ドゥドゥン! ドゥン! ドゥドゥン! アー!

どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

令和の世で需要があるのかと思っていたクウガ考察でしたが、本編だけでなく小説版まで予想以上の反響をいただけました。
中にはブログを読み小説版を購入してくださった方もいて、本当に嬉しい限りです。

というわけで過去作振り返りシリーズは続投! 今回からはクウガから次代へと引き継がれたアギトの感想と考察です。

TTFCで一話から延々と観ていると、OPのイントロが耳にこびりついて離れなくなりました……。
OPの流れてくる映像が前日譚だったり未放送場面だったり、サーキット爆走していたりと面白い仕掛けが多いのも楽しいですね。

また、アギトは平成ライダー一期の代表的存在とも言える、白倉プロデューサーと井上敏樹氏が初メインとなった作品でもあります。
平成ライダーの歴史を生み出したのはクウガですが、平成ライダーの文脈的な設定やお約束の地固めをしたのはアギトであると私は考えています。

それとは別に、アギトはアギトだけの特性もしっかりと備えています。
これは時代的な部分以外にも、白倉Pの思想と井上氏の作家性が色濃くでたドラマ性の魅力と言えるでしょう。

他にも、OPの絵画が物語に大きく関わるギミックになっているのですが、それをあえて本編で解説しない大胆不敵さもすごい。
アギトの時代って、まだエヴァショックの影響が強く残っているのですよ。
別にアギトがエヴァを元にしたというわけではないのですが、そういう当時の空気感ともマッチしていました。
色んな含みを持たせた謎だらけで、それが徐々に明かされていく展開。それらを様々な人が考察している痕跡なども、ネットを漁ればまだ部分的に見れます。

複雑で骨太なストーリー構成と、その中で光る仮面ライダーらしさの礎となったドラマ性。
この二つが生み出した構成の面白さをメインに語っていきましょう。

オダギリジョーも心配したクウガの続編

最初は少しだけ前回のクウガ解説のおさらいをしよう。
クウガは昭和ライダーを視聴していた子供が父親になる。親子二世帯ライダーファンを生み出せるタイミングを待って制作された。
むしろ初期案はそれぐらいしかなく、様々な流れの中で『平成版の初代仮面ライダーリメイク』への流れに至る。

結果、改造人間や悪の組織と言ったこれまでのお約束的な要素が排除された。
設定にはできる限りの理由付けがなされ、物語は整合性が強く重視される。執拗なまでのリアリティさがクウガに独自の世界観を与えた。

今でこそ二十作品と毎年途切れず作られ続け、令和の時代へバトンタッチした仮面ライダーだが、クウガ時点では続編の予定はなかった。
シリーズ続投を考えていた者もいたが、それは決して確定事項だったわけではない。
むしろクウガの製作スタッフは、一発限りのお祭りでやり逃げするつもりの気持ちさえ多々あった。

そして、その一投入魂っぷりが視聴者の心を強く掴んだ。
結果として前クールのロボコンの視聴率を最大・平均共に上回ったが、それ以上に売上が大きく向上した。
クウガに続編が生まれた直接的な要因は玩具の売上なのだ。伊達や酔狂でスポンサーがあのバンダイなわけじゃない。

続編担当のプロデューサーとして白羽の矢が立ったのは、クウガでプロデューサー補だった白倉伸一郎氏である。
後に平成一期を中心に、ラ平成ライダー作品で最も多くのプロデュースを担当して、平成ライダーを一大ブランドに押し上げる人物。ある意味で平成ライダー育ての親とも言える存在だろう。
脚本はクウガの脚本を担当していた一人である井上敏樹氏だ。クウガのメイン脚本だった荒川稔氏の先輩にあたる人物でもある。

そして、白倉Pと井上敏樹氏は以前『シャンゼリオン』を担当していたコンビでもあった。
シャンゼリオンは様々な意味でこれまでの東映特撮像を破壊した恐るべき作品だ。
一部から高い評価を得ていたものの、訳あって放送枠の更新ができず事実上の打ち切りとなった。
(打ち切りのはずが、最終回は最終回で伝説を残したことは今なお語り継がれている)

なお、シャンゼリオンがどれだけ型破りだったかは、以前のクウガ解説で詳細に書いている。クウガの話なのに書いている……。

当時の白倉Pは井上氏と組んで、アギトをリベンジマッチにしようと考えていた。
井上氏となら、それだけ面白い作品を作り上げられる確信があったのだろう。

スポンサーとしてはクウガで得た人気を持続させたい。
そのためアギトは当初、クウガの正統続編になる予定だった。

しかしクウガという物語は単体でしっかりと完成している作品だ。制作側はアギトを続編としてしまうことで、クウガの蛇足になってしまうことを嫌った。
話が続くと新たな脅威が平和を壊すため、五代雄介が守った行為自体が無駄になる。近年でも某地球外生命体が実例を示した続編のジレンマだ。

また、たとえ続編であってもプロデューサーと脚本家が変われば、作品性も変わってしまう。
クウガの世界観を守ることを考え結果、世界観は明確に分けられることになる。
その名残りは……というか跡は設定や世界観に大きく残された。

デザインに関しても、アギトはクウガを大きく踏襲している。
より正確に言えば、アギトのメインライダー三名はクウガ自体がモチーフになっていた。

現在ではアギトのモチーフは竜だと言われているが、仮面ライダーにはモチーフが必要だとファンからの声があり、後付けでモチーフが考えられている
頭部の角(クロスホーン)が展開すると竜っぽいから竜ってことにしようかって話である。モチーフとは……。

かつて賀集利樹氏がとある番組でアギトのモチーフをクワガタと答えて、それは違うよ! 竜だよ! とファンからツッコミ入った。
源流であるクウガのモチーフがクワガタであるため、これも間違っているとは言い難い。

ただしG3だとまた話が違ってくる。
こっちは元々の設定が未確認4号を元に製作されたパワードスーツだ。
実は色を赤に変えると、かなりクウガに似通ったデザインとなっている。本当にクウガを真似た人類の兵器なのだ。

世界観側は二年前に未確認生命体を未確認4号が倒して平和になった世界。
作中においてグロンギやクウガの名称は出てこない。クウガは未確認生命体の番号でしか呼ばれなかった。

時間軸をあえて変更して、アギトはクウガの続編ではないことを示しており、あえてクウガを登場させることもしなかった。
(G3の存在からしてクウガと思われる誰かはいた)
未確認生命体が話に出たのもほんの序盤だけで、すぐアギト独自の世界観になっていった。

後に刊行されたクウガの小説版は正統続編の位置付けであるが、グロンギ撲滅後は現代日本と同じような歴史を辿っており、アンノウンは出現していない。
仮面ライダーディケイドでも『クウガの世界』と『アギトの世界』はそれぞれ独立して存在している。
それだけ徹底的に二つの作品と世界観は分けられた。

そして二つの作品は、根本的な作風からして全然違う。
クウガの物語は全て現実にある場所と、本当に移動できる時間を計算して物語を組み立てるなどリアルさを追求し続けたが、アギトはそこまで細部のリアリティ追求はしていない。

設定的にもアギトとギルスは、ほとんど毎回本人達に備わった超感覚みたいなものでアンノウンを察知して現場に急行している。
時間や地理を細部に至るまで計算したら、容易くリアリティは破綻するだろう。
ドラえもんでのび太の家が現実の図面に起こすとどこかで矛盾が生じるのと似たようなものだ。

ただし物語として破綻しているわけではなく、一つの作品としての整合性は取れている。
だからこそアギトはクウガではできなかったことを為し得た。それが、より複雑化して多くの謎を孕んだ高いドラマ性だ。
仮面ライダーを三人に増やすことで、一人の主人公を中心にした物語から、三人のライダー達と謎が絡まり合う群像劇型の物語へシフトした。

この謎と人間関係の複雑な絡まり合いによって、仮面ライダーの物語から、いっそ清々しい程に小さいお友達向け要素が抜け落ちた。
アクションや細かな演出では子供向けの要素は随所に含まれているが、大枠の物語はもう小さなお友達が理解できる範疇を大きく越えている。

これにはオダギリジョー氏も心配した。
自分が主演になり、高い評価を得て続編が決まった作品である。当然のようにアギトについてはアレコレ気を揉んでいた。
そして既に出来上がっている序盤の脚本を読ませてもらったが、その内容があまりに複雑化していることに驚いた。
「え、これ大丈夫? 子供ちゃんと話理解できる?」的な反応をしたのだ。

昭和ライダーに比べると物語性も大きく向上したクウガだったが、根本的な部分は小学生でも理解できること範疇に収めている。テーマ部分は感覚的に理解できるような構成になっていた。
アギトとの根本的な物語性の違いはここに起因する。

井上氏も後のインタビューで、仮面ライダーで子供を意識して脚本を書いたことは一度もないと断言していた。
うん、そもそも理解させるとか一切考えてない!
と言うかアギトは平成ライダー屈指の難解なストーリー性で、大人だって「なんかよくわからんぞ!」となり得る。
明確な説明がないため、察せないと気付かないまま通り過ぎる設定も普通にあった。

これが良い悪いかはもう結果で語るしかないのだが、アギトはそのドラマ性の高さからクウガを視聴率で上回った。
子供向けドラマの枠を真正面から破壊したことで、後に続く仮面ライダーらしいドラマ性の礎を築いたのだ。

それが、後の平成ライダーに多い要素、複数ライダーを中心に据えた不和や葛藤、そして調和。それらが生み出すヒューマンドラマと群像劇だ。
これらはクウガではなくアギトこそがその源流である。

井上敏樹氏「クウガは●●●、アギトは●●●」

クウガにおいて高寺Pは子供に正しさや正義とは何かを伝えることを、とても重要視していた。
それはヒーロー作品でありながら、一貫して暴力を否定し続けて、相互理解の重要さを説いた作品性からも明らかだ。

対して白倉Pはクウガの描いた『正しさ』について、懐疑的な部分を持っていた。
最もわかりやすいのはジャラジ戦だ。残忍に殺人を楽しむ行為に激怒した五代は、鬼気迫る勢いでジャラジを叩きのめす。
その裏側では喧嘩していた幼稚園児二人が仲直りして手を繋いでいた。

こういうあからさまな正しさの描き方に、あまりいい顔しないのが白倉Pなのである。
高寺Pに比べると白倉Pは物事を論理的に解体して考える人物だ。

例えば津上翔一のキャラクター性は既存のヒーロー感と大きくかけ離れている。
翔一は人間的に『良い奴』であるのは間違いないが、そこに絶対的な道徳観や信念みたいなものはない。

美女を見たら鼻の下伸ばすし、小学生の太一が尊大な態度を取ってもはいはい言うこと聞いて大人として注意するようなこともない。豆腐を箸で掴めない刑事を無駄に煽りまくる。
記憶喪失が運転免許を持ってないと視聴者から苦情が入ると、わざわざ取れることを証明して「勉強不足ですね!」とやっぱり煽る。
(なお、最後は白倉P関係なく苦情入れてきた大人を井上氏がわざわざ煽った)

ヒーローの主人公は必ずしも道徳的に正しい人間である必要はなく、物語とは絶対的に正しさを追い求める必要はない。
道徳観念的なヒーロー要素よりも、物語としてヒーロー感を確立していると言えるだろう。

高寺Pはクウガにおいて『仮面ライダーらしさ』を、本郷(一文字)と滝の関係性に見出し、五代と一条に置き換えた。

対して白倉Pは全くの別のアプローチとして、仮面ライダーとしてのヒーロー性やパブリックイメージとは何かを理論的に抜き出す。

  • 同族争い
  • 親殺し
  • 自己否定

主に、この三要素が仮面ライダーを確立する要素だと考えた。
ショッカーによって作られた改造人間が、組織を抜け他の怪人達と戦う。
これは改造人間による同族争いであり、己を生み出した組織を倒す親殺しでもある。
改造された体に対する苦悩とは、つまり自己否定の要素に繋がっていく。

特に同族争いは『敵と同質の力で戦う者』という意味合いに置き換わり、ほぼ全ての平成ライダーにおける共通観念となっている。

クウガだと雄介は異形化していく自分の体に苦しみながらも、その苦悩をほとんど見せず笑顔を振りまき続けた。
結果、雄介の優しさと強さ、ヒーロー性は十分に伝わったが、隠された異形化の苦しみは見えにくい。

翔一は明るい好青年でも、記憶喪失後にアギト化した当初は自分の肉体に起きた変化に怯えを隠せなかった。
姉が真魚の父親を殺害したかもしれない事実を認識した時は、自らアギトの力を捨てようとまでしている。
つらさに耐えて皆のため笑顔を振りまく優しさが五代のヒーロー性なら、明るさを忘れずつらさを乗り越え誰かのために戦うヒーローが翔一なのだ

ギルスに至っては、その傷ましい人生そのものが視聴者に嫌という程異形化の苦しみを訴えかけていた。
涼が自分の体に起きた事実を探し求めるのは、異形化した自分を否定したい裏返しに他ならない。いや、ホント、幸せになって……。

アギトは平成ライダーをライダーたらしめる要素が、そのまま物語と作品性にも繋がっている。
井上氏はクウガとアギトを比較してこう言った。

クウガは美しく、アギトは面白い。

実に言い得て妙である。
これを聞いた荒川稔氏も「悔しいけど確かにそうだと思います」と認めている程だ。

アギトにはクウガのような美しく丁寧な世界観と、そこから生まれるドラマの感動はない。
対するクウガは、アギトの持つ物語の濃厚と勢いが生み出す熱量の面白さを持ち得なかった。

これはどちらが正しい間違いではなく、純粋に制作者としてのスタイル差だ。
元々井上氏は、高寺P的がクウガで追求した道徳観やリアリティよりも物語的な面白さを大事にしていた。
井上氏は仮面ライダークウガの脚本で椿に「鎖骨を見ればその女性の全てがわかる」と言う女好き設定を付け加えたお人だ。

高寺Pは打ち合わせで「わかるわけないでしょう」と突っ込んだらしい。
それに対して「わかるもんはしょうがないじゃん」と言っちゃうのが井上氏である。

鎖骨で本当にわかるわからないより、そういう人物像が面白いと考えるので、その真偽なんてどうでもいいわけだ。
だから主婦系主人公は、魚の口に指突っ込んで鮮度を見極めるわけだね!

井上氏が脚本家として高い評価される理由が箱書きの完成度にあると言われている。
箱書きとは脚本の前に作る物語の流れや構成だ。要するにプロット的なもの。
かつて井上氏がスランプに陥った時、箱書きの完成度上げるやり方で脱出したそうだ。

仮面ライダーは一年を通して一本のドラマを制作する。そのため話の流れで決まったり変わったりすることも多い。
そういうことも含めたライブ感要素の強さが仮面ライダーのスタイルでもある。

そのためアレコレ考察すると、視聴者から「脚本家の人そこまで考えてないと思うよ」というツッコミが入れられる人も多い。
(考察はそれ自体を楽しむ行為で単なる無粋なのだが、そもそもこの元ネタは「考えてないと思ってたら考えていた」なので「ふふっ」と生暖かく笑ってあげよう)

井上氏のすごいところは流石に考えてると思ったら何も考えてなかったである。
アギトの物語は当時大人気だった海外ドラマの『Xファイル』的で、大きなミステリーの真相をひたすらに追い求める。
その中核にあった事件が『あかつき号事件で何が起きたのか』だった。

超能力者が生まれ、何故アンノウンに狙われるのか。アギトが生まれた理由等の謎が、あかつき号事件を中軸にして回っていく。
このあかつき号事件、設定的に登場したきっかけはとりあえずその場の話を良い感じに盛り上げるためだけだった。設定? 中身? 何言ってんの。ないよそんなん。

三人の仮面ライダーで物語を回すアギトの構想は構想段階から既に決まっていた。
だが、いざ始まってみるとこれが中々上手くかみ合わない。その最大の原因は葦原涼の立ち位置だった。

主人公である翔一は当然主人公なので一番中心の軸になり、そのためのキーとして記憶喪失がある。
氷川誠は警察というポジションからアンノウンの謎を解き明かす役目があるため、戦闘も含め話に絡めるのは難しくない。

では葦原涼はどうか?
偶発的にギルスになった涼は、偶発的が故に物語へ大きく切り込む要素がなかった。
ギルスに変身する最初の切っ掛けとなったエピソードでも、『偶然元カノが翔一の家で家庭教師になった』展開からして、話の絡ませ方に苦しんでいたのが窺える。

そこで井上氏はあかつき号事件を用意した。
涼は父親の不審な死を『体の変化に関わりがあるかもしれない』と考え、遺されたメモを元に捜査を始める。
またあかつき号事件そのものが津上や氷川も間接的に絡んでいくことで、『あかつき号の中で一体何が起きたのか』自体が視聴者を引き付ける魅力となった。

これによってライダー三人は全員があかつき号事件と関りを持つと同時に、
津上翔一→記憶喪失
氷川誠 →不可能犯罪(アンノウン)
葦原涼 →あかつき号事件

と、それぞれ真相に至るためのルートが出来上がった。
アギトの物語は三本の個別ルートがそれぞれ他のルートと関係し絡み合うことで、大きなドラマの流れができている。

あかつき号事件の真相なんぞ後でよい。まずはドラマとして面白い流れを作る!
こういう方式で箱書きを重視したシナリオが創作できるのは、恐らく井上氏がテーマをあえて考えないことも起因しているのではないかと思う。
多くの脚本家や作家は最初に作品のテーマを作る。テーマとは簡単に言うと作品を通して何を伝えたいかだ。

例えば、何が伝えたいのかがはっきりしていれば、そこが物語の着地点となる。
着地点が決まれば、そこに至るまでの物語の流れも作りやすい。

だが、井上氏はテーマ性をあえて作らないことを作家性の一つにしている。
面白さを作りながらこれはどういう物語なのかを考えるのだ。書いているどこかの段階で『アギトはこういう物語だ!』と結論に至る。

当然ながらこれは相応の技術がなければできない。
何がしたいのか自分でもわからない物語は、見る側からしても結局何が言いたいのかわからない話になってしまうリスクがある。
箱書き段階で面白さを担保している井上氏だから成り立つ技法ではないかと思う。

ただしアギトの場合、『三人の仮面ライダーの物語』というコンセプトは最初からあった。
それと同時に、前提となる物語のバックボーンと必要最低限の着地点は、ある程度できていたのではないかと私は考えている。
(最終に繋がる細かな流れや、それぞれの結末などはまた別)
それがOPで毎回登場する謎の絵画と、そこに深く関わるアンノウンとアギトの独特な設定だ。

OPの絵画(イコン画)を知ることで見えるアギト真の全貌

アンノウンと未確認生命体(グロンギ)、この二種族は正体不明の怪人としての登場こそ似ていたが、その本質は全く違う。

グロンギは人間とは価値観が大きく異なる異種族であるが、同時に人間と近しい生物でもあった。
人間の姿にもなれ、怪人態も人間をベースに他生物のモチーフを加えた姿だった。
人の姿をしながら遊びで人を殺害する相互理解が不可能な存在。何よりも、わかりやすい悪として描かれた。

アンノウンは人型でこそあれ、頭は完全にジャガーだったり、亀が人型になったようなフォルムだったり、グロンギよりも異生物感が強い。
殺戮する対象も、原則として普通の人間は襲わない。未来にアギトとして覚醒する可能性のあるエスパーとその親族だけを狙う。
動機も私情ではなく、大いなる存在に命じられたことによる使命のようなものだ。

謎めいた存在であると同時に、その行動は大局的に見ると遥か将来を見越した人間を救う行為ですらある。
そこにはクウガで革新した物語性も深く関わっており、仮面ライダーで勧善懲悪の悪役を描くのはもう古いという考えがあった。

ヒーローとは敵を倒すための存在だ。言い換えると敵を倒す者として描けばそれで成り立つ。
その悪役側から勧善懲悪の概念を取り除くと、設定を作る難易度は飛躍的に向上する。
所謂『敵には敵の理由がある』という考え方だが、アギトはその理由を追うことも物語性となった。
アンノウンが人を襲う動機や条件は段階的に少しずつ判明していき、目的がハッキリとする頃には終盤に差し掛かっていた。

だが、物語の中においてでも全ての謎が明かされたわけではない。
遥か昔、光と闇の力がぶつかり合って闇が勝利した。
そして光は倒される寸前に、闇が愛する人間に光の力を与えて消える。この与えられた力こそがアギトだった、

なるほど、わからん。
光と闇は何故争っていたのか。
闇は人間の敵対者ではなく、むしろ愛していたから人の中に後付けされた光の力を憎んだ。

本編の終盤でも、アンノウンはいずれアギトになる者を狩ることで、人間を守ろうとしていた可能性があるとも語られている。
実際、アンノウンが直接関わらずとも、アギト(ギルス)になってしまったことで起きた不幸がいくつもあった。
状況だけみると、光の方が余計なことしたから人間が巻き込まれたようにも見える。

遥か昔、世界では何があったのか。どうしてこうなったのか。
人間は何故アギトになり、アンノウンに狙われたのか。
アンノウンはアンノウンで闇の力の使者としか語られていない。彼らも結局はなんだったのか。

私はTwitterで以前、過去に起きた背景設定が中核だよと言って馬鹿にされた経験もある。
アギトという作品性において、過去の出来事は、設定の中核ではあっても物語の中核ではない。
神々の戦いがあったという壮大な背景そのものが重要なのだ。その考え方はわかる。

けれど、物語背景が全く必要がないならOPに絵画を出す必要はない
しかも後期の入ると絵画はよりはっきりと、全容が見えるようにもなっている。

本編だけで絵画の全容を解き明かすことは非常に難しい。
けれど、あの絵画はアギトにおける最も重要な結論を最初から何度も繰り返し、私達の前に映し出していた。
その意味を理解することで、アギトという物語が何だったのか、もっと大きく広い別の視野から見渡せる。また、それができてようやく見えるアギトの本質もあるのだ。

あの絵画は正確に言うとイコン画と呼ばれる。
イコン画とは、ごく簡単に言うと神・天使・聖人など聖書が関わる重要イベントやお話を描いた絵画である。
つまりあの絵画こそが、実際にアギト世界で起きた事柄をそっくりそのまま示しているのだ。

また、いくつかの資料にはアギトのイコン画解説が存在している。
ネットでも当時から様々な意見や考察が出ていた。
今回はそれらを引用(または元に)しつつ細かく解説してみよう。

なお、これが公式で発表されているイコン画の解説。

元始にテオスありき。テオス、光と闇を分かち、昼と夜を分けぬ。
天と地とを分かち、陸と海を分けぬ。世界の創られしはこなり。
テオス次にエルを創り、マラークを創りぬ。
マラークをかたどりて動物を創り、己をかたどりて人間を創りぬ。
世界は楽園なりき。

やがて人間増え、地に満ちれり。
人間のいわく、
「我らテオスの形なり。
されば、我らエルやマラークに勝るべし。
マラークの形なる動物ども、我ら家畜としし従えん」
マラークらのいわく、
「見よ、人間の動物どもを家畜とし従えしを。
我ら人間を家畜とし、従えん。さもなくば殺すべし」と。
ここにマラークと人間の戦い始まれり。
その数各々二億にして、戦い40年に及べり。

7人のエルの一人プロメス、人間を助けんと地にくだりて人間と交われり。
プロメスと人間の間に生まれし子供、これネフェリムなり。
戦いの挙げ句プロメスは殺され、マラーク勝利せり。
エルらのいわく、
「我ら大洪水を起こし、プロメスの子らも、彼らの従えし動物らも全て滅ぼし尽くさん」と。
即ち欺くなりて、水が地の表を40日に渡りて覆いたりき。

テオス深く悲しみ、人間と動物の1対ずつを方舟に乗せ、洪水を生き延びさせたまいけり。
40日を経てのち、水の枯れ、人間の生き残れるを見て、エルら怒りて言いけるは
「テオスよ、人間は汝に逆らう者。ならばすべて殺すべし。
汝ら、すでに汝の創りたまいし人間ならずして、ネフェリムなれば」

テオスの言いたまいけるは、
「エルどもよ、我が言葉に逆らいしは汝らもひとしからん。
人間の再び増え、地に満ちる日まで、
我は我と、汝らを封印せん而して、人間が果たして我に逆らう者らなりや確かめるべし」
即ち欺くなりぬ。

これだけ読んでも、正直よくわからない!
実に宗教画らしい抽象的な書き方だ。次にこれを現代語訳+設定を付加しながらわかりやすくする。

まず、前提としてこのイコン画は上から下に読み解いていく。
(先程の公式解説も同様の順番になっている)

イコン画の切り替わりを元に番号を振ってみよう。

  1. 神様と天使のような存在が整列している。
  2. 人間とたくさんの動物達
  3. 戦う下段天使達と人間&中心で上段天使が人間に子供を授ける
  4. 胸を貫かれて落ちる天使
  5. 横並びになる天使達と船に乗る親子
  6. 進んでいく人間達と赤と青の戦士&倒れる沢山の天使達

今度はこの流れに沿って順番に内容を解説・考察していこう。

1. 神様と天使のような存在が整列している

原初の宇宙にはただ混沌とテオスだけがあった。
テオスは混沌を闇によって一色に染め上げ、宇宙に秩序をもたらせた。

このテオスこそが本編にも出てきた闇の力だ。
闇という一文字で悪いイメージを連想してしまいやすいが、この場合は闇とは宇宙の暗黒や、それ以前のカオスを統制したことを示す。
つまりテオスとは純然たる世界の創造主、そのまんま神様である。

テオスが世界を作った後で、自らの分身となるエルとマラークを生み出した。
イコン画だと中心にいるのがテオスで、その隣と下にいる七人がエルロード。
その下に並ぶのがマラーク。

マラークとはロード(天使)を意味しており、アギト本編でアンノウンと呼称された怪人達である。
怪人の正式名称でもジャガーロードなど、最後にロードが付いている。
倒されたり武器を出したりする時に輪っかが出るのはこのためだ。

そしてアギト本編後半~終盤にかけて現れた幹部級の怪人、水のエル、風のエル、地のエルがエルロードだ。
本編だと三体しか登場していないため、テオスは必要なエルだけを適宜復活させ使役していたのだろう

つまりアギト達は片っ端から本物の天使達を倒していたわけだよ!
この時点でニチアサでやっていいのかっていう結構ヤバいお話。一切ボカさなかったら親御さんからの苦情待ったなしだ。

2. 人間とたくさんの動物達

その後テオスは自分の姿をモデルにした人間を、そしてマラークに似せた動物達を生み出した。
マラークが世界の管理者であるなら、人間は保護して守る対象。故に寵愛を与えている。

3. 戦う下段天使達と人間&中心で上段天使が人間に子供を授ける

神とロード達の庇護下で生きていた人間達は、やがて『自分達は神様と同じ姿で生み出された。人間は他の動物達より格上の存在だ』と主張して動物を食べ、家畜化を始めた。

人間達の行為にマラークは傲慢だと激怒してテオスに抗議したが、取り合ってはもらえなかった。
「テオスは自分達ロードより人間の方が大事なのか?」と、怒りに加えて嫉妬までマシマシで追加されたのは想像に難くない。

人間が好きなテオスは争いを止めようとしていたのだろうが、その想いは通じず結果は逆効果だった。
「我々こそが人間を家畜として従えるべきだ! 拒否するなら滅ぼしてしまえ!」と、遂に人間達と戦争を始めてしまう。

イコン画ではマラークと人間達が左右に別れて戦っている。
人間達の方が多く倒れていることからもわかる通り、戦争は当然マラーク側が圧倒した。

この現状を憂いだエルの一人、火のプロメスは人間の女と交わり子を生み出した。
それらをネフィリム(ギルス)と呼び、マラークに対抗できる人間側の力とした。

人間側の先頭に一人だけ色が緑色の存在がネフィリムだ。
(ディケイドで出てきたイコン画だと、緑人間はもうちょっとギルスに寄せた絵になっている)

4. 胸を貫かれて落ちる天使

人間をネフィリムへと変えた行為で、テオスは大激怒してプロメスを処刑した。
これが本編でも出てきた光と闇の戦いである。

光の力とは神ではなく火のエルだった。
テオスの分身でもあるエルは、人間にネフィリムを宿したことからも、テオスと同じ姿になれるのかもしれない。
ここで疑問なのが、プロメスの行為に対して何故テオスは直接手を下すに至るまで激怒したのかだ。

ネフィリムが戦争の兵隊として投入された以上、一体だけだったとは思い難い。
プロメスは大量にネフィリムの種をばら撒いただろう。

そこで大きな問題が起きた。
アギト本編でもあるように、アギトやギルスの力は人間では制御が難しい。
翔一も最初は力を制御できずに暴走している。

アギトの覚醒が近付いた超能力者達や、アナザーアギトの木野薫も人格が歪んでしまった。
超能力実験に参加していた沢木雪菜も自分の力を制御できず、伸幸教授を死に至らしめている。
後術するが、これは単に人間の弱さだけでなく、火のエルの性質によるものの可能性が高い。

加えて、ギルスは本来アギトのなり損ないで不完全な存在だ。
そんなギルス達があちらこちらで暴走して、マラーク、人間、動物達を見境なく喰らっている。
ただでさえ戦争で心を痛めていたのに、ヤベーイ暴徒まで出てきてもう収集が付かない。

そりゃあテオスも怒るよね。
しかもその根源がモナークより上位のエルだったこともあり、テオスは自分が出てプロメスに落とし前を付けさせたのだろう。

5. 横並びになる他の天使と船に乗る親子

プロメスが倒れたことによりネフィリムの増加が止まり、人間達は戦争に敗北した。
そこでエル達が介入して、「大洪水起こして人間もギルスも動物も全部洗い流します!」と宣言。

テオスは人間に危害を加える行為に対してかなり忌避感があり、アギト本編でも基本的に部下任せだ。
プロメスが勝手をして処刑されたことも考えて、洪水はエル達の自己判断ではなくテオスの命令によるものだろう。

戦争で多くの命が失われ、多くのギルスに地上が汚染されたことに深く哀しみ、テオスは世界をリセットしたのだ。
その際にごく一部の人間と動物を残して船へと乗せた(ノアの方舟)。

だが、プロメスは倒される直前、自らの火の力『アギト』を人間に託した。

これによって生き残った人間は、いきなり直接アギトに覚醒することはなくとも、火の扱いと性質的な闘争本能を得た。
具体的には、火による加工技術(道具の生成や獣を火で調理する等)とプロメスの旺盛な戦闘本能だ。
これらによって人間は文明を築きながら、戦争による発展を繰り返す種族になる。
火のエルとはプロメテウスとルシフェルを混合したような存在であり、人間に大いなる発展と厄災を与えたと言えよう。

マラーク達は人間が得た進化の力は危険であるとし、完全滅亡を望んだ。
(そもそもテオスがノアの方舟を用意して人間を生き残らせていたのを後で知った可能性もある)

「テオス様、もう人間は貴方の愛した存在ではありません。もはや人間は皆ネフィリムと変わらない。生かさず完全に滅亡すべきです」

しかしテオスは全く別の判断を下す。

「私の言いつけを聞かず人と争ったお前達にも罪はあるが、お前達の訴えを聞かなかった私にも非はある。
私はこの星に私とお前達を封じて、我が分身によりもたらされた力によって人が何を為すか、その行く末を一旦見守ろう。その結果をもって人間を滅ぼすかを決める」

こうしてテオスとマラークは永い眠りについたのだった――。

ここまでがアギトの本編開始以前に起きた一連の出来事である。壮大! 超壮大!
流石は、エヴァによる謎解き考察世代の隆盛期に生まれた作品だなあと思う。
分かりやすさとテンポの良さを評価される現代では、クウガとは別の意味でできそうもない。

ここからは補足。
まずプロメスはテオスに敗北して死亡する直前、最後の力で現代に時間跳躍をした。

恐らくプロメスは遥か未来で人間がアギトに目覚めだすこと、そしてテオスがそれを許さないことも予想できていた。
そこで目覚めかけている津上翔一を完全覚醒させて、マラーク達への対抗手段としたのだろう。
そうはさせじと追ってきた水のエルとアギト(翔一)の戦いになった。

目覚めたばかりのアギトでは水のエルに対抗できず敗北。海に沈んで翔一は記憶喪失となった。
水のエルは自らの使命を果たしたため、人間の中に隠れ潜みテオスが目覚めるまで眠りに着いた。
これが神視点から見たあかつき号事件の全容である。

第一話で発見された謎のオーパーツは、言ってしまえばテオスの目覚まし時計だ。
人間が自らの英知でこの謎を解き、遺伝子情報の意味を理解して新しいテオスの器を生み出す。
そこまで発展できた人類に対して審判を下すことが目的だったのだろう。

オーパーツの一部が解けた影響か、先に目覚めたと思われるロードが勝手に手を貸しているあたり、マラークは相変わらず人類滅亡させる気満々だ。
ロードには人間を殺害してテオスに処刑された個体がいる他、深手を負い暴走して純粋な人間に危害を加える者もいた。テオスの意思は尊重しつつも人間に対する憎悪が抑えきれてないようにも見える。
テオスは根本的にマラークとのコミュニケーション足りてないと思うよ!

そうして目覚めたテオスは即決即断できずまためっちゃ迷うのだった。
テオスは人間を滅ぼしたくないから自分達を封印したことからもわかる通り、問題を先送りにしたがる性格なのだ。

先に目覚めたマラークがアギトになる者を殺害することを容認する一方で、己はギルスに慈悲を与え救っている。
自分の手でアギトになる者に直接手を下した時も、強い嫌悪感に苛まれていた。

人間を内から滅ぼす目的で復活させたはずの沢木哲也(=本物の津上翔一)が非協力的でもをあえて放任。
つまりやるしかないけど本心ではやりたくないから、とりあえず部下に任せていたような状態だ。

やっていることが所々矛盾していて、意外と人間臭い性格をしていたから、視聴者は却ってテオスの目的が読み取りにくかった。
水のエルが進化を続けるアギトに敗れて脅威を感じたことで、ようやく自らが動きアギトを完全排除する意思を固めた。

一方で、人間は弱く庇護する対象とみているため、基本的には過小評価して皆同じと断じてもいる。
存在は認め大切にしながら、そこに明確な個の意思は見出していない。これは人間が動物に向ける愛し方に近しい。
(ペットショップとか動画で可愛い動物を眺めるノリ)

6. 進んでいく人間達と赤と青の戦士&倒れる沢山の天使達

最後にイコン画の最下段。
OPで最初に映される部分でもある。
ここがアギトという物語において最も重要なものだった。

この部分では、赤と青の存在が人間と共に歩む姿が映っている。
両端には倒され朽ちていく多くのロード達。

赤い者は一見するとクウガにも見えるが、その正体はアギトのフレイムフォームだ。
(肩のデザインが左右で異なるのがハッキリとわかる)

グランドだとあまりにわかりやすいためと、アギトは元々火のエルから力を得たからフレイムなのだろう。
そもそも基本フォームがグランド(地)なのは、元々人間が大地に根差した生物のためではないだろうか。

また、アギト自体に進化していく性質もある。そこから派生でフレイム等が生じた。

人間(地)→アギト化(グランド)→アギト(派生)→トリニティ

ここから更なる進化を遂げていくと、火のエル本来の属性が顕在化していく。
それがバーニングとシャイニングへの進化であると考えるのが個人的に一番しっくりくる。

地と風があるのに、水のエルが弾かれたのは、元になる火と水の相性が悪いため。
もしくは水のエルが翔一にとってトラウマだったから辺りかなと思っている。

個人の意思がアギトの進化に影響を与えているのは事実だ。
トリニティ登場の引き金は翔一が記憶を取りもしたためで、再び忘却したため力は失われた(そのため本編でも使用回数が極端に少ない)。

ちなみにエルロードの本質は、ロードよりもアギトに近い。
もっと言えば火のエルから力を与えられた時点で、アギトこそがエルと同質の存在であるとも言える。
水のエルにアギト達と似た複眼があるのはこのためだ。
そう考えるとアギトがエルと同属性の力に目覚めていくのは自然なことだろう。

そしてエルロードとはテオスに近い分身。
つまりアギトとは人間が神へと近づく進化。その過程にある存在だ。

これがアギトにおける同族争いであり、イコン画で倒れるロード達は本編で倒されたアンノウン達だった。
そして神たるテオスの打倒は、親殺しに相当する行為だ。

もう一方の青い者は、身体が異形でも頭が人間そのまま。これはマスクを外したG3を示している。
人間はアギトにも近しい力を自ら手に入れ、アギトと共に歩んでいく。

そこまで読み解けると、物語におけるアギトの本質が見える。
イコン画は上から下へと物語が進むのは、同時に神代→現代への流れでもある。
ならアギトと人間が進んでいく道の先にあるのは――未来だ。

『アギト』とは神話の時代から未来へと続く永き道のり。

人とは何なのか。
人は何故人になったのか。
その過程を神話は語る。

神に庇護されるだけの存在だった人は、
やがて神の思惑を超える進化を遂げた。

子が親の手を離れるように、
人は自らの意思で未来へと歩んでいく。

神なき世界とはイコン画(神話)より放たれた世界。

壮大な叙事詩の一部始終を、私達は目撃していたのだ。