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ジオディケ 門矢士が望んだ旅の終着【考察・感想】

2021年3月20日

ゼミ生の皆様こんにちは、語屋アヤ(@ridertwsibu)です。

今回はジオディケ解説と考察の後編です。
前半はジオディケ共通部分とジオウを語ったため、今回は残るディケイド部分がメインになります。

全体構造とジオウメインの前半はこちら。

話の尺という意味合いでは、当然の如くジオウよりディケイドの方がストーリーも凝縮されていました。
その分、評価もジオウよりディケイドの方が厳しいものが多くなるのも必然でしょう。

しかしながら、ジオウよりも尺が短い分だけ「ディケイド館が何をしたかったのか?」はよりシンプルに表現されていたと思います。

ただし前編でも解説した通り、井上脚本の濃厚さによりそれを読み取るのが難しい。
「濃縮還元されたストーリーを良い感じに希釈して解説するよ!」が今回の趣旨と言えます。

また、ある意味で本作最大の見所にして賛否両論だったろう士の終着。
これついても勿論ガッツリ触れていきます。

何故ディケイドの終着がああなったのか。
それを私達はどう受け止めるべきなのか。
この考え方は一つではなく、色々な面で見れると私は思っています。

それがディケイドというどのライダーよりも特殊な成り立ちで、長きに渡り『平成』を渡り歩いて生きたからこその面白さとも言えるでしょう。

平成の十周期に生まれ、
次代の十周期を旅して、
新時代にまでその在り方を届かせた。

平成の概念を象徴する門矢士の旅にも踏み込んで語りたいと思います。

ディケイド館の本質は○○オマージュ

ディケイド本編のオマージュ

ディケイド館側の特徴として、『ディケイド』を本編以後から変わっていった部分をそのままに、かつての『ディケイド』として描いたことだ。

これはディケイドという特殊な作品性が根底にあることを理解しなければならない。
門矢士というキャラクターは、本編を終えてからも度々他作品にメインキャラの一人として出演している。

スーパーヒーロー大戦では主役の一人に近い立ち位置で、『平成VS昭和』も本編から五年後とは思えない扱いだった。
直近のジオウではサブレギュラーであり、レジェンドの中では誰の目から見ても明らかに別格の扱いから、今回のジオディケに繋がっている。

その流れの中で、『ディケイド』はその後の門矢士を作っている。
実は、この『その後』の士をそのままか『かつてディケイド』に当てはめ直すのはかなり難しい。
喩えるならドラゴンボールZの大人悟空で、初期のドラゴンボールを作品雰囲気は変えずにやれというようなものだ。

しかし「ディケイドだからね!」と言える『わけのわからなさ』を今回もう一度やれている。
ディケイド館は何故かしっかりとあの頃のディケイドなのだ。

これについての読み解き方はジオウのキバ編と同じ。
キバ編ではキバを出してキバっぽいことをやらせるのではなく、キバが本来持つ作品全体の空気感をジオウの中で再現することでキバ編を作った。

なので、当時のわけがわからないけど雰囲気で突き進むディケイドを覚えている人は懐かしさを感じるし、すっかり忘れて美化している人や、あまりディケイドを知らない人は「なんだこのわけのわからない駄作は!」となってしまう。
元々ディケイドという作品自体が当時めちゃくちゃ賛否両論だったのを踏まえると、それを良くも悪くも再現したディケイド館が賛否両論となるのは当然の結果だ。

このディケイドらしい雰囲気を作っているのは、キャラクター性は違うけど色々出てきたレジェンドメンバー。
出番は短いけどキャラは濃い。特に吉田メタル氏のインパクトが強烈過ぎる!

それと意図的か偶然かわからない部分も含めた、細かな作品構成もあるだろう。
構成で一番わかりやすいのはユウスケと士のやりとりだ。
中には「でもユウスケ別人だったんだから、やりとりも偽物だろ」と考える人もるかもしれないが、これにはこれで理由があると私は思っている(ユウスケに関する考察は後術)。

ラストのオーマジオウ戦も、ディケイドの冒頭やラストのライダー大戦を彷彿とさせる荒野。
そこへ一切の説明なしに何処からともなくディケイドのライダー達が現れて参戦。オーマジオウへの徹底抗戦を始める。

これはオーマジオウをかつての破壊者ディケイドに置き換え、襲いかかるライダーをディケイド達にシフトしている。
これら全てがディケイド本編に対するオマージュだ。

大爆発の後に校舎で目覚めるソウゴは、まるでディケソウゴが目覚めたようにも見えるがそうではない。
そもそも変貌した校舎で眠る構図そのものは、『7人のソウゴ』側のシナリオにも繋がりはなく全くの不要。むしろ目覚めたら世界が一気に置き換わってましたでは矛盾すら起こる。

ディケイドではライダー大戦が起こると、それを夢の光景として夏海が目覚める。
オーマジオウによる世界の破壊は、そのままディケイドのライダー大戦をオマージュにしているという事実を画で見せている。

夢を繋ぎにしてジオウ側へと話を繋げて、ジオウ側を観てない視聴者から大ブーイングされた流れも、やはりディケイドのオマージュだ。
TV版では最終回で戦いが決着せず、いつも通りの次回へ続く演出が出て、そのまま『真の完結編は劇場版へ』という予告が流れた。

かつて数多の視聴者をジオディケどころではなく大激怒させて、お偉いさんの謝罪騒ぎにまで発展した伝説の最終回。
あの流れをそのまま再びジオディケでやって、ジオウ側を完結編としたのだ。

流石は白倉P、当時あれだけ問題になったというのも喜々としてもう一回やる。エボルトばりのド畜生さだよ!

理想のディケイド館

井上正大氏の配信にて、とあるハッシュタグを付けて自分の見たかったディケイド館はこんな作品だったと内容をツイートすれば、後で見て判断してくれるという話をしていた。
私はそんな出演者にダメージを与えて憂さ晴らししたいとは思わないし、そもそも楽しめたと思っているのでツイートする気は全くない。

ただ、自分が観たかった理想のディケイド館というものは、それはそれである。
無論、作品制作には決められた尺や予算その他諸々があって、その枠内でベストを尽くさなければならない。
これから書くのはそれらをわかった上で、あえて妄想のみで語る理想の展開だ。

士とソウゴがオーマジオウに戦いを挑むが全く手も足も出ない。
そこへ駆けつけたのはユウスケ。警戒する士に対して彼は「待たせたな士」と言いアークルを装着。クウガへと変身。
同時にオーロラから仮面ライダーキバーラとディエンドも参戦する。

更には何処からともなくドラグレッダーやデンライナー達が飛来。キャッスルドランとその上に乗ったゾルダがファイナルベントを発動。
地上ではバイクで疾走するライダー達。その中にはトライドロンやリボルギャリーの姿もある。
数多の並行世界からライダー達が集結した、第二次ライダー大戦が勃発したのだ。

しかし相手はあのオーマジオウである。
集いしライダー達すらも次々と倒されてしまう。
軍団の壊滅を象徴するように、オーマジオウの前で倒れ落ちるドラグレッダー。

ソウゴは最後の希望としてセイバーウォッチをディケイドに預けてオーマジオウへと特攻。
大爆発が起きて場面は暗転。そして校舎の中でうたた寝から目覚めるソウゴの姿が――そこでネオディケイドライバーが画面全体に現れ次回へ続く演出が入る。

そして通常と同じくエンディングが流れて終わりかと思いきや、『ライダー大戦は7人のジオウへ』の文字と共に入る予告動画。

驚愕するスウォルツ。

「これが本当の世界だったとは!」

突如オーマジオウの背後から組み付く鳴滝。

「今度こそ真の正体を明かす時がきたな!」

ネオコンプリート21が襲いかかるのはオーマジオウではなくソウゴA。

「お前が真実のソウゴだと……!」

死んだはずの異世界ユウスケは黒目のアルティメットとなり、それに対峙するのはもう一人のユウスケにしてライジングアルティメットだった。

「世界は俺がもらう!」

そして、全ての決着を付けるためにジオウとディケイドは並び立ち、オーマジオウと歴史の行末を決める最終決戦に挑む!

「俺と士さんなら、やれる気がする……!」

という感じで一つ。
え、『7人のジオウ』最終話の展開? もちろん実際に配信されている内容のままですよ? 全部嘘予告に決まってるじゃないですかー。

ここまでやったらわかる人間には最終回オマージュだと絶対わかる。
結果、何も知らないまま誘惑に負けてテラサに登録してもっとガチギレする人か、「おのれディケイド!」と叫びながらも実際は腹抱えてゲラゲラ笑い転げる人に二分されて、とても楽しいと思います。

小野寺ユウスケに仕込まれた二段フェイク

わけわからないノリでテンション上げすぎたので一旦クールダウンしよう。
後術と書いていた小野寺ユウスケについても語りたい。

本作の賛否両論ポイントの一つはユウスケの扱いなのは間違いない。
個人的な見解としては、意外性を狙ったフェイク目的が半分。
『こうするしかなかったのだろうな』という気持ちがもう半分である。

フェイク要素は当然、ゲームに潜む殺人鬼の正体がまさかのユウスケだった事実だ。
これは幾つもの伏線や違和感がちりばめられていたので気付くのは難しくないが、明け透けという程でもない。絶妙な匙加減での仕掛けだった。
ユウスケが犯人だと疑念や確信を持った者程、井上脚本が仕掛けた真のトラップに引っかかる。

本当にユウスケが犯人なのか?
そうなるとこのユウスケは別世界のある意味偽物か。ユウスケには本物であってほしい。

この事実に士は気付いているのか。わかった上で泳がせて油断させているのか?
ついついそういう目線で皆が作品を追ってしまう。

そして残る者達も脱落していって、遂に士とユウスケの一騎打ちへ――と見せかけて脱落したはずの者達が次々と現れる。

実は機械人間だったソウゴ。
宇宙人のウールに、最初から死んでいた幽霊まで出てくる。デスゲームとは……。

ユウスケが別世界という疑念は、他のメンバーが人間ですらないというオチを、より強く印象付けるための二重トラップだった。
過去キャラクターならではの存在感を最大の目くらましにしたようなものだ。

デスゲームが成立しなくなるようなノリにユウスケは激怒する。ついでに視聴者の一部も激怒していた。
しかしながら、人間に見えても人間じゃない者もいるかもしれない的な話を士は前もってハッキリ説明している。先に予言されていた事柄でしかない。
秘策がある的な発言も、次回予告も、もう遅いという手遅れ台詞(実は間に合う)も全部が全部、この流れを『想定できる展開』にする伏線だった。

ついつい、ロックマンとかマリオでトラップに引っかかり残機減らした者が「ムキー! クソゲー!」とキレるのを眺める気持ちで、ある意味コイツ楽しんでるなあと思ってしまう。

何よりこのゲームの仕掛け人こそが鳴滝であり、士を導いた張本人でもあるのが最大のフェイクだった。
「実は私は○○だったのだー!」連鎖のゴール地点だ。

誰が勝ち残ってもオーマジオウが納得しないから、多方面のオモシロ人材を探してきたのか。
それとも士を呼びつけて今回で終わらせるため、あえてトンチキメンバーにして生き残る者を一人でも多く増やしたかったのか。

とりあえずウールの世界あたりに仮面ライダーギンガがいそうだなと思った。
ちなみにタイムジャッカーメンバーは、ディケイド側ではウールだけが生き残り、ジオウ側ではウールだけが死亡した。
ここも前回のキバ構造で考えると対比の関係になっている。

ユウスケが別世界人でなければならなかったもう一つの理由は、物語を成立させるためである。
参加者に変身できてアナザーリュウガと戦う者がいると、それだけでジャンルが変わる。

勝機に関係なく皆を守るために戦うのがクウガでありユウスケという人物だ。
椅子持ってビビってるだけではキャラとして矛盾してしまう。

何よりも、大事の前の小事と参加者の犠牲を許容する、現在の士を受け入れるとは思えない。
内心では王になることを目論む異世界のユウスケだからこそ、士の割切りを『有り』にした上で、ディケイド本編時代と同じ雰囲気で話ができる。

皮肉なことに、ユウスケはユウスケじゃないから、違和感なくあの頃のディケイドが再現できたのだ。

旅の終わりに海東がいなかった理由

もう一つ作品における長短の話をするなら、ジオディケ最大の欠点は戦闘シーンだろう。

コンプリート21の戦闘はどう考えても本作における尺と予算都合最大の犠牲者である。
カメンライドによる最強フォーム召喚はほしかった。
前編で解説したように、進化したコンプリートがオーマジオウを倒す可能性だったのだとしたら尚更だ。
例えば、平成二期でもある意味本物のチートだったハイパームテキがオーマジオウに挑む画をみたい人は、(結果がわかっているとしても)少なからずいると思う。

そもそも番線で最大の目玉だったのは間違いない。
令和ライダーのゼロツーを駆使して一時的とはいえ善戦して、コンプリート21の存在感は出すべきだった。
それでも、戦闘シーンが完全にダメダメだったかと問われると、これはこれで案外そうでもない。

ディケイド側の最終戦でディエンドの声が、ライブラリ音声とはいえ入っていたのは嬉しい誤算だった。

そして、コンプリート21の戦闘でもディエンドライバーも同様だ。
散々使ってきたディエンドライバーで、これまでなかった薙ぎ払う画で見せるのは「おっ! こういう見せ方もあるのか」と思わされた。

ディケイドのファイナルアタックライドも、新しい演出になっていてコンプリートとの違いは出ている。
フツーに弾き返されたけど……それもまぁ、士は大怪我で残った命が短く、クマジオウは同じ技で即消滅だったことを踏まえれば一応健闘はしている。士、病んでさえいなければ……。

演出としては悪くないのだが、期待していた観たい画とはズレている。
そのため、作品の花形と言える場面で、どうしても満足度は落ちてしまった。

ここで疑問になるのは、海東の存在感だろう。
海東の名前は宝探しの中でも出てきており、本人が登場しない割に存在はかなり意識されている。

ここまでやるなら「海東自身にも出てもらうべきだったのでは?」と思う人もいるだろう。
実質ディケイドが旅を終える作品でもある本作なら、いてほしい存在であるのは間違いない。

この理由はストレートで本来は海東大樹が出演予定だったのをキャンセルしたからだ。
井上正大氏が実施したライブ配信で一緒にトークした戸谷公人氏が直接語っていた。
(なお、たまたま井上氏の配信を見ていた戸谷氏が話したくなっての飛び入り参戦!)

キャンセルしたと言っても元々出演は了承しており台本も貰っていた。
ご家族が体調を崩して介護が必要だったため、戸谷氏は断腸の思いで出演を断ったそうだ。
変更前の台本では海東の出番も結構あったとの話もあり、脚本には間違いなく大幅な変更が入った。非常に残念だが致し方ない事情だ。

それでも音声ライブラリを使用したことで、出演者の中に戸谷氏の名前はある。
海東に関わる部分のアレコレは元脚本の名残であり、せめて存在だけでも示しておこうという、制作側の計らいだったのではないだろうか。

意外と知られていない門矢士の本質

私はキャラクターの死と、現実の人間の死は明確に異なると考えている。
あえて身もふたもない言い方をすると、キャラクターの死とは最大の見せ場でありエンターテインメントだ。
『ワンピース』でも真の死とは忘れ去られることだと語っているが、ことキャラクターという概念においても全くその通りだと思う。

もう一つ、私が好きなアニメに『天元突破グレンラガン』がある。
そこでTV版での死亡に申し訳なさを感じて劇場版では生き残らせたら、逆に声優からそこはむしろ見せ場だろ的なブーイングをくらったという話があった。

仮面ライダーでもその死に様自体を名場面として語り継がれているキャラクターが多数いる。
中にはあまりに愛され過ぎて、死んだシーンそのものよりも『首の折れる音』の方が有名になってしまった者もいるのだが……。
これもキャラクターだからこそ『有り』なのだ。止まるんじゃねえぞ……!

たとえ作品がハッピーエンドで終わろうとすぐに忘れ去られてしまうなら、キャラクターとしてはそっちの方が余程死んでいる。
私の考える死の観点とは、そのキャラクターの生き様を観る者がしっかりと刻み込むことが最も重要であると思う。

そういう意味合いで考えると、ディケイド=門矢士の死とは実に複雑な要素が絡み合っている。
だからこそ様々な読み解き方ができるとも言え、受け取り方で面白さまで大きく変わってしまう。

そこで今回は考え方の複雑度から初級、中級、上級に分けて考えてみたい。

初級:『ジオウ』のディケイドは死ぬのが正史

初級編はジオウという作品の観点から見たディケイドの死だ。
ここで重要なのは、ディケイドが死んだのはあくまで『7人のジオウ』の物語であること。

ここまで語ってきたように『ディエンド館のデスゲーム』はディケイドによるディケイドオマージュだった。
対して『7人のジオウ』は前編で解説したようにネクストタイムの続き、つまりジオウの物語として進行している。
二つは密接に連動しており同じような物語に見えるが、単品ずつで掘り下げていくとそれぞれに趣旨が異なる。

ディケイドの終着がジオウ側であった以上、ある程度はジオウ側の流儀に倣って死したと言える。
これがあくまでディケイド主体の物語であったのなら、士は即座に生き返って「ゴーストのカード持ったことでアタックライド『死ぬ死ぬ詐欺』を覚えたな……!」とか言われてたかもしれない。

ジオウのネクストタイムは、ゲイマジェによって『やり直した世界でソウゴは再びオーマジオウになるか否か』の物語として進行している。
再び仮面ライダーになってしまった以上、これは避けられない運命だろう。

そしてオーマジオウの降臨には一定の儀式が必要だ。
儀式の手順を歴史と共に解説していたのがウォズの持つ逢魔降臨歴だった。

儀式として必要なのはまず『歴代二十作品全てのウォッチを集める』こと。これはやり直し前の引き継ぎで既に所持している。強くてコンテニューの二週目チート感が半端ない。

第二の条件、オーマジオウは魔王以外にも『平成の墓守』の概念も持っているため、ジオウの歴史に関わるライダーはウォッチになるか、仮面ライダーアクアのように倒される(多分例外は語り部であるウォズくらい)。

第三の条件。これが最も大事で(場合によっては第一の条件と並行していたかもしれないが)『最大最後の強敵としてディケイドを倒す』である。
歴史の改変によってTV本編だと士は生き残っているが、それでも『ディケイド』の概念は直接力の半分を奪い取ったアナザーディケイドが代わりに倒されることで満たされた。
やり直しの世界ではスウォルツが改心して味方になってしまったので、ジオウがアナザーディケイドと戦う展開が消失。儀式の役割が再び士へと回ってきた。

これ以外にも更に、歴史の分岐点として白ウォズが関わると救世主ルートが出現して、『オーマの日』にゲイツとソウゴが戦う必要が出る。
ゲイツマジェスティとオーマジオウの戦いがやり直し世界における決着点となるなら、それよりも以前に『ディケイドの死』は歴史の途中に組み込まれなければならない。

つまり今回の展開は視聴者にとっては衝撃でもジオウの歴史では予定調和に過ぎない。
早い話が、ジオウの物語においてディケイドは必要な生贄なのである。

中級:ディケイドは既に役割を終えている

次に考えるのは、『ディケイド』から読み解くディケイドの死だ。
この『ディケイド』とは純粋に仮面ライダーディケイドの名を冠する作品が基準となる。

以前TV版ディケイドを総括した記事にて、ディケイドは平成仮面ライダー十周期の記念であり、次の十周期へ繋ぐための作品であると解説した。
(ディケイドがスタートした時点の目標として、ハッキリそう語られている)

次の十周期とは二十周年記念であると同時に、クウガを見て育った子供が大人になり子供を持つ世代になることも意味していた。
ライダーを観て育ち、次の世代にライダーを伝える循環構造だ。
ディケイド開始段階では何処まで行けるのかわからない中での理想的なゴール地点だったが、それはジオウまで届いたことで本当に実現された。

しかも自分の番組では短い期間で曖昧な終わり方だったが、ジオウでは準レギュラーとして重要な役割を与えられ最終回まで登場し続けた。
二十作品の中でも完全に異例な存在である。

だが同時に作品としては仮面ライダーあり方を根底から覆し、出そうと思えばウィザードの最終回みたに何処でも出せてしまえる劇薬でもあった。

二度目のアニバーサリーであるジオウは、平成ライダーを総括する存在ではあるが、それはそれとして『ジオウ』という独立した世界観とストーリー性を持つ。
しかしディケイドは旅を物語としてしまったがために、他作品への介入=ディケイドの出番となってしまう。

あえてとても嫌な言い方をすると、他作品に寄生することで初めて自分の存在を維持できる。
そして寄生するということは、多かれ少なかれその作品は独特なディケイド色に染まることも意味する。マゼンタカラーな寄生虫だ。

世界を広げて新しい環境を作るために生まれたはずのディケイドが、今度は仮面ライダーの世界観を縛り付けてしまう。
そのため扱い方には慎重をきされ、複数のライダー作品が集合するタイプでも段々とその姿を見なくなっていった。

それでもアニバーサリーの特殊性は残るため、その存在を意識され続けることは間違いない。
しかしそれは本当に良いことなのだろうか?

先程書いた通り、ディケイドはジオウまで繋いだ時点で、本来の役割を完全に終えた。
ディケイドでのサブレギュラーは、そこまで辿り着いたからこそのご褒美というか、平成最後の祭として与えられたボーナスステージのようなものだ。

ディケイドウォッチをジオウに託した以上、本来はディケイドもまた『平成の歴史』になるべき存在である。
だが設定やインパクトの強さが特級過ぎて封印もまた難しい。
なんせディケイドには無限に増える並行世界論と、ジオウ以上に縛りのないカードがある。作品としての柔軟性でいえば間違いなくダントツトップだ。

ディケイドが真に役割を終えるとすれば、それはどういう形であれ『旅の終わり』を描くしかなかった。
しかしストーリー性=旅であるなら、旅をしなくなった士はもう士ではない。
旅をし続けてほしいという願いはファンとしては一種の懐古主義でもあるのだから、ぶっちゃけどう足掻いても『終わり』は批判される。

では批判されること前提で、『旅をしたまま旅を終える』には、門矢士を『ディケイド』のまま終着させるにはどうすればいいか。
ディケイド館がディケイドオマージュであり、完結編を『7人のジオウ』に割り振ったのなら、ジオウ側の一部をディケイドのオマージュとして活用する。

ならばこそ士は無実のソウゴ達を、ディケイドとして問答無用に破壊していった。
これはそっくりそのまま完結編のオマージュである。

ディケイドはオーマジオウに敗れて倒されるのだが、新たな最強の力が届かなかった要因はディエンド館で受けていた傷である。
完結編では夏美に腹部を貫かれて果てた。今回の相手は異世界でこそあるが友達の小野寺ユウスケであり、同じく腹を刺された。

託された令和の力をソウゴに渡し決着を見届ける。そこでオーマジオウを倒す役割を果たした。
破壊するだけ破壊したディケイドは『ジオウの世界』での役割を終えて、かつてのように己が破壊した『責任』を負う。

ディケイドが新たな世界を拓く役割だったのなら、世界を縛る者になってはいけないのだ。
ならば破壊者として旅の終わりで命果てるしかない。

それも平成の区切りである『ジオウ』こそが、最も相応しく美しい終着場所だったろう。

【次ページ:門矢士の足跡で見る旅からの解放】

上級:門矢士の足跡で見る旅からの解放

一つ目の理由はソウゴが王になるために必要な儀式。
二つ目の理由はディケイドという作品が役目を終えたから。

この二つはジオウとディケイドを観ていれば、ある程度察せられる。

ならば三つ目とは何か。
これはTV版の無料コンテンツだけでは見えない、劇場版も含めた『その後の門矢士』が歩んできた旅路からの観点だ。

ジオウ放送当時、ウィザードから約六年振りにTV版の舞台へ現れた門矢士は、いきなりジオウ達へ喧嘩をふっかけた。
その理由もよくわからないまま悪役ぶって、ノリノリで立て続けにソウゴとゲイツを容赦なく叩きのめす。

SNSを見ていると、この士のノリに驚く人が少なからずいた。
ディケイド本編の士はよく他のライダー達と戦ってこそいたが、それは相手から襲ってくるか、そうする必要があったためだ。

かつての門矢士は悪役ぶってはいても、内心では悪魔や破壊者扱いされることに傷付き、自分の居場所に悩んでいた。
だからこそ、夏美やユウスケは士にとってかげがえのない大切な仲間であり、最終的にはライバルだった海東とも絆が結ばれたのだ。
仲間と共に歩む旅、それが士の物語として締めくくられた。

それが今やなんだか理由がハッキリせず、本人も割とその場のノリで決めてソウゴやゲイツを叩きのめしている。
鎧武では卒業証書だよと言っていた大切なウォッチを、ポイっと軽々しくゲイツの前に放り捨てる。
マジで大体わかったの『大体』の感覚でライダーと敵対していた。

この悪役やるのがめっちゃ楽しそうな士は、かつての面影や面影がありながらも、芯の部分ではかなり強く成長している。
しかしその後の劇場版を知っていると、その態度にさして驚きはない。

完結編のラストでは仲間達と共に新たな旅へ出発した士だったが、その後スーパーヒーロー大戦での再登場時は単独での行動だった。
ゴーカイレッドと個別に動きあって戦隊とライダーを次々に討伐していく。

無論、本編後ではレギュラーメンバーを再び揃えることは難しい。
けれど、共に登場している海東大樹にすらその意図を報せることをしなかった。

その結果、共闘していた戦隊メンバーと共にすっかり騙された海東は、激怒してラスボスにまでなってしまう。
有名なクレイジーサイコホモ伝説だが、友を信じたが故のクレイジーである。一応。
ものの見事に倒されてしまった海東に対して士は「友情があるとすれば、それはお前かもしれない」と優し気な言葉をかけようとした。

やっぱり「心の中では仲間として信じてるんじゃないか」と思うかもしれないが、そうとは限らない。
この時の演技に関して、井上正大氏は内心では『海東のために言ってあげた感じがすごい』とユリイカにて語っていた。
(前編のネタバレ無しで出したユリイカが、ここでようやく回収された!)

それ以前に、士がユウスケに対して友情を感じていないわけがない。
一応は途中で仲間になれと声をかけはしたが、これも海東の性格からすれば絶対断るとわかる言い方だった。優しい言葉も額面通りとは限らないのだ。

この考え方自体は井上氏が演じながら自分の中で造り上げていたキャラ付けではある。
しかし、作品というのは脚本、監督、役者と様々な意図や意識が集まって作られていく。

そういうイメージが含まれながら、士という人格は長い旅の中で変化している。
士が一人旅を始めたのは、一人で歩けるだけの強さを手に入れたためではないかとも、井上氏はインタビューにて語っていた。

仲間に頼ることは強さでもあるが、弱さでもある。
居場所を求めたのは士にとっては自分で自分がわからない弱さからだった。

とはいえ、全ての事実までハッキリと語られている場面はない。
そりゃ当然で、士は基本的に出番多めのゲストやメインの一人的な立ち位置が多く、個人の設定に対する掘り下げはない(そんな尺があるわけもない)。

ただし士の辿ってきた道程や台詞から、ある程度察することは可能だ。
士の旅とはディケイドの物語であり、仮面ライダーの物語とは戦いの記録でもある。

旅とディケイドは切り離せない。士が旅する仮面ライダーである限り、旅先での役割は戦いと破壊なのだ。
無数の世界を旅したのは、ネオディケイドライバーやカード、ウィザードの世界からも察せられる。

しかも世界が繋がって起きる問題を士は押し付けられる運命にあった。
それがスーパーヒーロー大戦であり、その後の『平成VS昭和』。そしてジオウもまた各世界を巻き込む同種の事件だった。
即ち士はディケイド完結編の後もずっと、旅を続けて、ひたすらに戦い続けてきた。

それらを裏付けるように、戦いを拒み旅をしている乾巧に対して士は語る。
「ライダーの世界は倒すか倒されるか。所詮はただの殺し合い」だと。
同時にライダーは最高だと叫ぶ鳴滝に同意もしていた。
この二面性が門矢士の抱え続ける本質だ。

物語に空白の期間が生まれれば、そこに平和の時間も生まれる。
主に小説版の仮面ライダーは空白の期間があり、戦いがない平和な時間を得られた者達についても描かれていた。

物語が続く限り戦いは続く。
ビルドの新世界以後についてはまさしくその典型例だ。犬飼貴丈氏もVシネマ時に続編があると戦兎達の戦いが続く懸念に触れている。
ジオウでも、再びオーマジオウに至る未来が生まれてしまった。

旅する仮面ライダーのディケイドは、空白の期間ですら旅が続く。
士には常に逃げ場がなく、過酷な人生を辿ってきたのは想像に難くない。

仮面ライダーとは絆を得て誰かを守れる存在。
仮面ライダーとはそうある限り誰かを殺し戦い続ける。

戦い続けるしかない旅だから、旅を続けられるだけの心の強さが士には求められる。それが一人になることだった。

「偶々単独行動だったのではないか?」との考えも、今回ユウスケに対して久しぶりだと告げたことで否定されている。
そういう意図を察してか、時折現れる海東もかつてのように士とは付かず離れずでお宝を狙う。

己の弱さを克服したからこそ、今更悪魔や破壊者呼ばわりされても落ち込まず、己の役割を果たす。
ジオウでの士は、完結編以後から育ってきた『現在の士』が更に進んだ人間像だ。

ジオディケでの士に至っては、ディケイド館での犠牲者を『大事の前の小事』として割り切り達観して語っていた。
自分に言い聞かせている部分もあるだろうが、その後に無実のソウゴ達を問答無用に手をかけ、怪物に襲われる学生達を見捨ててでもオーマジオウを引きずり出そうとする。

救い続ける人生には、救えなかった者も多くいる。
命の選択を迫られることもある。
ただの言葉だけでなく、覚悟を持って誰かを犠牲にできるところまで至ってしまった。

もう一人、士の最期を語るために重要な人物がいる。それは鳴滝だ。

公式でも正体不明。ある意味で士より何者なのかわからない人物と化した。
あまりに謎過ぎて、もはや視聴者のメタファーとして扱われだしている。

これまで独立することで平成ライダーを保っていたからこそ、世界を繋げ破壊する行為を許せない。
そのためディケイドを許せず悪魔と呼ぶ。
同時に『ライダー最高』と叫び、繋がることを肯定したためディケイドと和解ができたのではないだろうか。

なお、奥田氏は井上氏との個人的な対談で、鳴滝は基本的にキャラを作っておりらず台本通りだと語っている。
出番と情報量少なすぎてキャラ作りのやりようがなく、台本通りにやるしかないって意味も大きそうだけど!

その上でディケイド館では、監督に今回でディケイドが最後だと納得させてもらったとコメントしていた。
鳴滝の出番は今回も多くはなかった。
しかしながら彼の役割は重要で、オーマジオウとぶつけるため士を呼び出した張本人である。
ならばディケイドなら絶対勝てると、もう安心だと鳴滝は信じていたのだろうか?

その割には、ディケイドを送りだした鳴滝はくたびれた様子だった。
「これで私は自由だ!」みたいないつもの高いテンションではなく、身も心も疲弊しきっている。
だらりと脱力して、終わりを受け入れたような態度だ。

視聴者の想いとして、ディケイドVSオーマジオウは是非ともみたいマッチメイクであると同時に、どう足掻いても結果は見えている。
オーマジオウを裏切った以上、ディケイドが負ければ己も処刑されるだろう。

スーパーヒーロー大戦では、ディケイドがいる限り私の旅も終わらないと去り際に台詞を残している。
ならば『ディケイドの物語』の終わりとは、鳴滝という役割の終わりでもある。
ディケイドを送り出すことは鳴滝にとって一縷の望みであり、同時に終わりを受けいれる行為なのだ。
くたびれた様子の演技はそこに重なる。

ならば士は?

神の視点である私達(視聴者)は士に旅を望む。
物語が長く続くこと、永遠の旅を願う。
だが、それが門矢士にとって本当に幸福なのだろうか?

士は仮面ライダーを誇りにしており、旅も愛している。
仮面ライダーであり続けることを辞められない。逃げようともしない。

ユウスケに刺され、オーマジオウに敗北して、それでもリベンジを仕掛けるため残りの命を燃やし切ると決めた。
そのために無実の者を傷付け、無関係な者を巻き込む。
全部、大事の前の小事として飲み込み使命を果たす。

破壊者となって、その責任を全て自分に負わせる生き方。
そういう自分を選べるようになったのは、門矢士が辿ってきた戦いがそういうものだったから。
清濁併せ吞むことで門矢士は強くなり、自分の心と体を犠牲にして仮面ライダーディケイドとして在り続ける。

何のための戦いだったのか。
いつになれば平和は訪れるのか。
そういう虚しさを、仮面ライダーという無間地獄を、ディケイドは休みなく延々に背負い続けてきた。

どれだけ強くあろうとしても、心がある限り、やがては擦り切れ摩耗する。
そうして残った覚悟を全てオーマジオウへとぶつけた。

けれどそれは届かない。
『ジオウの物語』での役割とは、ディケイドが生贄になることだから。
それが今ここに満たされた。

ディケイド本来の役割とは世界と世界を繋ぐ構造を作ることだから。
その役割は完全に終えた。

士はライダーを殺し合いだと言い切った時に、ゼクロスからも問われ旅の終わりも定めていた。

「お前の旅も、これで終わるのか?」

「死に場所を探す旅が、俺の生きる場所だとわかった。だから、俺の旅は終わらない」

そう士は辿り着いた。
ならば、もう救われてもいいはずではないか。

長い長い旅の果て。
士が最後に呟いたのは、仲間達でも、ライバルだった者でも、鳴滝でもなく、ただ己だけに向けた言葉。

「終わる……ようやく、俺の旅が……」

ようやく――どんな形であれ、旅を続けたい者の言葉ではない。
旅を愛して、同時に誰よりも終わり望んでいたのは、士自身なのだ。

楽しく、苦しく、嬉しく、悲しく。
延々と続いてきた、旅の終わり告げる解放の言葉。
けれど士は笑顔だった。
笑って旅の終着を受け入れた。

士にとって真の救い。そして心の安らぎは『物語の完結』でしか得られない。

けれど、それでも、彼は仮面ライダーなのだ。
人の記憶に在り続ければ、仮面ライダーはそこにいる。

かつて一度自ら終わりを受け入れた士は、共に旅した仲間と、旅で出会った仲間の記憶から再び形と己を得た。

そして今ここにある歴史とは重なり合う世界と時間の中にある一幕だ。
故に語り部は紡ぐ。

「時は渦巻いてる。
いつかまた会うだろう。我が魔王にも、門矢士にも……」

戻ったように見えても、繰り返しているように回っても、先に進み続ける時計の針。
いずれまた、世界がディケイドを必要とするならば――


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