2025年の大阪万博におけるコスプレ来場がSNS上で大きな炎上騒動へと発展しました。
中でも注目を集めたのは、コスプレイヤー鹿乃つの氏による「ルールを守った上での来場」だったにも関わらず、強い批判を受けた点です。
この記事では、この騒動の背景にある根本的な対立構造と、時代がオタク文化に何を求めているのかを深掘りして考察していきます。
出展:鹿乃つのXアカウント
- 大阪万博コスプレ炎上の構造と背景
- オタク文化と二次創作文化の価値観の衝突
- 文化が進化する過程における摩擦と希望
炎上の直接原因は「ルール違反」ではなかった
前提として、大阪万博で起きたコスプレ炎上事件の背景には、明確なルール違反や違法行為は存在していませんでした。
実際、大阪万博の公式サイトでは「公序良俗に反せず、他の来場者に迷惑をかけない範囲での仮装やコスプレは可能」と明記されています。
にもかかわらず、ネット上では一部ユーザーから厳しい批判が巻き起こり、炎上にまで発展したのです。
大阪万博はコスプレを公式に許容していた
大阪万博の運営側は、コスプレに関して特別なチケットや登録を必要とせず、「持ち込み禁止物に該当せず、公序良俗に反しない限りOK」という非常に緩やかなガイドラインを出していました。
コスプレ用の更衣室はない、トイレでの着替えはNG、顔を覆うマスクなどは制限される可能性がある、という注意点はあるものの、コスプレ自体が禁止されているわけではまったくないのです。
このような姿勢からも、万博側はコスプレイヤーを一定の範囲で受け入れていると解釈するのが自然です。
鹿乃つの氏の行動に違反行為や迷惑行為は一切なし
実際に「マルシル」のコスプレで来場した鹿乃つの氏も、撮影や移動に配慮し、着替えはホテルで済ませてタクシー移動という模範的な手順を踏んでいました。
さらに、会場では他の来場者やスタッフともトラブルは一切なく、むしろ多くの人に歓迎され、写真撮影にも快く応じていたと記されています。
それでもなお批判が起きたという事実こそが、今回の炎上が単なるルール違反の問題ではないことを物語っています。
つまりこの炎上は、「ルールを守っていても批判される」という構図を浮き彫りにした、現代のオタク文化をめぐる新たな問題だと言えるのです。
対立の根本にあるのは“世代間の倫理観のズレ”
今回の炎上を表面的に見ると「コスプレが公共の場にふさわしくない」といった意見が多く見られますが、実はそこにはオタク文化を取り巻く世代間の価値観のギャップが深く関わっています。
かつてはオタクであることを隠すのが“常識”とされ、「人に見せるな」「目立つな」という意識が根付いていました。
その名残が、今でも“倫理”という形で一部の界隈に生き残っているのです。
「隠れるオタク文化」から「可視化されるオタク文化」へ
オタクという種は数十年もの間、世間の理解を得られず、差別や偏見の中でひっそりと生きてきました。
そのため「自衛のために目立たない」「世間と摩擦を起こさない」という行動規範が当然のように求められていたのです。
しかし、現代ではアニメやゲームが市民権を得て、若い世代でのオタクへの差別はかなり薄まっており、経験したことがないという人も増えています。オタク文化はむしろ日本のソフトパワーとして海外でも受け入れられる存在になりました。
それに伴い、「隠れなければならない」という前提そのものが崩れてきているのです。
ルールよりモラルを優先する価値観の衝突
今回の炎上の構造をよく見ると、法的にも運営側のルールにも反していない行為に対して、「モラルがない」と糾弾する声が多く見られました。
これは、古い時代の倫理観に基づいて判断する層と、ルールを守れば表現は自由という現代的な価値観を持つ層との文化的な断絶を象徴しています。
倫理というのは本来、社会の中でその時々に形を変えるべきものであり、時代に取り残された価値観が新しい表現を縛るようになれば、それはむしろ表現規制へと繋がっていくのです。
結局のところ、変える方向に社会が進んでいる以上、変えられない人はコスプレ村の因習に囚われた老害といったような扱いを受けることになっていくでしょう。
実際に今もそういったモラル側への批判の声は多くあります。
これは善悪ではなく時代の変化です。モラル自体も時代によって変遷していきます。
この対立は一過性のものではなく、今後オタク文化が一般社会に溶け込む過程で繰り返し現れる課題だと私は考えています。
「お気持ち」が生む私刑的批判とその危うさ
大阪万博のコスプレ騒動では、法的にもルール的にも問題のない行動に対して、「不快」「配慮がない」といった主観的な感情が批判の根拠になっていました。
その結果、SNS上では鹿乃つの氏への誹謗中傷や攻撃的コメントが相次ぎ、実質的なネットリンチ状態となったのです。
このように、感情が先行することで健全な議論が妨げられ、表現の自由を委縮させる社会的圧力が生まれてしまいます。
個人の価値観が他者を攻撃する武器になっている
批判者の中には、「攻撃しているわけではなく、文化を守りたいだけ」と主張する声もありました。
しかしその言葉とは裏腹に、個人アカウントへの攻撃、写真削除の強要といった具体的な被害が発生しています。
鹿野つの氏と仲良く撮影した個人のアカウントも写真を削除して、鹿野つの氏に迷惑をかけてしまったと謝罪しています。
これはもはや議論ではなく、「気に入らないから排除する」という衝動的な私刑に他なりません。
リスクヘッジの名を借りた排除の論理
「二次創作ガイドラインが厳しくなるのが怖い」「今後のオタク文化に悪影響を与える」といった理由で批判を正当化する声もありました。
しかし、その主張が結果的に一人の表現者を追い詰めることになっている以上、目的が正しくても手段が間違っていれば本末転倒です。
むしろ、現代の表現活動にとって真に危険なのは、こうした無自覚な排除行為だとわたしは思います。
ルールではなく「お気持ち」で善悪が決められる社会では、表現は委縮し、文化の発展そのものが止まってしまうのです。
“ルールを守っている”行為すら批判される現代の危うさ
大阪万博でのコスプレ炎上では、規則に従った行動すら否定される風潮が明るみに出ました。
これは単なるトラブルではなく、現代におけるルールとモラルの混同という、より根深い社会課題の象徴とも言えるでしょう。
本来、ルールを守ることで安心して楽しめるはずの空間が、「空気を読め」といった非公式な圧力で縛られることに、大きな危機感を覚えます。
モラルとルールの混同が生む自主規制の強制
「モラルが大事」「常識を守れ」といった声の多くは、一見もっともらしく聞こえます。
しかしその「常識」や「モラル」は、時代や文化の文脈に依存した不確かな価値観にすぎません。
それがルールよりも優先される社会では、運営がOKとした行為ですら非難されるという、非常にいびつな状況が生まれてしまうのです。
コスプレ文化が抱える自治の脆さ
コスプレはもともと、オタク文化の中でも特に閉鎖的で自己管理的なコミュニティによって支えられてきました。
イベントでは「見せすぎない」「迷惑をかけない」といった内輪ルールが強く機能しており、その“空気”に従わない者は排除の対象となりがちでした。
今回の炎上も、その空気を破った者への反発が引き金となったように思えます。
これはSNS社会以前だと、直接人々の視界に映る行為であり、オタク差別の風潮と重なり特に気を付けるべき行為と認識されていたからです。
しかし、SNSでコスプレ写真自体も広まっていますし、オタクへの強いバッシングも、一部の界隈を除いてかなり緩和されています。
外側から見れば、それは形骸化しつつある内輪の価値観です。かつては意味があったかもしれないけれど、時代に取り残されていくといった意味では、学校のブラック校則に近い存在だとわたしは思います。
オタク文化が社会に浸透していく今、「内輪の空気」で他者を縛ること自体が時代遅れなのではないでしょうか。
鹿乃つの氏が語った「コスプレ万博体験」の実態
炎上の渦中にいる鹿乃つの氏は、自身のnoteにて万博でのコスプレ体験について丁寧に記録を残しています。
その内容を読み解くと、騒動の印象とは真逆のポジティブな実体験が綴られており、多くの誤解が先行していることが見えてきます。
彼女の言葉からは、「ルールを守る」「周囲への配慮を欠かさない」姿勢と、純粋にコスプレを楽しむ気持ちが伝わってきました。
公式ルールに従って楽しんだ来場体験
note内で鹿乃つの氏は、「会場に更衣室がない」「トイレでの着替えは禁止」などのルールをしっかりと把握し、ホテルで着替えてタクシーで来場するなど、最大限の配慮を実行していたと明かしています。
武器などの小道具についても、会場の規定を確認したうえで「NGになりそうなものは持ち込まない」という判断をしており、その慎重な姿勢は特筆すべきものです。
スタッフや他の来場者との交流も終始穏やかで、むしろ歓迎されたという記述すらありました。
スタッフや他来場者からの好意的な反応
記事内では、スタッフから声をかけられたり、他の来場者と写真を撮ったりと、交流の場としてコスプレが自然に受け入れられていた様子が描かれています。
また、「マルシルが万博を冒険している姿を見せたかった」という動機は、キャラクターと場所への愛情が根底にあり、それが大きな共感を呼んでいるのです。
万博を楽しみながら文化発信にも繋がった体験談には、多くの「行ってみたい」「楽しそう」といった反応が寄せられており、その影響力は無視できません。
炎上のイメージとは裏腹に、鹿乃つの氏の行動は周囲への思いやりと文化へのリスペクトに満ちたものであったことがnoteからは明確に伝わってきます。
ルールの正しさと「歓迎されていない」という印象の食い違い
大阪万博におけるコスプレは、公式に認められているにもかかわらず、
「歓迎されていない」「常識的に考えれば自粛すべき」といった声が多く見られました。
このような主張は、公式のルールと一部の「空気」や「印象」との間にある食い違いを端的に示しています。
「禁止ではない=歓迎ではない」という論理の危うさ
批判派の多くは、「公式が禁止していないだけで、歓迎しているわけではない」と主張しています。
ですが、それを理由に「来るな」「空気を読め」と迫ることは、ルールに従った個人の自由を制限する行為であることを忘れてはいけません。
また、鹿乃つの氏のnoteにも記されているように、現場ではスタッフや来場者から好意的な声が多数あったことは無視できない事実です。
それに鹿乃つの氏のnoteは大阪府知事や大阪市長がリポストされており、「歓迎されていない」という批判の声とは真逆の出来事が多いことにも注意が必要です。
誰が「迷惑」かを決める権利を持つのか?
「迷惑をかけるな」という指摘もよく聞かれましたが、実際に迷惑かどうかを判断するのは、運営側や現場スタッフの役割です。
入場を許可され、撮影などの行動に制限がなかった以上、第三者が独自の基準で「迷惑」と断定するのは越権行為とすら言えるでしょう。
そもそも、鹿乃氏が万博に来場したことにより、それ自体が万博にとって大きな広告となっていたことも、見逃せない事実です。
ルールと空気の解離が文化の成長を妨げる
ルールは「できること」、空気は「していいと思われること」を定義しますが、その差が広がると、自由な表現や挑戦はどんどん抑制されてしまいます。
特に、オープン化が進むオタク文化においては、過去の「暗黙の了解」や「空気」を絶対視しすぎることのほうが危険です。
万博という国際的なイベントでこそ、新しい文化の在り方に挑戦し、アップデートしていく意義があるのではないでしょうか。
コスプレに対する「承認欲求」批判とキャラクター私物化論のズレ
今回の炎上では、「自己顕示欲が強すぎる」「キャラクターを私物化している」といった批判のほかに、
「鹿乃つの氏の思想が気に入らない」「原作へのリスペクトが足りない」といった声も多く見られました。
しかし、こうした指摘には二次創作という文化の本質を見失ったままの感情的反発が混ざっている印象も否めません。
承認欲求は創作のエネルギーであり、悪ではない
承認欲求や自己顕示欲は人間の自然な感情であり、それがあるからこそ創作や表現活動は活性化します。
コスプレに限らず、絵を描く・小説を書く・踊る・歌うといった行為には、少なからず誰かに見てほしい、評価されたいという気持ちが含まれているものです。
むしろ承認欲求を否定してしまうと、それは創作全体に対する否定にも繋がってしまうのです。
キャラクターの私物化とは何を指すのか
「キャラクターを私物化している」という批判は、キャラクターを「自分の都合で利用している」というニュアンスを含んでいます。
しかし、二次創作とはそもそも、個人が愛するキャラクターに対して独自の解釈を加える文化です。
それを「私物化」と断じてしまうと、すべてのファンアートやコスプレ、同人活動が否定されることになってしまいます。
「思想が気に入らない」は感想であり、規制理由にはなり得ない
鹿乃つの氏がSNSなどで発信している価値観や考え方に対して、「リスペクトが足りない」「思想が不愉快」という批判が起きたことも事実です。
しかし、それはあくまで「感想の域を出ない」個人の感情的反応であり、個人への人格攻撃によるリンチです。
また、それを理由に攻撃することは表現活動そのものを萎縮させる行為です。
わたし自身、彼女の思想すべてに同意するわけではありません。
ですが、それと「その人物の表現はやめさせるべき」とする声には、大きな飛躍があります。
批判すべきは行為の内容であって「目立ち方」ではない
キャラクターのイメージを著しく損なうような行為であれば、もちろん問題視されるべきです。
しかし今回のように、ルールを守り、節度を持って行動した上での表現に対し「目立ちすぎる」と非難するのは、表現者側の人格や内面を攻撃するだけの結果になりかねません。
創作活動において承認欲求は避けられない一要素であり、それを否定することは文化の成長を止めることでもあるのです。
つまり、「キャラクター私物化」「承認欲求が強い」「思想が気に入らない」といった批判は、ルールを守った個人への不当な表現規制になり得る点に、わたし達は慎重であるべきだと感じます。
鹿乃つの騒動から考えるコスプレと大阪万博のこれから
今回の騒動は、一人のコスプレイヤーの行動から生まれた単純なトラブルではなく、
オタク文化の過渡期における価値観の衝突と、その未来のあり方を問う出来事だったといえます。
ルールを守っても炎上する時代において、私たちは何を守り、何を変えていくべきなのかが試されています。
時代と共に変わるべき価値観と文化のあり方
オタク文化はこれまで「見えない場所でひっそりと存在するもの」として育まれてきました。
しかし今や、アニメやゲームは世界的に評価され、日本の文化を象徴する存在となっています。
それに伴い、文化の“見せ方”や“ふるまい方”にも変化が求められているのです。
「隠れることが美徳」とされた倫理観は、現代においてはむしろ自由な表現の障壁になりかねません。
批判ではなく対話が文化を成熟させる
文化の変化には摩擦が伴います。
けれど、その摩擦を越えて文化を育てていくために必要なのは、一方的な糾弾ではなく、価値観の違いを認め合う対話です。
「昔はこうだった」「今はこうあるべき」という意見はどちらも大切ですが、他者を排除する道具にしてはならないと私は思います。
ルールの範囲内で自由に楽しむ人たちに対して、その自由が守られる環境こそ、次の世代にとっての文化的土壌となるのではないでしょうか。
鹿乃つの氏の行動は、時代を一歩進めるための「問い」だったのかもしれません。
それにどう答えていくかは、私たち一人ひとりの姿勢にかかっているのだと感じます。
二次創作の歴史とリスクヘッジ、そしてオタク文化との衝突
今回の大阪万博での炎上は、単発的な出来事ではなく、
「二次創作文化が歩んできた道」と「今まさに浸透しつつあるオタク文化」の衝突だと見ることができます。
その背景には、二次創作を守るために培われたリスク回避の文化と、よりオープンな発信を志向する新世代の表現スタイルとの価値観のギャップが存在しています。
かつての二次創作は「バレないようにやる」のが当然だった
以前の二次創作活動は、著作権リスクや社会的な偏見を避けるために、目立たず活動することが常識とされていました。
イベントでの「一日版権制度」や、ネット上での匿名性の確保など、あらゆる手段で“気づかれないこと”が重要だったのです。
こうした文化は、当時の社会背景に合わせた必要な自己防衛でした。
しかし、二次創作は「見せるもの」として成熟した
現代では、多くの企業が公式ガイドラインを整備し、創作文化そのものの価値が広く認められるようになっています。
一次創作とファン活動が共存し、むしろ宣伝やブランド構築に貢献する例も少なくありません。
こうして、かつて地下文化だった二次創作は社会に受け入れられ、「広める」から「守る」フェーズへと移行してきました。
守りに入った二次創作と、攻めに出たオタク文化の衝突
それに対して、オタク文化そのものは今がまさに“社会への浸透期”にあります。
アニメ・ゲームが世界中に拡がる中で、オタクというアイデンティティを公にして表現することが、一般的になりつつあるのです。
それゆえ、「隠れるべき」「遠慮すべき」とする昔ながらの姿勢は、窮屈で古びたものに映ることも増えてきました。
この価値観の対立こそが、鹿乃つの氏のように可視化と発信を前提とする世代と、内向きで保守的な美徳を重視する世代との間に深いギャップを生んでいる要因です。
こうした軋轢は不可避であり、それは文化が社会に根付いていく過程で何度も繰り返されてきた現象でもあります。
今まさに、その通過点にオタク文化が差しかかっているのです。
そして今回の炎上は、その歴史的な転換点に立ち会ったケースと見ることもできるでしょう。
二次創作の歴史とリスクヘッジ、そしてオタク文化との衝突
今回の大阪万博におけるコスプレ炎上は、オタク文化という観点だと単発的なトラブルではありません。
二次創作文化が築いてきた「慎重さと自衛」の姿勢と、現在のオタク文化が持つ「可視性と開放性」が、真正面から衝突した象徴的な出来事といえるでしょう。
この背景を理解するには、二次創作がいかにして文化として認められ、社会に受け入れられてきたかを振り返る必要があります。
かつての二次創作は「配慮して存在するもの」だった
インターネット普及前の時代、二次創作は著作権リスクやバッシングと隣り合わせの存在でした。
そのため、公の場で堂々と活動することはリスクとされ、限られた空間で静かに楽しむという自衛的な文化が形成されていったのです。
「配慮すること」「目立たないこと」はマナーであり、それは長く二次創作者の共通認識として続いていました。
しかし、二次創作は「見せるもの」として成熟した
やがて同人イベントの発展や企業との対話を通じて、二次創作は社会的な立ち位置を大きく変えていきます。
二次創作自体が、作品を楽しむファン活動の一環であり、原作者・権利者にも宣伝効果などの利益があるといった立て付けで、節度ある範囲ならば好意的に受け入れられるようになりました。
それこそ昔は、二次創作に対して攻撃的な意見を持つ漫画家さんなどもたくさんいました。
その流れで、近年では多くの企業が二次創作ガイドラインを公表し、一定の条件下での創作活動を公式に認めるようにもなっています。
こうした積み重ねによって、二次創作は“隠すもの”から“見せるもの”へと変化を遂げ、文化としての位置づけを確立していきました。
成熟した文化は保守的になる
現在では、企業とファンが共存する「成熟した二次創作の生態系」が構築されています。
それゆえに、以前のような攻めの姿勢から、現在はむしろ「守る文化」へとシフトしつつあるのです。
「表に出すなら、慎重に」「誤解を生まないよう控えめに」といった意識は、かつて文化を育てた経験から生まれた正当なリスク管理とも言えるでしょう。
オタク文化は今まさに“可視化と発信”のフェーズ
一方、オタク文化全体は今がちょうど社会への可視化・拡張のフェーズにあります。
アニメ・ゲーム・コスプレは世界中で人気を集め、オタクであることを公にすることがむしろ個性として尊重され始めているのです。
そのため、「目立つな」「隠れていろ」という古いルールが、新しい世代には時代遅れに映るのは当然の流れとも言えます。
今回の炎上は、保守的な姿勢を取る二次創作的な文化と、可視化を目指すオタク文化の接触点で起こった軋轢でした。
これは過ちではなく、文化が進化する過程で不可避な“通過儀礼”とも言えるのではないでしょうか。
大阪万博・鹿乃つの炎上騒動から見えた現代文化の分断まとめ
大阪万博における鹿乃つの氏のコスプレ炎上は、マナーの問題や一時的な炎上にとどまる話ではありません。
異なる価値観が交錯するなかで起きた、文化的転換期の衝突だと捉えるべき出来事です。
この騒動を通じて浮かび上がったのは、表現の自由と文化的秩序のあり方をどう調和させていくかという、現代的かつ根深い課題でした。
思想への反発はあったが、それ以上に「存在のスタイル」が問われた
鹿乃つの氏に対しては、その発言内容や価値観について異論を唱える声もありました。
しかし同時に、それ以上に印象的だったのは、「そういう在り方自体が不快」「そういう存在は場違い」とする空気的な拒絶感です。
何を言ったかではなく、どう振る舞ったか、どう見えたかが批判の焦点になっていた点に、現代の文化的リスクが潜んでいます。
勝者が歴史を作る。ならば次に進む者は誰か?
文化の歴史は、反発と改革の繰り返しの中で前進してきました。
二次創作も、オタク文化も、過去には多くの批判や制限を乗り越えて今の形を得ています。
そして今回のような衝突もまた、新しい価値観が台頭する予兆なのかもしれません。
これから文化の主流となっていくのは、もしかすると今まさに批判の的になっている側なのです。
私たちが向き合うべきなのは、文化を守るために他者を排除するのではなく、多様な表現をどう共存させていくかという問いです。
今回の騒動は、その難しさを明らかにしながらも、
それでも前へ進もうとする個人の表現が、文化を動かす力になるという事実を私たちに突きつけた出来事でもありました。
- 大阪万博のコスプレ炎上の実態と背景
- 鹿乃つの氏の行動はルールに則ったものであった
- 批判の多くはモラルや空気感によるものだった
- 二次創作文化は成熟し保守的になっている
- 一方でオタク文化は今まさに社会へ広がる段階
- リスクヘッジと開放性の世代間ギャップが対立の根底にある
- 承認欲求や思想に対する批判は文化の抑圧にもなり得る
- 文化の変革期には必然的に衝突が起きる
- 重要なのは排除ではなく、多様な価値観の共存