃性が低いならあえて触れなければ簡単に住み分けはできる。

楽にフォロワーを稼いでいるように見えて、気に入らない気持ちはわからなくもない。だが、じゃあその特撮女子を喜々として囲う方々が、自分のフォロワーになったら嬉しいだろうか? 正直言って私はあまり嬉しくない。

とりあえず気に入らないから、我慢できずに触れてしまう。馬鹿にして憂さ晴らしする。
わざわざ私へ攻撃してくる方々のメンタリティも、おおよそ同じだ。

それは負け犬の遠吠えであり、キャンキャン吠える犬に目くじら立てるのも大人げない。

などと言ってしまえる時点で、やはり私は大多数の調和から外れることに抵抗がなく、無敵の人化しつつあるアウトロー側なのだろう。

チェンバー効果は本当に問題か?

ブロックやミュートを多用すると、チェンバー効果が生じて意見が偏ると問題視する人もいる。

チェンバー効果とは、環境を制限することで偏った意見ばかりになり、それがマジョリティーだと錯覚する現象だ。
これは、賛否両論拘らず、幅広い意見を集めることが目的の人ならば回避すべきだ。逆にそうでないなら、何も問題はないと私は思う。

こういう記事を読んでいる人ならば、SNSは同じ趣味の人と繋がって楽しむツールとして活用する人が大多数だろう。
素早く正確な情報がほしいなら、公式アカウントをフォローすればいい。
あえて広く個人レベルの情報を得て、しんどい気持ちになっていては本末転倒だ。

そもそも特撮好きは、同じ特撮好きを多くフォローする。
中でも同じ作品が好きな人は、フォロー率も上がるだろう。
この時点で、情報の偏りは絶対に発生する。

元々自分の発言はノイジーマイノリティーかもしれず、物言わぬマジョリティーがいるかもしれない。その事実を忘れないようにしておく必要はある。それは以前の章で説明した通りだ。

ただし、個人が楽しむ場を作ることとはまた別問題。
『この作品が好きな人はマイナーなのかもしれない。けれど私は好きな作品が共感できる人と繋がりたい』と考えればどうだろう。仮に自分の意見が少数派だとしても、数が多い側が正解というルールは何処にもなく、何も問題がないのはわかる。

まとめると、同じ作品やシリーズが好きな人を絞ってフォローする時点で、チェンバー効果は避けられない。
ミュートやブロックによって、より共感性のある人に絞っていくと、チェンバー効果も相対的に強くなる。

そう考えると、自分がいて楽しい空間を意図して作っている自覚があれば、チェンバー効果は利用すべき現象ですらあるだろう。

ミュートとブロックは、趣味を楽しむために活用するツールで、合わない人から距離を取る手段なのだ。

コンテンツではなく作品として観る

作品の楽しみ方は人それぞれだ。
二倍速であれ十秒飛ばしであれ、個人の視聴スタイルとして尊重されるべきなのだろう。
幼稚園児のように、ただただカッコいい映像に興奮して、エモい台詞に感動する。それを童心に帰ると好意的に見るべきなのだろう。

それらを前提で再度書くが、何も考えず周囲の意見に便乗して批判する姿勢は、視聴者から作品に対する敬意を奪う。

SNSには、プロデューサーや脚本家等に対する冷たい言葉が平気で並ぶ。
何も考えない者は誰が制作したのか。そこにどれだけの時間と苦悩を費やしたか。作品を通して何を伝えようとしているかなど考えもしない。
考えた上で合う合わないではなく、考えないのだ。

事実、倍速視聴をする人程、制作者に関わる情報には関心を示さない。
逆に、作品を深く掘り下げる者は、制作者の経歴や特性を雄弁に語れる者が多い。

深く知ろうとすれば、それだけ時間もお金もかかる。コスパは果てしなく悪くなる。
「偉そうに語って、お前はそこまで極めてるのか」と問われれば、私なんてまだ全然道半ばだ。

それに、なにも全ての演出を見逃さないように画面を隅々まで見るべしとか、ガッツリ深く考察すべしと言いたいわけではない。
頭を使わず画面を眺めて、漫然とコンテンツを消費しない。
作品を通じて、制作者が何を伝えようとしているのか感じ取ろうとする姿勢で向き合う。

『ただただ消費するだけのコンテンツ』ではなく『作品として鑑賞する』を大事にすると、視聴者としての意識も大きく変わる。
今までよりも、作品に対する解像度が向上するのは間違いない。
制作者に対しての敬意は大きくなり、自分なりの感想も自ずと生まれていく。

特撮に限ったことではなく、現在存在する映像作品は、どれも倍速視聴しない方が面白いように作られている。
それと同じように、作品は説明された台詞だけを追うのではなく、映像から意図を読み取りながら観る方が楽しめる。
それは最新世代よりも、古オタク達が親しんできた作品の味わい方に近付く。

作品批判が多い人に対して、もう特撮を卒業した方がいいと言う人がいる。
まるで老害を扱うような物言いだが、彼らにはストレスを溜め込んでまで作品を観ている理由がわからない。
それはストレスフリーが最適解な人には、理解不能な存在に見えるだろう。

だが、言われた側にしてみれば、余計なお世話もいいところである。
考えて作品を読み解く者は、深く潜り込んでいくことで、自分が楽しめる要素や理屈がそこにあるかを探し求める冒険者だ。

表面的な鑑賞ではわからなかった気付きや知見を得ることもあれば、そこに自分が望んでいたお宝は無かったと悲しい結末に行き着いてしまうこともある。
それはそれで仕方ない。『無かった』という結末は、つまり『not for me』という感想だ。
肯定でも批判でも、まずは読み解く行為そのものを映像体験として楽しんでいる。その事実に変わりはない。

読み解けるからこそ、解像度を上げた批判ができる。それは楽しむことと表裏一体だ。
その領域にまで達していない者が、嫌なら卒業しろと憤慨してもまるで説得力は持たない。

秘境に潜りお宝を探す冒険者に、入り口で否定の言葉を騒ぐだけの声が届くわけないのだ。

うまくあるな きれいであるな ここちよくあるな

ここまで色々な理屈を並べてきたけど、あまりに情報量が多すぎて、いい加減多くの人がこう思っているのではないだろうか。結局どうなんだと。

大変わかりやすい回答をすると『色々あるせいで、とっくに誰がどうすればいいという問題は通り過ぎている』のだ。

結局、問題に背景にあるのは善悪とか誰それではなく、歴史と文化だ。
色んな歯車が噛み合って、今の状況を回している。根本的な解決方法なんてない。

だったら、自分がコントロールできる範疇で、一つずつできることをする。
それは簡潔に言えば『生き様』というものだ。では、どのような生き方が正しいというのか。

ここで一度、僕らの愛したヒーローの言葉を思い出そう。

ドンモモタロウこと桃井タロウは言った。
「これでお前とも縁ができたな」
「俺との縁は超良縁だ」
「悪縁は断ち切るに限るぜ」

仏教では、人間が悟りを開くための重要な要素の一つが『縁』であると言う。
良縁と出会えれば、人の人生は豊かになる。
そして悪縁から遠ざかれば、不幸からも離れられる。

人との出会いで悪縁を招くのは、自分の行いだ。
悪因悪果と呼ぶように、人を不快にさせる発言や行動をすれば、それは悪縁へと繋がっていく。
縁とは巡り合せなので、どうあがいても結ばれてしまう悪縁もあるが、それはミュートやブロックで強制的に断ち切れる。

良縁もまた巡り合いだが、人の役に立つことをしていれば、自然と向こうから寄ってきやすくなるもの。
好き嫌いはあっていい。しかし良い奴であれ。

では、どうあれば良い奴であれるのか。
SNS自体は、様々な情報を運ぶ一つの巨大な川のようなものだ。
その流れは、人間の手に負える範疇を完全に超えている。

しかも、この情報の中には他人の感情も含まれる。これが非常に厄介で、他人の感情に触れるとそれに感化されてしまう。
感情的になれば、情報量に翻弄されて人は溺れる。そして、あっという間に自分を見失う。

溺れないためには『自分を持ち、自分で考える』ことが大事だ。
私の場合は、『人に役立つことを語り、たくさんの人と特撮やアニメを楽しむ』を、一番有りたい自分の姿としている。

己の未熟さ故に、完全にできているとは到底言い難い。
それでも、『そうあろう』とすることが大事なのだ。

誰かがこう言っている。それは正しいかもしれない。だとしても、有りたい私ではない。
自分を持った上で、他人の言葉を咀嚼する。
しかし、すぐ人に感化される生命体が『自分』を持つことは、言葉にするよりずっと難しい。

批判されたくない。
皆と足並みを揃えたい。
こいつは悪人だから、自分が間違いを正してやる。

ほとんどの人は、悪ではなく善でありたいと思い、行動している。
それらの『表面的に正しい行動』を駆使して構築されてきたのが、すぐ荒れるアホほど荒れる罵り合って荒れる今の特撮クラスタだ。

上っ面だけで作れるのは見せかけのサンクチュアリ。それらはもう証明されてしまった。
ならばもういっそ、逆のことを、マイナスに飛び込めばいいのではないだろうか。

うまくあるな。
失敗したくない。批判されたくない。上手くあろうとすれば、他人の意見に頼りだす。

きれいであるな。
清く正しく美しくあろうとすれば、いずれ『正義』から外れる者へと制裁を加えだす。

ここちよくあるな。
心地いい場所とは、何も考えなくて良い場所だ。楽しむのではなく楽をするため他人に流される。

「ニッポンでは決してオリジナリティを認めない。
何でも時代の状況に合わせ、一般の基準に従わなければ、許されないのだ。
あえて、己の筋を貫き、ノーと言うこと。
それは、即この社会から消されることだ。
しかし、たった一人で、だからこそ挑まなければならない。
時代に逆らう人間がいないと、いけないんだ」

そう、岡本太郎も言っていた。

出典:タローマン

あとがき:それでも私達はSNSで生きていく

お、終わったー! ついに書き終わったー!
なんだこれ。最近特撮界隈が荒れているって話ばっかりだから、じゃあそもそも荒れるってなんだ。どうして荒れるって状況になるのか。
そのメカニズムを考えてアウトプットし始めた。
その結果がこれである。

ボリューム的にもう本だよこれ。
結局『荒れる』をお題に歴史と文化を語ることになった。

いやまあ、結局はそうなのだ。
正しいとか世の中の形は、その次代の文化が決めて、しかもコロコロ変わる。

仮面ライダー作品を追っていると、作品評価の移り変わりは何度も見てきた。

当時、ものすごく賛否両論で低評価も多かった作品が、今では「これはこれでいい」「自分は当時から好きだった」と気安く言う。
人の移り変わりがあるとはいえ、いっそ無責任とすら感じてしまうこともあった。

逆に、過去の名作が時代遅れになる。
現在に至る流れを創った最初の仮面ライダーは、現代においては少なくとも万人受けする作品ではない。
古臭くてチープで、しかも話数もかなり多くてキツいと、避ける人は大勢いる。

仮面ライダーBlackは今も根強い人気でリメイクまでされた。
しかし実際にオリジナルのBlackをきちんと観たファン層の世代を集計すれば、十代や二十代の世代まで、全て大きな偏りなく観ているとはいかないだろう。

映像面を理由に、平成ライダーの初期を避ける人もやはりいる。
それだけでなく、今の倍速視聴習慣が進行していくと、それに対応できていない作品は一様に『見るに耐えない作品』として淘汰されていく可能性もあるだろう。

それでも時代を問わない名作や正しさもあると主張する人がいる。
価値があるのと受け入れられるのは別だ。
理解を得られない芸術家の作品が埋もれて消えていくように、誰からも顧みられない正しさに価値はない。

昭和ライダーも昔は(現代よりも子供が中心だったとしても)当たり前に受け容れられて好評だった。今敬遠されているのは視聴者側の文化が変化したためだ。

誰が好きな作品をどれだけ賛美しようと。
誰が嫌いな作品をどれだけ貶めようと。
アルファツイッタラーがどれだけ大量の『いいね』を集めようと。
大量の作品批判と反論が集まってトレンドになろうと。

時代という大波はそれらを押し流し、最新の『正解』に更新してしまう。
情熱も侮蔑も綺麗も汚いも、時間と共にころりと忘れて去られて、いつまでも固執しようものなら老害とそしられる。人の評価なんて所詮そんなもの。

それが今この瞬間にも作られており、人々が絶対だと感じている『正解』の本質だ。
そんな小さなものに大勢が振り回されて一喜一憂している。

だったら大事なのは、今の自分が楽しい環境を作ることだと、私は思う。
なんて話に着地しようとしたら、SNS社会やオタクという人種に対する問題提議になってしまった。

自分達が今を生きている。そしてこれからも生きていく場所。それがどういう性質を持っていて、そこでどう折り合いを付けて生きていけばいいか。
これを読んだ人が考えるための、切っ掛けや一助になれば良いなとも思う。

それでは、ここまで長い間お付き合いいただきありがとうございました。良きオタクライフを!

音声版:最終章

音声版:後書き

参考文献リスト

展覧会 岡本太郎
(あなたに贈る太郎の言葉)

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