第二章:差別や社会風刺を扱うリアリティ問題
時代錯誤の差別観
BLACKSUNに出てくる怪人差別に対抗する集団『護流五無』は、どう見ても学生運動のノリで運営されている。実際に1970年代前半は学生運動が盛んだった時期と重なる。
今回はわかりやすさ優先で、あえて学生運動の専門用語等は使わない。
例えば『総括』とか言っても、普通はまとめる以外の意味とかサッパリわからないからネ!
そもそも怪人差別が行われているのに、怪人自体の設定がかなり不鮮明だ。
怪人差別は黒人等の人種差別と重ねるよう描写されているが、そこに至る経緯がサッパリわからない。
黒人差別だってその是非は別問題として、そこに至った歴史的な経緯は存在する。
本作だと最初の切っ掛けは旧日本軍で、改造兵士による武力強化が目的だった。
それがなんやかんや社会問題化する程に増えて、特に兵士とか一切関係なく日常生活を送っている。
(説明がないので具体的な数も不明)
しかも一般的には怪人の起源すら不明。
創世王の存在を知るビルゲニア等一部の者達のみが、肉体改造されたことは自覚している状態だ。
現代では、マイノリティを利用して怪人やヒートヘブンを生産して私腹を肥やしている。
途中に挟まるべき間の流れがゴッソリ抜け落ち、一般的に怪人の存在が認知され差別が始まっている。
どういう経緯を経れば、こんな複雑怪奇なシチュエーションが出来上がるの?
明らかに政府の陰謀によるものではあるだろう。
しかしなんの説明もなく陰謀論に頼り切るのは物語的に陳腐である。
それに護流五無が学生運動を起こしながら、この事実を一切公表しなかった理由もわからない。
いつどうやって現れたかも不明な異形存在と、何かの陰謀で拉致され改造された被害者では、世間的な扱いは大きく異なるだろう。
少なくとも後者は人間であることが確定する。
これはヘイターの存在に関わるかなり重要な部分だ。
しかも過去も現在も、怪人関係で明確に暴力沙汰を起こしているのはゴルゴム関係ばかりなので、怪人に対するヘイトに違和感しかない。
BLACKSUNの怪人と人間の種族間による隔絶を用いた差別意識は、斬新で新しい要素と書かれているニュースサイトの批評も見かけた。これは事実に反する。
マイノリティへの差別問題は、白石監督の主義を仮面ライダーに落とし込んだのは事実だ。
しかし怪人と人間の種族間対立は平成ライダーでは幾度も描かれてきた。特にファイズはBLACKSUNと被る要素が多く感じた。
怪人差別で唯一リアリティを感じたのは、葵が怪人化して自分は怪人じゃないと主張してしまうシーンだ。まさに無意識下にあった『怪人と自分は違う生き物』という認識が表層化したと言える。
ただしこれは体感を経たことが重要だ。人間誰しも、自分が突然全く違う何かに変化するのは強い恐怖が伴う。
そのため葵の忌避感と、一般民衆が抱く差別意識はニュアンスが異なる。
またこれはファイズの劇場版でも類似のシーンがあり、しかもこちらの方がより民衆感情に近い。
[su_spoiler title="パラダイスロストのネタバレ(クリック表示)" icon="plus-square-1"]
巧(主人公)が怪人かもしれないと告げられた真理(ヒロイン)は、強い忌避感を覚えてしまった。
ずっと人間と共に戦ってきた怪人の木場はその声が聞こえてしまい、静かに傷付き人間への不信感が強まってしまう。
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BLACKSUNでは「理由とかいいから、とりあえず怪人差別のある設定にしました」な状態になっている。
ここまでくると『跳んで埼玉』の埼玉県民差別に近い。
「怪人にはそこらへんの草でも食わせておけ!」
二つの時代を描く面白さと欠陥
BLACKSUNは仮面ライダー50周年であることを意識して、50年前と現在、二つの時間軸で物語を展開した。
現代に次々と出てくる事件と謎を、50年前の出来事とリンクさせ、最後はそれらが全て一本の線に繋がり結末を迎える。
二つの時間軸を使った物語の展開は、謎を掘り下げていきながら盛り上げを加速させていく。そして最後に全てが繋がるカタルシスを与える。
これは光太郎と信彦の二人の宿命を描く上で有効なだけでなく、幼い人権活動家だった葵の成長物語にも大きな意義があった。
光太郎と信彦以外でも怪人達の群像劇を掘り下げるにも、この手法は有効だ。
誰よりも実直だったビルゲニアが道を誤るまでの軌跡は、実に上手く描かれていた。
ミステリ要素を持つこの仕組みを、本作独自の要素としてみる人や記事もみかけたが、これもまた知る者にとっては「完全にキバだこれ!」となる。
目新しいどころか「お前達の発想は平成ライダーが十年以上前に通過している」だった。
いやまあ、プロデューサーが同じく白倉氏なので確信犯だと思うけど。
それに、50年の年月は活かしきれていない部分も目立った。
バスの中で怪人が乗っていることにイチャモンを付けるのは、そのまんま古い典型的な黒人差別の表現である。
半世紀も経っていながら、差別描写にまるで現代的な進歩がない。
一度だけなら、たまたま態度の悪い人間が絡んできたと言えるかもしれないが、最終話でも発生するので日常的に生じる事件になっていた。
わざわざ時間軸を二つに分けているのに、現代側ですらアナログで古臭い差別描写を繰り返し出された。
現実の黒人差別だって五十年あれば意識や形は大きく変化していった。この世界の日本人は、半世紀もかけて一体何をやっていたのか。
仮面ライダー50周年の記念だから、あえて時間軸をそこに設定したのは理解できる。
しかし、物語として50年を設定したのだから、本来は50年の年月を想定した物語構成を行うべきなのだ。
その設定をまともに活かせていたのは葵関連で、しかもごく一部だけだった。
むしろ足を引っ張っている要素が大きい。
社会問題なのに現実に即していない差別設定
BLACKSUNは現実世界にあるマイノリティや人種差別と同列に、怪人差別を扱っている。
護流五無で自分も差別されていたからと協力する黒人青年や、怪人とは異なる人種差別への反対を訴える子供からも、それは明確に描かれていた。
それにBLACKSUN世界の怪人達は、一部の上級怪人と呼ばれる存在を除き、ひたすら人間達に虐げられている弱い存在として描かれる。
数が少なくて差別される存在なのだから当然だと考えるのは、一面的で浅い見方だ。
まず、半世紀という時間の長さを甘く捉えすぎだろう。
人間は未知の存在に対して根源的な恐怖を抱く。そりゃあ存在が確認された当初なら、恐怖や誤解から様々な差別や悲劇が起きたかもしれない。
それでも、国民全体が幽霊や神を本気で信じる時代ではなく科学文明の現代だ。
半世紀あれば、共存できるレベルでの解析は十分可能だろう。
有益性が証明されれば、怪人へのイメージも必然的に変わってくる。
常人より優秀で個体数が少なく、中でも特殊技能を有する人材なら、必ず何処かの企業は欲するはずだ。
そして、そういう企業行動を大手が取れば、それは恐らくニュースになる。
印象が悪いからこそ、それを塗り替える行動はニュースのネタにされやすい。
これは例えば、オタクは80年代終盤から差別されて世間一般から犯罪者予備軍扱いされてきた。
しかしエヴァショックが起きたり、海外で評価されたり、電車男が話題になったりする度にイメージの形を少しずつ変えていった。
そうして今やアニメや漫画は世界に誇る一大コンテンツとなり、それらを愛好する行為は(一部の攻撃的な方々を除いて)差別対象にならない。
それどころか差別されていた事実をほとんど知らず、それを語る者を老害扱いするオタクが生じているのと全く同じだ。
BLACKSUNの世界では、ゴルゴム党という政党があり、政府の与党は(表向きだけとはいえ)怪人との共存に前向きだ。
この状態で半世紀も人権の有無を延々と問答するのは明らかに異常である。
五十年という年月は、差別問題を引っ張るにはあまりに長過ぎた。
しかも差別が変わらず存続している理由すら、まともに解説されていない。
政府が暗躍して情報規制しているのは、僅かな情報から一応読み取れる。
しかし、日本の政治家が国外からの圧力に耐えながら、日本国民の感情をそこまで意のままにコントロールできるか?
特別に超優秀な政府じゃないのは、わざわざ現代風刺を入れて説明してくれている。
また、ヘイトが存在するにしても、あんな堂々と都会の町中を毎日のように練り歩いてスピーチするのは時代錯誤だろう。
それに、あそこまで苛烈なヘイト行動をするなら、その根底には愛国心がある。
何故なら差別する側にとっては差別するだけの理由があり、それは正しい行いなのだ。
差別とは市民の生活をより良くする意図がそこにあり、正義が暴走した結果、どんどんその行為がエスカレートしていく。
例えば、SNSで「最近の仮面ライダーがつまらない! クソだ!」と一生懸命攻撃する人は、仮面ライダーを消したいのではなく、改善させて存続させたい意図の方が大きい。
他にも、フェミニストをやっていてオタクにすごく攻撃的な方々は、本気でオタクがいるから性犯罪が起きていると心から信じている。
実例を書くことでハッキリするのだが、現代なら一般市民が向けるヘイトや差別はSNSを舞台にする方がずっと主流だ。
井垣渉のような過剰なヘイターを現代人として描くなら、SNSやネットを使った表現も混ぜるべきだった。
特に現実のヘイト活動を行動の一部とすれば、ネットで目立つために過激な行動を取る者にもできる。
利己的な悪意のみのヘイターとして、ずっと説得力やリアリティが増しただろう。
怪人が日常にいるSF作品観点で観たBLACKSUN
BLACKSUNの怪人に対する大きな問題は、怪人が日常にいる世界という根幹に対する作り込みの甘さもかなり大きい。
本作は主要人物の多くが怪人であり、彼らに対しては人間性や思想に丁寧な掘り下げがある。
それに比べて世界観としての怪人は『怪人=マイノリティの外国人』の枠に当て込むだけで、『怪人が実際に差別されたらどうなるか?』にはほとんど見向きもしていない。ここが本当に極端だ。
怪人には種族として明確な個性がある。
怪人達は下級であっても人間を上回る身体能力を持ち、個体によっては特殊な能力も有する。
しかも情緒は普通の人間とほぼ変わらず、特別に犯罪率が高いわけではない。
事実として一部の職業からすれば、こんな有益な人材は早々ないのだ。
フィジカルを重視される職業は現代でも多くあり、飛行能力は実際に本編内でも使っている。
他にも例えば犬並みの嗅覚といった技能があるなら、それはむしろ中々替えの効かない技能として重宝されるだろう。
無論、強過ぎる個体や、彼らが犯罪に走った場合のリスクは当然ある。
ならば『怪人が現実にいたら、政府はどういう対応を取り、どのような法でそれを縛るのか』といった方向で世界観を作り込んでいくこともできる。
正直怪人が現実にいる世界を扱っておきながら、そこに生じる旨味を全部捨てて、ただの人種差別としてしか扱っていない。
それどころか、展開のために怪人の特性すら投げ捨てている。
俊介はヘイターに襲われどんどん囲まれてリンチされ、最終的に死亡してしまう。
だが、そもそも人より強い力を持っており、シャドームーンと共に革命のためにテロ行動を起こしてきたばかり。
(ていうかテロ起こしたのに、何で葵と一緒にのんびり歩いて帰ってるの……)
ビビリながらも勇敢に他人を助ける勇気あったじゃん。銃を持ってた連中に比べれば、そいつら本当にただの雑魚だよ。
鍛えながらヘブン食べていたのは何だったのか。
百歩譲ってこんなあからさまなリンチ状況でも、殴り返したら理不尽にお巡りさんが来て撃たれるかもしれないとしよう。
それでもさ……君、普通に飛べるじゃん! しかも周囲の人間にも全く気付かれないくらい、音もなくシュッと俊敏に移動していた。
心の中で助け求める前にさっさと飛んで逃げろ!
もっと部分的にしか描かず、狭い視野の物語を描くなら上記の設定は蛇足になるだろう。
しかし、日常の中に怪人がいて、それらが国中から差別される弱者側の世界観を重視するなら、整合性のある世界観の構築は本来必要だと思う。
SF設定の緩さなら他にもある。というか幾らでもある。
ゴルゴム党という強引なセンスから、ちゃんとした政府機関なのに謎の三神官とか、まんま原作から持ってきただけで、整合性やら説明皆無のワード達。
仲間達に付けられたコードネーム? みたいな謎のセンス。総理や部外者すらそこにツッコミを入れない。
ヘブン無しで足に怪我有りオッサンのブラックサンと、毎日のようにヘブンを食べて若々しい肉体を保っているシャドームーンがタイマン張って、ブラックサンが勝つのも不可思議だった。
ヘブンの万能さをあれだけ見せておいてから、それを意地でも食べないブラックサンはかなりのハンデを背負っているのではないの?
これも展開のためにブラックサンを勝たせた感が強かった……。
キングストーンがあるから二人が特別なのはわかる。
でも石を持っていなくても変身や戦闘力に影響ないのはちょっとどうなのかと思う。
ベルトとの関連性も無し? 急に二段変身かますシャドームーン。
(これは創世王の能力に目覚めたからなのは察せられるが、さも出来て当然みたいな流れであまりに唐突だった……)
というか葵のベルトはいつ何処で用意したの? ビルゲニアこっそり仕込んだ?
石の特別性が中途半端過ぎて、最初は持っている石と体内の石はそれぞれ別物なのかと勘違いしてしまった。
生々しい世界作りしながら、勢い重視のガン攻め展開が過ぎる……。
ただ、漫画版から持ってきた設定や、部分的な設定は良い感じに使っていたとは思う。
光太朗と信彦が互いに腕を伸ばすシーンは原作にもあった(ドラマの方にもあったのかもしれないけど)。
戦いの中でシャドームーンの超能力みたいな覚醒も漫画版ブラックでやっており、念動力的な能力も恐らく原作に寄せた結果だろう。
ブラックサンの一段目の黒バッタは、原作のデザインに近い生物的なデザインだ。原作も多腕でちゃんと動く描写があった。
二段変身も『通常カラーのバッタ→黒バッタ』の二段プロセスになっている。
力を籠める変身ポーズはドラマ版通りだけど、人間から怪人への変身プロセスで力を籠めると後にちゃんと説が明付けられていた。
こういった理屈付けがあるだけで見ている側のイメージも全然違ってくる。。
ブラックサンとシャドームーンの変身は純粋に格好良くてただただ熱かった要素だ。
熱いシーンの拾い方は本当に上手いだけに落差が残念だなと思ってしまう。
怪人差別は話の核とは無関係?
怪人差別の世界観と設定問題に対して多い反論が、『BLACKSUNの物語は光太郎と信彦の創世王を巡る戦いで、怪人差別はそのためのただの舞台だ』というご意見である。
これは一部こそ正しいと思うものの、かなり強引な理屈だとも思う。
『仮面ライダーBLACK』と言えばブラックとシャドームーンであり、この二人の対決は宿命だ。
漫画版(シャドームーンはブラックと同じ姿だけど)でも同様である。
二人の戦いは物語上最重要で必須な事柄であることは疑いようがない。
しかしながら、それは『それ以外はどうでもいい要素』という理由にはならないのだ。
BLACKSUNには『正義と悪の境目』というテーマが掲げられている。
また『人間も怪人も命の重さは地球以上、1gだって命の重さに違いはない』の主張は怪人を異人種として見立てた差別に対する反論だ。
本作ではこの台詞がしつこいくらい繰り返し述べられており、それをどうでもいい要素として切って捨てるのは、どう考えてもおかしな話だろう。
怪人も人間も違いはない。
だから怪人差別の中でも、自分達は人間と変わらないと主張する。
どうやったら差別から解放されるか考えて、人生に抗い、必死に生きようとしてきた。
本作では怪人達の人生と戦いの記録を、幾人ものキャラを使い描いている。
つまりは群像劇型の物語構成であり、光太郎と信彦“だけ”の作品構成には全くなっていない。
これが最もわかりやすいのは、三神官のダロムとビルゲニアだろう。
ダロムは怪人達の差別を無くすため総理と交渉するが、最終的には政府側が主導権を握る、一方的に不利な条件を飲んでしまう。
護流五無はゴルゴム党になるが、怪人達の未来を左右できる立場にあるのは自分達ではなく、怪人差別はまるで解消されなかった。
けれどダロムはゴルゴム党で三神官の立場になり、地位や利権が欲しかったわけではない。
それどころかヒートヘブンを食すことを拒み、寿命を全うするつもりだった。
怪人側は数の差が大きく、政府はそのことを全て折込済みで、自分達の学生運動は掌の上だった。
勝ち目が全くないと悟り、それがどれだけ細く暗い道であっても、怪人達の生活が少しでも改善する選択をするしかなかったのだ。
結果的にそれは、真に怪人達を解放からはむしろ遠ざかるどころか、逆に政府が怪人を生み出し売買する温床を生む『悪』の道だった。
ビルゲニアは護流五無の中でも、最も強硬派でダロムの判断に離反して戦い続ける。
しかし政府に捕らえられ長きに渡る監禁生活の中で、遂に新総理の犬になって自由になる道を選んだ。
怪人の出自を知っていたこともあってか、ビルゲニアは自ら怪人を生み出し悪用する側へと堕ちてしまう。
しかし、そうでありながら総理が不利になる証拠を手にすると、それを直接報告せずに自分だけで握り潰す。
そして政府から見放されると、自分の道を振り返って深く後悔。
ビルゲニアは葵を守るため、政府に抗っていた頃のように激しい戦いの末に命を落した。
答えの見えない曲がりくねった道を歩き続けたビルゲニアの最期は、本作でも高く評価する人が多いシーンである。
他にも、ニックは自分が怪人になりたいがため葵を売ったが、その裏には総理に父親を殺された恨みと復讐心があった。
そして作中で唯一自ら望んで怪人化しただけあり、なってからも一切後悔が見えない。ある意味誰よりも人と怪人に間に差別意識を持っていない人物だ。
何が悪か。誰が悪か。
怪人達のそれぞれの生き方が、それを語っているのだ。