ミシシッピーズの神話(映画)を覗く三つの視点
この物語は三つの構造で出来ている。
一つは藤丸立香から見た過去から現代、そして未来へと続く、人が作る神話(人類史)の物語。
大黒天による「人類史に完の字(えんどたいとる)はございません」がこれを示しており、立香自身も『人理(いきたあかし)』と『歴史(ものがたり)』を続けるため自分の居場所へと戻っていく。
そしてポール・バニヤンのように、ホラ話でも映画(神話)として物語は残されていた。
神話を現代、そして未来へと残していく方法こそが映画。まさしく偉大な仕事(マーベラス・エクスプロイツ)なのだ。
二つ目はSバニヤンの物語
彼女はティーンエイジャーの娘、つまり子供でも大人でもない微妙な狭間の中で自分とは何かを迷い、消し去ることを一度は答えとした。
けれど何度力尽きて果てかけても、仲間からの声援でまた立ち上がり、皆を理想へと引っ張っていく。
その力があること、そして『現在の自分がなりたい自分』であることに気付いた。
故に彼女は世界最高のリーダー『大統領』になることを目指す。
彼女はスーパーバニヤン。世界に調和をもたらすべく、どこまでも進み続ける者。
ラストの三つ目、これを見落としている人は結構多そうだなと思う。
エピローグの二つ目で、冒頭から『The End』と出て、場面がシアタールームへと移った。
これはつまり、このシナリオ自体が壮大な一本の映画だったと暗に示しているのだ。
面白かったと語るバニヤンの言葉こそが、神であり、プレイヤーである、もっとも総括的な『視聴者』の視点。
何故、Sバニヤン側がモヤモヤしてしまうくらい、アニングサイドが深く掘り下げられたのか?
これはそうすることでSバニヤンの歪みを顕著にする必要があったから。
それと同時に、アニング自身もこの映画(神話)を形作るための大きな存在だからでもある。
最後の作品についてドキュメンタリー映画かと立香は問うたが、まさにその通りだった。
二人の全く異なる、けれど似た者同士の少女達が切磋琢磨して、最後は和解する。
立香は二人の間を行き来して大黒天の鼠達ともコンタクトを取ることで、物語に奥行きを作る役割でもあった。
このアニングも含めた大きな視点は、立香だけでも、Sバニヤンだけでも成立しない。
いくつもの神話(映画)を確立しながら、最後の最も大きく大事な神話(映画)の完成へと進んでいく。
これこそ連続活劇神話を冠する物語の本質であると私は思うのだ。
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