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仮面ライダーエグゼイドがノーコンティニューで魅せた命の大切さ【感想・考察】

2018年9月21日

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仮面ライダーで生命の尊さを解いた作品は多いですが、中でも『仮面ライダーエグゼイド』は特殊な立ち位置にいました。
ゲームと医療の合わせ技という水と油にも思える組み合わせがエグゼイドの特色です。

それもエグゼイドは一つの形だけでゲームと医療のドラマを形作る方式は取りませんでした。
話を分ければ、序盤、中盤、そして終盤でそれぞれ医療や生命に対する価値観や見方が異なっているのです。

また主人公である宝生永夢は決め台詞として『ノーコンティニュー』を謳っていました。
このゲーム性の強いキーワードも、ストーリーが進むにつれ作品根幹のテーマに大きく食い込む重要な意味をはらみだしたのです。

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ノーコンティニューでクリアする意味

前提としてゲームと医療の噛み合わせの悪さは、エグゼイドの開始前に誰しもが思ったことだろう。
ライダーのデザインも完全にゲーム寄りで、医療的な要素は設定にのみ付随している。
医療方面の設定もゲーム病という、あまりにもそのままで安直なネーミングセンスだった。

加えて言うなら生命をテーマというのも前作の『仮面ライダーゴースト』に被る。
ゴーストでは主人公の『死亡→復活』の流れを繰り返したため、むしろ命の扱いが軽いという批判が多かった。
いや、あるいはゴーストだけならまだマシだったかもしれない。

そして同時期に『仮面ライダーアマゾンズ』という新たな方向性のライダーが生まれていた。
平成ライダーとは別種が故に強烈な個性と『食うか食われるか』という、鮮烈な生命の物語。
エグゼイドという作品はそういう背景で始まった作品だったと私は認識している。

しかし嬉しい誤算として、エグゼイドはゲームという存在を通して、全く独自の路線と視点から生命の倫理を扱っていった。
エグゼイドの路線は簡潔に説明すると『ゲーム感覚で患者を救う』ではなく『ゲームを医療に見立てて患者を救う』だ。
これは字面だと同じように見えるが、意味合いは全く違う。

それでも序盤はやはり『ゲーム感覚で患者を救う』のイメージも強かった。
患者が抱えているストレスの原因を見つけ、精神的な支えになりながら、実体化バグスターを倒すことで治療する。

一連の流れは医療ドラマの要素もある。
しかしライダーとバグスターのいかにもゲームっぽいデザインに、ドクター達の不協和音からどこかゲーム感覚のイメージが抜けきらない。
これが九条貴利矢の『ゲームオーバー』によって話は大きく方向性を変えていく。

『ゲームオーバー』とは即ち『死』。
まだ前半でライダー一人を犠牲にすることにより、話の緊張感を作りだし彼らは命懸けのゲームをしているのだと視聴者に訴えた。
たった一つのライフを賭けて、ライダー達は患者を救うためゲーム医療に挑む。

宝生永夢の『ノーコンティニューでクリアしてやるぜ』は一見ゲーマーらしく遊び感覚の強い台詞だ。
しかし同時に『命にやり直し』は効かない。
人生にリセットボタンなんてないという意味へときちんと繋がるようになった。

プロ級のゲーマーである永夢は、同時に命を預かるドクターをでもある。
患者の治療は生かすことのみではなく心も救うことだと、全編を通して時に狂信的な意思でもって強く執着していた。
永夢の抱く医者に対する価値観は、リセットボタンがないという部分を含めて、『マイティノベルX』にて深く掘り下げられている。

http://kamen-rider.info/ex-aid-novel/

物語が後半に入ると、エグゼイドの物語は患者の救うことだけでなく『生命とは何か』という生命倫理そのものを問いかけだす。
そしてエグゼイドの真骨頂として物語をよりエキサイトさせていくのだ。

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コンティニューしてでもクリアする問題

ゲームとは即ちプログラムである。
本作の怪人であるバグスターとはゲーム内のキャラクターが実体化した存在。
つまりゲーム内のプログラミングが意思と生命を持っていると言えるのだ。

エグゼイドが特に独特かつ面白い部分は『ゲーム』をただの遊びとしてではなく、クリエイターにより創られるものだという部分に着目していることである。
皆大好きな神、檀黎斗が本解説にも大きく関わってくる。

ゲームとは一つの世界観を持って作られる。
マリオであれ、
ドラクエであれ、
パックマンであれ、
そこには設定がありキャラクターがあり、それらをパッケージしたものが一つの世界となる。

檀黎斗は、バグスターウィルスを介して、その自らが生み出した世界のゲームキャラを実体化させた。
それだけでは飽き足らず、『仮面ライダークロニクル』では現実の世界をゲームフィールドに変えてしまう。

ゲームキャラの実体化と、現実世界で戦うプレイヤー達。
この二つが成立したことで現実とゲームの境界が崩れ始める。
わかりやすくいうと『ゲームと現実の区別がつかなくなる』現象が生じだした。

檀黎斗は元々不安定だったバグスターウィルスの実体化を見事に安定化さている。
その技術を流用することで現実の生命をゲームのプログラム、つまりはデータに変換した。
これによってゲームと現実の境界は完全に崩れてしまったのだ。

現実の肉体と違って、データは簡単に複製や修復、そして削除が可能だ。
いわばそういう加工が行える存在として生命がシフトしてしまった。

檀黎斗の『コンテニューしてでもクリアしてやる』は人間における死の超越を意味をしている。
(この事象によって、檀黎斗自身の考える死の概念は不可逆が前提となっている)
プログラムは劣化しない。
データさえ破損しなければ不老不死であり、そのデータもコピーアンドペーストで増やせる。

だがそれは本当に生命と呼べるのか。
少なくともそれはもう人間ではなくバグスターという別種の存在である。
ならば人間とバグスターと違いとは何か。
そういう生命の倫理に踏み込んだ。

そして宝生永夢はバグスターや生命のデータ化が出来てしまうゲーム、仮面ライダークロニクルを通してこう結論付けた。
まずバグスターとは意思をもった一つの生命である。
プログラムされた存在であっても、そこに個の意思があり、消滅すれば死にも至る存在だ。

けれどバグスターと人間は同じではない。
バグスターウィルスによって消失した人間は『消失した状態にあるという症状』だ。
生命のデータ化とはバグスターウィルスに侵された症状の一つに過ぎず、つまりは病気である。

また人間からデータ化した生命はバグスターであるが、『バグスター化』もまた症例の一つ。
ゆえにデータから生身の肉体への復元する『医療行為』が成立する。
たとえ仮面ライダークロニクルが終了したとしても、永夢達の医療は終わらない。
『仮面ライダーエグゼイド』は最後までブレることなくゲームと医療、そして生命に対して向き合い続けた。

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