どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

今回より平成ライダーを歴史をひもときながら語る新コーナー『ぼくの愛した仮面ライダー』をスタートします。
これまでのような純粋な感想と考察だけでなく、平成ライダー史から眺めた仮面ライダーの変化と挑戦をまとめたコンテンツの作成をしてみたいなと思っていました。

ゼロワンの毎週更新も止めたので、時間も少しずつ作られるようになったぞさあやるか! と決意したのまではよかったものの、ここからが大変。
やるからにはもう一度作品単位で再視聴して、できるだけ資料も集めて……と準備していたらかなりの時間が経過しておりました。
結局その間にゼロワンの記事も何本か上げるために、途中で作業が止まってたことも何度か。

必ずしも一作目から順番にやる必要性もないかなーと思ってはいたのですが、最初にやるならやっぱりクウガにしたい。
それで改めてクウガのムック本中心に資料を集めだしたのですが、これがね平成ライダー一作目だけあってスゲーイ多い!

やってるうちに「あ、これクウガができた経緯からやんなきゃ色々説明できない」と気付き資料も追加。
(なんだったらライダーとは別作品の資料にまで手を出す展開へ)
こうなったらもう気持ちの上では平成版『仮面ライダーをつくった男達』を考察・解説記事でやるくらいじゃないと形にならないぞう! と相当な気合を入れる必要がありました。

インターネット全盛期で様々な情報がアーカイブされる時代。
けれども、誰かが語り継ぎ、繋げていかないと埋もれていってしまうものもあります。
そうならないよう、どこかに残しておきたかったのです。

平成仮面ライダー。
これはそう呼ばれるよりも以前、復活ではなく、新たな伝説の幕開けとなった物語。

特撮新時代と超光戦士シャンゼリオン

クウガを語るには、まず当時の特撮事情から語らなければならない。

2020年の今でこそ仮面ライダー・スーパー戦隊・ウルトラマンの特撮三巨頭が毎年当たり前のように放映され、ゴジラは日本海外共に大ヒットを飛ばして名実ともにキングオブモンスターとなった。

けれど、ここに至るまでに日本特撮史はとても不安定で、それこそ本当に安定して放映を続けていたのはスーパー戦隊だけである。
仮面ライダーもウルトラマンも長らくTV新作不在な時期が何度かあったのだ。

そういう状況の渦中だった1990年代後半、特撮業界は特撮ルネサンスとも呼ばれる変革期を迎えつつあった。

特撮冬の時代を支えた平成ゴジラシリーズが終了を迎える時期に前後するタイミングで復活したガメラ。
後に平成三部作と呼ばれるシリーズは、特撮作品の常識を覆すようなリアリティを追求している。
まさに革新的な作品として特撮ファンの記憶に焼き付いた。

現実に巨大怪獣が出現するとどうなるのか。自衛隊はどう動くのか。
宇宙から現れる怪獣はあえて既存の生物をモチーフにせず、所謂コズミックホラー要素を入れるなど現実性を重視した作品作り。
シン・ゴジラで徹底的に追及された『現実VS虚構』のテーマ性は、90年代後半にして既にあったのだ。

そしてウルトラマン80から十六年の沈黙を破り、ウルトラマンティガが登場。平成ウルトラマンのTVシリーズが開始された。

あえてかつての昭和ウルトラマンとは世界観を別にする構成。
一つの世界観における整合性を独立した短編の話を繋げ、大きな着地点へと持っていくスタイルを確立した。

ガメラとウルトラマンは、それぞれで平成仮面ライダー、そしてクウガへと繋がる大きな要素を持っている。

そして、この時期の東映特撮作品はどうだったか。
当然、何もしていなかったわけではない。

色んな意味で東映特撮史に伝説を刻んだ作品、超光戦士シャンゼリオンが放映された。
シャンゼリオンはガメラやウルトラマンとは全く別方向での革新に挑んだ。これはある種の禁忌に触れたとも言っていい。
それは特撮ヒーロー作品におけるヒーロー観念の破壊である。

シャンゼリオンは物語全体を通してコメディタッチに描かれた。
ヒーロー作品なのに全体の構成はスラップスティック調、簡単に言えばドタバタ喜劇になっている。
面白いの方向性が思い切りギャグに振られているのだ。

特に人気の高い回『鯖じゃねえ!』では、まさにドタバタコントを実践。
他にも怪人が箸袋オタクだったり、現代社会に潜もうとしたのに上手く溶け込めず精神的に参ってたり、もうね本当にやりたい放題。

ただし、そんなおちゃらけた喜劇の中にも、要所要所でドラマティックな展開を入れ込んでいく。
ライバル役の怪人はヒロインの一人とキスシーンがあり、今の時代では倫理的に放送できそうもない衝撃的な最期を迎えた。

そして最終回ではまさかのどんでん返し展開を繰り出し、今なお伝説として語り継がれる。
平成ライダーにも踏襲されるドラマ性の片鱗も確かにあった。

主人公もこれまでの東映特撮とは一線を画す。というか正真正銘のクズ野郎。
売れない探偵業を続けながら、あちこちで多額の借金をして遊び呆けている(女遊びも大好きで二又三又どころではない)。
そんな状況でヒーローやりながら「ふんわかいこうよ、ふんわか」と宣い、怪人に真のヒーローとは何かを真面目に説教される男。それが涼村暁である。

ヒーローとして全く成長していないわけではないが、根本的なダメ人間性は最後まで全くブレない。
正義感が強すぎる生真面目バカとの迷コンビを組み、ヒーローにあるまじき男として描かれている。

やはりというか何というか主演の萩野崇氏や相棒役だった相澤一成氏は、作品インタビューでも特撮史に残るヒーロー作品を作っていた感覚は全然なかったと語っている。
シャンゼリオンとは遊び場。それも遊園地のような豪華アトラクションですらない。
『今日はここにブランコがあります。君たちはこれで好きに遊んでね!』そして用意された遊具で夕方になるまで遊びまくる子供達。そんなノリでひたすらに遊んでいたすごく楽しい作品。
そして、そういう場所を脚本の井上敏樹氏や白倉プロデューサーが用意してくれたと振り返っている。

このあからさまな作品性は昭和から連綿と続いていた、そして東映が仮面ライダーBLACKでも脱却できなかった『古いヒーロー像』に対する強烈なアンチテーゼだ。

断っておくが、これは昭和ヒーローそのものを否定することが目的ではない。
いつまでも古い価値観を更新しないまま、凝り固まった様式でヒーロー作品を制作する体制に対する批判だ。

そもそも初代仮面ライダー自体、放送当時は新しい切り口の作品だった。
スタート時は伝奇風のホラーテイストで、当時の子供達は今までになかった大人な雰囲気を感じ取っていた。

価値観とは時代によって移り変わっていく。
昭和の時代には昭和のヒーローが必要だった。
それと同じように、平成には平成のヒーローが必要なのである。

シャンゼリオンの企画書や当時の資料でも、古いヒーロー像と現代に即した「ヒーローとは何か」を考察した資料が残されている。

哀しみを背負いしかめっ面で孤独に戦い続ける。
握った拳で悪を懲らしめ善を主張する。

そういう固定観念はもう古くてダサい!
何より力で悪を排斥して正しさを煽る行為は危険だ。
そんな薄っぺらいヒーロー作品で『今』の子供達に何を伝えられるのか。

現代のヒーローとは人を助ける存在ではない。
イチロー選手は間違いなく子供達にとってヒーローだろう。だが彼は世界を救っているわけではない。

現代のヒーローとは自分もなりたいと思う『憧れ』の対象なのだ。
悪の組織に改造されて、人間として他人と同じように生きられない、哀しみと苦しみ。それをぐっと堪えて人々のために傷つき戦い続ける。
そういう人間性、ヒーローは格好いいと思うが、自ら進んでなりたい人生ではない。

金がなくても楽しくお気楽に、女の子にもモテモテで、ついでにヒーローにもなったよ超ラッキー!
「良い悪いはともかく、こいつみたいに生きれたら人生楽しそうだな」と思わせる。
その上で、少し背伸びして頑張れば誰でも人々を助けられるヒーローになれるんだよ。そう伝えたようとしたのがシャンゼリオンだった。

新しいヒーロー観を生み出したこの作品は、クウガでも同じ製作スタッフが多く起用されたことからも、ファンから平成仮面ライダーシリーズのプロトタイプとも呼ばれている。

空っぽの星、時代をゼロから始めよう

仮面ライダーという作品は50年近い長き歴史の中で、延々に続いてきたわけではなく何度かその道筋は途切れている。

それは様々な諸事情があってのことだが、昭和ライダー10号の仮面ライダーZXで途切れた後、新たな仮面ライダーを生み出そうと試みた作品が『仮面ライダーBLACK』だった。
仮面ライダー作品としてみればBLACKは高い人気を得て、続編のRXも生み出している。どちらも間違いなく成功した作品だった。

だが特撮ヒーローとして新しい作品だったかと問われれば否だろう。
RXのラストでは結局再び昭和ライダー達が集合して戦う、昭和ライダーお約束の流れになった。
加えてクライシス帝国は単純な悪の軍団ではなく、善良な人達も住んでいると示す要素はあったのだが、結局はラスボスを倒して帝国側の世界を滅ぼしてしまう。

後続はTVシリーズではなくVシネマでの『真・仮面ライダー』が登場。
こちらは仮面ライダー特有の設定を踏襲しつつもリアルかつグロテスクな外見。『改造人間』として作り込まれた異色な設定を有していた。
本来は全五章構想だったらしいのだが、残念ながら序章で終了してしまう。

続けられなかった理由は諸説あるが、本作の次に出されたVシネ特撮が大コケしてVシネ特撮そのものが頓挫したとのこと。
序章で終わったことをネタにされがちの作品ではあるけれど、別に真そのものがライダー作品として不人気だったわけではない。

そのため続くZOやJはそれぞれ劇場版作品として世に出された。
これらも世界観や設定は昭和よりもむしろ平成に近くなっているが、劇場版単体作品では色々と限界がありライダーシリーズを革新させるには至らない。

そうして仮面ライダーシリーズはまたも足を止めてしまう。
だが、仮面ライダーというブランドがこれらの作品で人気を失ったわけではない。
事実ZOやJも作品単体での評価は低かったわけではなく、新作を出そうという企画もあったのだ。

だが、当時の東映TV部門ディレクターである鈴木武幸氏があえて流れを止めた。
仮面ライダーの視聴層はまだ親子二代の世代に至っていないこと。
そして段々と休止期間が伸びてしまっている現状を、過去の成功例から脱却できなくなっているためだと分析した。

BLACKは色々と設定を変更しつつもこれまでのライダー観を無下には扱わず、お約束的な要素は守った上でそれを一歩進めた。
つまり昭和ライダーの延長線として進化した作品だ。

現状のまま新作を作っても、かつてのような長期シリーズ化はしない。
まずは親子二世代になるタイミングを見計らってリスタートしようと考えた。
BLACKからクウガに至るまでの空白期間は計画的なものだったのだ。

そして再び仮面ライダーに新たな風が吹き込んだのはクウガ開始から約三年半前に遡る。
仮面ライダーは本流が止まってもそこはそれ、元は東映のドル箱コンテンツ。グッズやメディア展開は継続していた。

その流れの中で、セガサターンのCMで藤岡弘ブームが再燃。
そしてゲームセンターのプライズ品でも売上が伸びていた。

藤岡弘氏は言わずもがなの初代仮面ライダー。このネタに喜ぶ客層は大人も多い。
UFOキャッチャーなどの景品を狙うのも一定年齢以上の人が主体だ。

もう一つの検証として、テレビマガジンにて毎月ライダー特集を組んでもらった。すると子供達の反応も良く手紙がたくさんきた。
これは父親とその子供がライダー関連に興味を示す二世代時期に差し掛かることを告げている。機が熟したのだ。

余談として、結果を先に再開したのは新時代のライダーではなく、昭和ライダー達による漫画化作品『仮面ライダーSPRITS』だった。
SPRITSは作者の氏が休憩時間に描いてた仮面ライダーの絵を元に、石ノ森プロへ相談したことから始まった企画である。クウガの企画立ち上げが三年前だとすると、仮面ライダー人気再熱がこの企画実現にも影響を与えた可能性もあったかもしれない。
(ただし平成ライダーとSPIRITSの誕生に同じ理由が関わっている資料は見つけられなかったので、これはあくまで想像の範疇)

独自の(超深い)解釈やストーリー構成も入った本作は、昭和が主体でありながら平成ライダーが目指した高いドラマ性も獲得した。
連載誌休刊による停止があったとはいえ今尚続く長期連載に至る。
こっちはこっちで平成の世を駆け抜け連載が令和に届いた。昭和ライダーの生ける伝説でありながら、共に平成を駆け抜けた名作なのだ。

話を戻そう。一旦足を止めたことは勿論色々と弊害もあった。
製作の過程から見ても『仮面ライダー』のブランドは過去の遺産として悪い意味で扱われ、煙たがれることが多々あった。

当初、仮面ライダーの放送枠は毎日放送(MBS)の予定だったが、既に平成シリーズが走り出していたウルトラマンが優先された。
同じ歴史の長いシリーズだけでなく、当時勢いのあったゾイドにも負けている。TBS系統では諦めるしかなかった。

結局は現在進行系で東映特撮を放映中だったテレビ朝日へと変更される。ただテレビ朝日側も大手を振って迎えわけではない。

当時の東映特撮は宇宙刑事ギャバン~シャリバンを皮切りに、メタルシリーズなど三年を一枠とした特撮シリーズを展開していた。
クウガが始まる一つ前の作品は『燃えろロボコン!』。リメイク作品として反応は良かったものの、じゃあ次はどうするかの予定は決まっていなかった。

ロボコンに至る以前からテレ朝特撮枠はネタに困り迷走を続けていた。
そこで東映リメイクシリーズの二作目として仮面ライダーを採用したが、「他にネタがないからなあ」と渋々引き受けた状態である。現在からは想像できない扱いだよ……。

かつてテレ朝の特撮枠は金曜夕方のゴールデンタイムだったのだが、メガレンジャーの途中で朝に島流しされた経緯がある。
今じゃSNSでも毎週確実に話題をかっさらう『ニチアサ』ゴールデンタイムになろうとは……この時はまだ誰も予見していなかった。

そのためクウガに携わった関係者は、鈴木氏とは異なり新仮面ライダーは一年限りの作品として続編は考えてはいなかったそうだ。
オワコン扱いをされて、先のことなど考える必要がなかったからこそやり逃げてしまえる。伝説は唯一つでいい。

そして世は特撮新時代、シャンゼリオンが作った『ここまでやった』下地もある。
後も先もない一発勝負が、ずっと縛られていた昭和の呪縛からライダーを解き放った。

A New Hero. A New Legend.

意図的な封印期間を経て復活した仮面ライダープロジェクト。
この企画に対して白羽の矢が立ったのが高寺プロデューサーである。

高寺Pは東映にいたものの東映の特撮作品には基本的に否定的だった。
仮面ライダー作品として人気を博したBLACKに対しても、当時は憤慨と嫌悪感を抱いていた程だ。

現在の東映特撮は子供に対して本気で向き合っているとは思えない。子供騙しになっていると考えていた。
BLACKは当初、新たな時代の特撮にしたいと聞いていたため、出来上がった内容に対する失望も大きかったそうだ。

そんな事情から高寺Pにとって仮面ライダーはもう復活すべきではない作品とすら思っていた。
(なお、昭和特撮から抜けられない時流の中で、ZOはすごく頑張っていたとも評価している)

とはいえ新作着手時点で出した案『仮面ライダーガーディアン』は、ヒーロー色が強く、従来の東映観を意識した作風だった。
けれど石ノ森プロ側が出した案『仮面ライダーオーティス』はホラー色を強めた悲劇性増し増しな内容で結構お互いの意図がズレている。
(なお、オーティスの名称は後の仮面ライダークウガショーで出てきた)

ここで高寺Pはここでヒーロー番組として抜根的な改革に着手する。
とはいえガーディアン初期構想の快活で探検家志向な主人公を基にして一から構築すると、アメリカ大作映画級の予算が必要になってアウト。
地球人と宇宙人のハーフ設定を提案したら、あまりに仮面ライダー色が失われ過ぎてしまって却下……と中々上手くまとまらない。

そこで土台は従来の仮面ライダーを置きつつ、設定を見直していく方針に転換した。
子供騙しのような作品にせず、特撮ヒーローの様式美からくる矛盾を廃止するため、作品に整合性を持たせた現実感の追求を試みた。

また、ディレクター鈴木氏からも仮面ライダーに対する要請が三つあった。
敵にヒエラルキー的な序列を付けない。そしてイーイー叫ぶ戦闘員は出さない。
これで世界征服を企む悪の秘密結社設定が根底から消え去った。

そして最後は改造人間にはしないこと。
どれも以前と同じことをするなという意味だ。

また三つ目の理由は様式美とは別に、改造手術という概念に現実が追いついたためでもある。
臓器移植や整形などでの人体手術が多く実現している以上、改造手術によって哀しみを背負う主人公にはしたくない意図があった。

これらを踏まえて、これまで闇に潜んでいた悪の秘密結社は、古代に封印された独自の文化と言語を有する『グロンギ族』へ。
改造人間だった仮面ライダーは、古代の力を引き継いだ戦士へと変化した。
戦闘員の設定がなくなったことで、仮面ライダーの名称も劇中で呼ばれず、現実的ではない必殺技を叫ぶ行為もなくなった。

数少ない残った様式美の一つが「変身」の掛け声とポーズ。
だがこれも、五代雄介が戦う覚悟を決める精神的な意味でのスイッチ扱いにしており、ポーズだって昭和のように大仰なものではない。
きちんと必要性と意味を付けた上で要素を残している。

そして秘密結社ではなくなったのでその存在は公に周知され、警察もグロンギ族の謎を追いかけながら戦い、クウガとも積極的に協力する体制を取った。

本作は仮面ライダーだけでなく怪人についても深く掘り下げている。
怪人が現実に現れたら人々の生活はどう変化するのか。そして警察は怪人をどう対処するのか。
現実的なリアリティを出すために、警察官や一般市民についての描写もかなり多い。

そうして一話単位の描写量が大きく増えたため、一話完結方式ではなく二話前後編構成になった。
根本的な方式までどんどん塗り替えていき、恐ろしいまでの綿密さで丁寧に『社会』を描いている。

この世界観を作り込むため、脚本作りにかなりの時間と手間暇を割いたようだ。
なお、メイン脚本となった荒川稔久氏は、当初全部変えて新しい作品を作りたいと語る言葉には懐疑的だった。
いきなりハリウッドテイストでいきたと言われて、BLACKやカクレンジャー等の脚本も経験があったことから、それは現実的ではないだろうと思ったらしい。

日本や東映の限界を加味して企画に質疑をする姿勢から、これはもうダメかもわからんねと評価され、一時期小林靖子氏(後に龍騎のメイン脚本を担当)になりかけていた時期もあった。
だが実際にそうなるより前に高寺Pの本気度合いを理解して、荒川氏はこれでもかと作り込んだ世界観を手掛けていく。

リアルで嘘のない世界観を出すために、場所の移動は実際に可能な時間推移を意識している。
怪我をした時の治療シーン一つを取っても、医療番組につく専門スタッフの考証を経た。

警察についてもガッツリ取材をしている。
例えば最初に未確認生命体第0号が殺戮を起こした際の捜査も、大怪獣でも出てこない限りいきなり自衛隊の出番はない。人型の怪物ならば殺人課でもなく、熊などを対処する部署になる。そこで一条は警備部の担当になった。

なお、クウガがリアリティを重視した作品であるのは疑いようのない事実だが、荒川氏はクウガを初代仮面ライダーの平成風にリメイクする感覚で制作している。
だからこそ切り捨てた部分もある。

警察内部のゴタゴタはかなり端折っていて、警察にも事情はあれクウガとの協力体制を大事にする。基本皆良い人の雰囲気は崩していない。
その流れから、どれだけ話が大きくなっても自衛隊は影も形もない。
絶対に騒ぎまくるマスコミや市民のクウガ叩きは『そういうのもある』程度に抑えている。

他にも、当初の脚本では登場人物がドラえもんのキーホルダーを付けている描写もあったのだが、これはリアリティがあり過ぎるという理由で削除された。
あまりにリアリティを追求し過ぎると、古代から蘇ったグロンギや諸々の超古代文明設定にすら無理が出てしまう。

リアリティが出るように描写と設定を切り分ける。これがすごく上手い。
リアルはリアルでも仮面ライダーをリアルにやる。その視点でクウガは突き詰められている。

そして徹底した昭和特撮嫌いはもう一人いた。主演のオタギリジョー氏はそりゃあもうハッキリと特撮ヒーロー嫌いを明言している
彼は当初、仮面ライダーのオーディションを受ける気は更々なかった。

今でこそ仮面ライダーは若手俳優の登竜門として、期待に満ちた明るい道として扱われている。
けれどオワコン扱いされていた当時だと、全くそんなことはない。
むしろ有名事務所は「うちの所属俳優を仮面ライダーに出演させるなんてあり得ない」と嫌悪感を示すところもあったという。
こうした反応からも、クウガ以前は『古臭くて死んだブランド』と認識されていたとわかる。

何かの間違いみたいな状態で呼ばれた気分のオダギリ氏は、そりゃあオーディションでも「受かりたくない」一心でめっちゃくちゃやったそうだ。
演技はヒーロー感なし。面接では何で自分がここにいるのかわからないみたいなこと言っちゃう。

『ないわー。マジ特撮とかないわー』精神丸出しで特撮ヒーローのオーディション受けたわけだが、他の人達はどうだったか。
彼らはヒーローをやる気で受けている。そして『やる気できた人達が抱いていたヒーロー像』とは、かつて自分達が子供の頃にテレビで観たヒーローだった。
自然体で演じてと言われても、彼らは誰も彼もがキリッとした表情で本郷猛や南光太郎になってしまう。

なんと皮肉な話か。ヒーローになる気でやってきた者程、高寺P達が望んだヒーロー像とはかけ離れてしまうのだ。
逆に誰よりもヒーローになりたくなかった、特撮嫌いを隠しもしない。
そんな唯一の例外こそが、五代雄介のキャラクター性を正しく読み取れた。まさしく望まれていた人材だった。
(むしろそういう本音を隠さないところと、嫌味な感じがしない飄々とした部分も気に入られた)

落ちるために受けた気分の人が、思いもしない理由で合格しちゃったのである。
合格通知後に現れたオダギリ氏は、オーディション時とは似ても似つかない意気消沈ぷりだったらしい。
彼は本当に申し訳なさそうな態度でやってきて、すみませんマジ勘弁してくださいなノリで断りにきたのだ。

繰り返すけれど、オダギリ氏が嫌がったのは体制式ガッチガチで様式美に染まりまくった昭和特撮ヒーロー。
高寺Pが嫌った特撮像と基本は同じ。そういうのは作りたくない。新しいヒーロー作品を作りたくて君を選んだので協力してほしいとオダギリ氏を説得した。
その意思が届いてオダギリ氏は五代雄介となり、新たな伝説の『顔』となったのである。

撮影が始まってからもオダギリ氏の意思は健在だった。
例えば第二話で初めて変身の掛け声があった時のエピソード。

このシーン撮影時では「変……身!」と溜めていた。
それをオダギリ氏のダサいという提案から、後にアフレコで「変身!」と短く叫ぶ形式に変更した。
現在でも(二号ライダーなど敢えて溜めるタイプもあるが)こちらがスタンダードとなっている。平成ライダーからの変身はオダギリ氏によって変わったのだ。

リアリティを尽くしたドラマ性により特撮ヒーローの概念を塗り替えていったことで、オダギリ氏は仮面ライダークウガや五代雄介に対して深い愛着を抱いていた。
後に高寺Pが担当した特撮作品『大魔神カノン』にも出演していることから、固定観念的な嫌悪感も払拭されたのは明らかだろう。

こうした現実感の追求や、古臭いヒーロー像を塗り替える爽やかイケメンオダギリ氏の起用。
これらの要素をかみ合わせたことで作品そのものはかなり複雑化していった。
日曜朝の放映でもはや小さなお友達には理解が難しいだろう内容が許されたのは、先に語った『親子二世代のライダーファン』を意識した構成だ。

また、父親だけでなく母親の視聴も考慮した現代風のイケメン要素も加味している。
(現在だとイケメン=女性人気といった固定観念は嫌われるが、それは多大な女性人気を得た今だからこそ言えること)
当然ながらクウガのデザインや必殺技の要素は子供を意識したものだ。
仮面ライダー作品は純粋な子供向けではなく、『子供を中心としたファミリー向け作品』とすることで大きく生まれ変わった。

今でこそMCUなどヒーロー系のハリウッド映画がメジャーになっている。
だが二十年以上前の当時だと、作品の礎を作り直して多くの人々に受けられるようにする作業は、もはやそれだけで一つの戦い。大変な挑戦だったのは想像に難くない。

熱く甦れ!

はてさてここまで色々語ってきたが、なんと驚くべきことにまだ作品の開始以前と外堀にしか触れていない。
それぐらい圧倒的な熱量でもって製作されてきたのがクウガという作品なのである。

実際に放送が始まってからは、視聴者の感触は好評だった。
それは伝説のヒーロー復活ではない。新たなヒーロー。新たな伝説の創造に等しかった。

高寺Pは撮影現場で「これ、やっちゃっていいんですね」とたくさん言われたと語っている。
それだけ皆挑戦心に溢れ「いいな、やるぞ、止めんなよ!」と全力全開で取り組んでいた。

たまに高寺Pも知らない暴走なんかもあったという。
グロンギの集合場所が回を追うごとに凝っていったのだが、ある時東映の中でも大きめの撮影ステージに撮影前日から照明部が入り、何やらセットの組み立てを実施している。
やたら派手に何かやってんなー。CMでも撮影するのかなーと思っていたらクウガの撮影用だったと知って驚いたそうな。
しかもそこに水まで張られだしている。どうなってんだ。

台本には『アーティスティックな空間』と一言書かれていただけなのに、プロモーションビデオでも撮るのか思う程にスゲー凝った空間が出来上がった。
話数的には25・26話にあたるので、現物は是非自分の目で確かめていただきたい。

ここまで大変革を起こせば、「こんなの仮面ライダーじゃない!」という批判も多かった。大変多かった。
鈴木氏は知り合いの結婚式場でかつて仮面ライダーを制作していたスタッフに出会い、めっちゃお叱りを受けたらしい。

それで落ち込んだ……なんてことはなく、むしろ自分の挑戦は上手くいったのだと確信を得た。流石に確信犯である。

視聴者達からすらも、放送開始前はクウガのデザインも含め大きな設定変更に反発は大きかったのだ。
新たな挑戦に反発は付きもので、正当な評価とはそれを乗り越えた先にしかない。
仮面ライダー名物と化した視聴者による熱い掌返しはクウガの時点で既に始まっていた!
(仮面ライダーは基本掌返しして楽しむものだと思っている歪んだ視聴者が私である)

とはいえ製作中に問題も多々勃発した。
クウガは東映特撮ヒーローで初めて同時並行で音声収録をするハイビジョン撮影だった。

前年のロボコンまで音声はアフレコになっている。
撮り方も大きく異なりノウハウの蓄積がない。このため撮影は遅れ気味になっていた。

序盤で予算使い過ぎた事件も起きており、第二話で教会炎上シーンをリアルに大炎上させた話は有名だ。

なお高寺P曰く、教会炎上の予算は話を盛られていて、実際には第一話の九郎ヶ岳遺跡の方が予算を多く食っているとのこと。
当初はここまでの予算規模が通るわけないと思っていたのが、パイロット版製作で案外すんなり通ってしまったなど、色々な事情が重なって起きたことらしい。

そして最大の問題はやはりストーリー構成にあった。
かなりシリアスで序盤から人も多く死ぬ上に描写も生々しい。
グロンギの怪人デザインも人に近く、親御さんを中心に従来のヒーロー路線にしてほしいとクレームが相次いだ。

これにより東映は二クール目から作風の変更を現場に要請。
作品的にクレーム原因は脚本の要素も強かったためか、変更要員として井上敏樹氏が新たに起用された。

けれど高寺Pは断固拒否の姿勢をみせて、テレ朝担当プロデューサーである清水裕美氏やスタッフ達の尽力もあり方向転換は免れた。
それだけでなくグロンギ語に字幕を付けて欲しい要望等もあったのだが、作品の世界観を守るためにこれも拒否。清水氏は諸問題の防波堤になってくれたそうだ。
ただし、終盤になるほどグロンギの残虐な殺人描写は鳴りを潜めるようにはなった。
(とはいえ、直球じゃないだけでジャラジみたいなド外道はいる)

他にも伝説の一つとして残っているのは井上敏樹氏の活躍だ。
交代要員として呼ばれた氏は、その時点で上がっていた脚本を全て読んでクウガはこのまま行くべきだと逆に進言

制作スタイルは既にキッチリ固まっており、視聴率も悪くない。
(最終的には結構高人気だった前作のロボコンを平均・最高視聴率共に追い抜いた)
そして新しいスタイルの作品として既にファンの心も掴んでいる。

普段からして、子供向け云々よりも良い作品を作るべきと考える井上氏としては、あえて変えるべき理由がなかった。
(後に響鬼の路線変更で脚本変更を請け負ったことで批判も受けているが、当時は制作が完全に崩壊していた。
また変更を余儀なくされながらも、本来変えるべき要素だと考えられていた明日夢の成長物語路線は守り抜いている)

実際、井上氏が参画して最初に書いた脚本は第13・14話、グロンギに憧れる蝶野の話だ。
残酷さや怖さが問題視されていたのに、むしろ未確認の恐ろしさ、理不尽さを、より現実味を持って描いている。
物語としてクウガのテイストをキッチリ守った上で、まだ荒川氏が触れていなかった部分に触れた。

クウガは制作前にも、製作中にも様々なトラブルに見舞われた。障害も多い作品だった。
新たな作品を生み出す熱と支え合い前へ進む姿勢で、それらを乗り越えていったのだ。

壊すものと守るもの

昭和から蓄積されてきた仮面ライダー観は素晴らしい功績ではあるものの、時代が進みいつしか変えられない思想が足を引っ張るようになってしまった。
そういう現状を打破するためにクウガは全てを変えて生まれ変わらせた。

けれど、本当に何から何まで変えてしまったのでは、失ってはならない仮面ライダーらしさまで喪失してしまう。
ならば仮面ライダーとは何か。それを模索するため表面的な設定ではなく本質的な部分に切り込んでいった。
そうして作り込まれたからからこそ、クウガは変えるべきものは全部変えた初代仮面ライダーのオマージュとしても完成している。

悪の秘密結社も戦闘員も改造手術さえ必要ない。
それでも大切だったもの。それはいかにヒーロー足り得るかであり、仮面ライダーという作品に対するリスペクトだった。

戦隊でも宇宙刑事でもない。仮面ライダーらしさ。切り落として探って形にしたもの。
それが『本郷猛と滝和也』。男と男のツーショットだった。
「滝!」「本郷!」と信頼を込めて呼び合う姿に、かつての子供達は日常と地続きの大人っぽさを感じていたのではないかと、高寺Pは考えた。

特に滝はどれだけ有能であっても変身しない生身の人間。
仮面ライダーとは異形の存在だ。それを際立たせるのは悪や改造手術ではなく『普通』であること。

警察という本物の平和維持組織がクウガに頼らざるを得ない。その状況がクウガとグロンギが異質な存在であることを際立たせる。
そして五代はどれだけ異常に強くなっていっても、むしろなっていくからこそ、彼には共にある『普通』が必要なのだ。

椿だってそうだろう。彼には医者としての知識と技術があり、五代の身体が変わっていくことに最後まで警鐘を鳴らして心配し続けた。
それによって視聴者は『そんなに危険なことになっているんだ』とリアリティのある危機感を得られた。

それ以外でも、クウガはとても『日常』を大事にしている。
おやっさん、桜子さん、みのりといったメインだけでなく、保育園の子供達。ジャンはグローバル化していく日本を示す存在だったろう。

クウガとは本来争いを好まないリントを、グロンギに近付け対抗するための力だ。
改造人間ではなくなっても、敵と同じ力を使う形式にして残っている。
仮面ライダーとは怪人と同じく異形の存在。そして異形を際立たせるために日常を通してリアルな社会に描いたのだ。

他の設定面については、販促やアクションなど様々な要素との兼ね合いも多くなる。
仮面ライダーと言えばバイク。クウガはバイクアクションもかなり重要視している。
というか、全仮面ライダー合わせてここまでバイクを極めた作品は他にないのでは? というぐらいに多彩なアクションとギミックが盛り込まれている。

乗る時はとことん乗る。バイクが生きているかのように跳ねる! 階段があろうが敵と戦いながらだろうが意地でも下りない!
そのままバイクで打撃まで繰り出す。五代持つ2000の技にバイクの運転技術が含まれているのは疑いようもないだろう。
更にはゴウラムによる強化で体当たりが必殺技となり、敵を撃破地点まで誘導するなど役割も多い。

クウガのバイクは警察からの支給であることから、無線連絡といった設定上の機能性も有している……だけでなく、ヒーローらしい色替え機能まで付いている。
流石にこの辺はリアリティより販促優先の側面もあるが、バイクに対する気遣いは平成ライダーでも他の追随を許さない。

販促と言えばフォームチェンジによる多彩な武器の変更も大きな魅力だ。
クウガは企画段階だと、後半はグロンギベルトで変身する二号ライダー案もあった。
結局採用はされず、これがクウガのフォームチェンジ案へと繋がっている。
(雑誌だとクウガの改造フィギュアで、警察の科学力で二号ライダーに変身した一条をイメージがあった。これが青いパワードスーツなので偶々G3とソックリになってたそうな)

後半ではストロンガーのチャージアップのように、時間制限のある強化ライジングが登場した。
そしてライジングフォームの登場は、凄まじき戦士、アルティメットの伏線としても機能する。
(30秒制限→無制限→アメイジングマイティと変革していく)
段階的に強くなっていくのは平成ライダーのお約束だが、クウガの場合はアルティメット有りきで『禁断の到達点』を引き出されていくのだ。

こういう子供心をくすぐる仕掛けで玩具もかなり売れた。
アギト制作に至った理由は単に視聴率だけではなく、玩具の売上アップが決め手である。
(前作のロボコンも視聴率は良かったが玩具はあまり売れなかった)

ただし、やり逃げ前提だったクウガは、実のところ現代程玩具を売ることに力を入れていたわけではない。
その最たるものが『劇中で仮面ライダーと呼んでくれない問題』である。

新作の仮面ライダーを売り込んでいるのだから、スポンサーとしては気が気じゃない。仮面ライダーって呼んでよ。いつ呼んでくれるの? ねえ! ってなる。そりゃなる。最後まで呼ばれなかったけどね!
それどころかクウガすらさほど呼ばれず、未確認生命体4号とか4号が基本だった。

何しろフォームチェンジ名すら出てこない。
これは一応桜子が命名する予定は脚本上あったのだけど、尺の都合で結局はカットされてなくなった。
呼ぶから、もう少しで呼びますからと言っておいてこの所業。販促ってなんだっけ。

元々クウガの最強フォームはライジングになる予定だったが、スポンサーから新フォームを要求されてアルティメットが構想に加わった。
(先代クウガがどうやってゴ集団封印できたのか、諸々の理由はここら辺が関わってそうなだなと思う)
そして過程としてアメイジングマイティが差し込まれた経緯がある。スポンサーも「なにそれ聞いてない」状態でめっちゃ怒られた。

しかもアルティメットすら登場は最終決戦のみ。
ゴウラムの最終強化も終盤一戦のみだったことからも、玩具の販促期間を想定にした構成になっているとは考え難い。
逆に言えば、大量フォームチェンジアイテムが当たり前になった後年では考えられない販促手法でも、大きな売上が出るくらい画期的だった証左だろう。

こうしてクウガは諸問題を抱えながらも、人気のうちにその幕を閉じる。
一切戦闘がなく主人公の出番すら極わずかな最終話は、クウガが残した伝説の一つだ。あんなの二度とできるか。

むしろ一度きりとはいえやれてしまったのは、やはりクウガの物語が何より日常を大切にしていたから。
五代雄介はたった一人の仮面ライダーだったが、決して一人ぼっちではなかった。

周りにはたくさんの人がいて、五代はいつも笑顔を振りまき皆を元気付けた。
そして皆も必死に五代を支える。それがクウガの物語だ。
それはまさに現場の熱意が、自然と作品にも流れ込んでいったのかもしれないと高寺Pは語った。

最終回のオンエア前日の夜に打ち上げがあった。
それはもう大盛り上がりの夜だったそうだ。

その最後、高寺Pがお開きの挨拶をする時、オダギリジョーは静かに涙を流していた。
監督の鈴村氏も泣いていた。
皆が泣いた。

こぼれ落ちる雫には、様々な想いがあった。

東映の歴史を変えよう。
特撮ヒーローを目指そう。
新しいものを作ろう。

仮面ライダークウガは、そういう想いが一丸となった奇跡の作品だった。

二次会になっても、外は雪で大変なことになっていたのに、ほとんど誰も帰ろうとしない。
朝まで皆で讃え、労い、語り合った。
そうして監督の家に転がり込んで、クウガの最終回を観て――

皆が情熱を注ぎ、激しく燃え上がらせた時間だった。
その熱量が、本当の意味で新たな伝説を創った。仮面ライダーの歴史を塗り替えた。

道は続く。唯一人でいいと言った英雄の伝説は、けれど繋がっていく。
いつしか平成ライダーと呼ばれ、一度も歩みを止めることなく時代を駆け抜けた。
時代の終わりまで突き破って、もうその呼び方すらできなくなったけれど、それでも止まらない。

伝説は今も走り続けている。

章タイトル引用元:仮面ライダークウガ!

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