どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

二度に渡るクウガ考察を書き終えてみたらなんと2万5千字オーバー。当初は登場人物一人ずつ語っていくスタイルも考えていたのですが、それをやったら本一冊分の分量になっていましたね。

そんなわけでようやく書き終え、さあ次はアギトだ! となる予定だったのですが、本編全部再視聴したら小説版も衝動的に読み直したくなってしまいました。

これがまた面白い! クウガの正統後日談として間違いなく名作と断言できるクオリティ。
クウガ本編の考察時はあえて小説には触れないようにしてました。

小説版の発売はクウガ本編の13年後。当然放送当時は小説の構想は存在してません。
あくまで本編は本編としてのみ絞り、考察を書くべきだと思いました。

もし考察の途中で手を付けてしまうと、特に感情を乗せて書く部分は何かしら影響を受けてしまう。
小説の細部については記憶が曖昧化している今ぐらいがちょうど良いと思い、読みたいのを我慢してました。

そして半ばご褒美のように読み漁ると、やっぱりスゲーイ面白い! これはこれで感想を書きたい衝動が抑えられなくなりました。
本作の出版はテレビ放映から13年後。それも一見すると簡素過ぎてチープさもある表紙です。

今の時代ならクウガ本編を手軽に視聴し直すことも可能。
存在を知らなかった人、小説だからと手を付けるのに抵抗があった人に勧めるのは今が良い頃合いではないかなと。

そして知っている人にはまた本編見直して読みたくなるぐらい、この作品の素晴らしさを語りたい。
そんな気持ちで感想と考察をしていきましょう。

ネタバレなしの解説・感想

引用元;小説 仮面ライダークウガ

グロンギ族という名の異形の者たちと、危険を顧みず戦った五代雄介が忽然と姿を消してから13年の月日が経った――。
巷では、グロンギの噂が出ては消え、何事もなかったかのようなと時が慣れていた。
しかし、未だグロンギを追い続ける一条薫は、ネット上で白い戦士の書き込みを知り、五代の事を思い出していた……。

作品の執筆者は、TV版のメイン脚本である荒川稔久氏。
物語も本編から十三年後の、正当な後日譚として書かれている。

一本の物語としてきちんと完結しているが、読んだ感覚では13年後の新章開幕って感覚もある。
読んだ当時は、これこのまま連載化しないかなと思ったが、そんなことはなかったぜ。
代わりに、想像の斜め上をいく漫画版が開始されたけど。

小説全体の空気感は完全に『あの頃のクウガ』だった。
その要因は大きく分けて三つある。

一つ目は懐かしい登場人物達だ。
十三年の変化を入れつつも、各キャラクターの本質はほとんど変わっていない。
しかも単行本一冊の中に、クウガのメインキャラは大部分が登場している。
流石に一部は名前だけだが、きちんとその後どうしているのかがわかるのは嬉しい。

二つ目はTV本編を彷彿とさせる、徹底したリアリティの追及だ。
現実に存在する地名や、発売当時2013年の社会を下地にした設定を使い、まさしく『その当時』にクウガの戦いが生じている。

グロンギとの戦い後、アギトに相当する事件は一切発生していない。
元々アギトは未確認生命体に関する事件は起きているが、クウガとは明確に世界観が分けられていた。
設定無視というわけでもなく、純粋にあの世界観の十三年後が楽しめる。

そして最後はこれもTV版クウガと同じく、刑事ドラマであること。
TV本編ではほとんど全編に渡り警察を軸の一つとして、未確認生命体の事件を追って謎を解明していった。
これも見事に再現しており、グロンギVS人間の構成は変わらない。

警察ということで、当然一条も出てくる。
むしろあらすじを読んでも分かる通り、本作は一条薫こそが主人公だ。

TV本編当時の、そして別れた後に抱いていた五代に対しての想い。
それだけでなく、かつては触れられなかった椿との出会いや父親に関する事件。そして何故女っ気のない生活をしているのかが、かなり詳細に書かれている。
一条ファンにとっては垂涎のアイテムと言って過言ではないだろう。

なお、クウガを知らない人が楽しめるか否かについては、ここはイエスと言いたい。
TV本編の地続き作品であるため、視聴済みの方が楽しめるのは当然だ。

とはいえ、そもそもクウガは2000年の作品だ。かつて観た人でも詳細は色々忘れてしまったとしても不思議ではない。
かつての主要人物が出る時はさらっと解説が入る。
クウガの物語自体も序盤でざっと振り返っているので、忘れた人や未視聴者の補完的な役割を果たしている。

実際の例として、小説版クウガの紹介としてラジオ番組『JFN・SUNDAY FLICKERS』に荒川氏がゲスト出演したことがあった。
その際にパーソナリティの春風亭一之輔氏は、『ドラマを未視聴で小説を読んだが本当に面白くて、これからドラマを観ようと思っている』という旨の発言している。それだけ一本の小説として完成度が高いのだ。
クウガ未視聴とTV本編のファン、どちらにも勧められる作品である。

社会情勢を取り込んだ新しいゲゲル

ここからはネタバレ有りでの感想になるため注意。

突然だが、少しだけ私が一番好きなアメコミ、『ウォッチメン』の話にお付き合い願いたい。
(なお、ウォッチメンという作品は前日譚的な前置きが長くネタバレらしいネタバレはないよ!)

ウォッチメンは(時代は多少古いが)クウガと同じく現実的な世界観を舞台としており、治安の悪い町で市民の中からマスク被った男がヒーロー活動を始めた。
たちまちブームが巻き起こり様々なヒーローが誕生。彼らはやがてチームを組むようになりマスコミにも取り上げられた。

町で幅を利かせる悪党は次々と駆逐されていく。
そうして町は平和になった……とは言い切れない。
表面的にわかりやすく暴れる悪党は確かになりを潜めるようになったが、その分裏社会で麻薬や売春など地味で目立たない犯罪にシフトしたのだ。

13年後に再活動を始めたグロンギにも、これと同じ現象が起きた。
ライオはリントが誇りを失い腑抜けたからと一条や実加を煽ったが、これは一面的な話でゲゲルを楽しむための口実だろうと思う。

むしろリントは進化した。
それはTV版時代からバルバ(タトゥーの女)達も認めていた事実だ。

グロンギが現れた当初は事態についていけず翻弄されたが、やがて警察は状況に対応して次々と装備を整え、ゲゲルの完遂も難しくなっていく。
そして最後には神経断裂弾が生み出され、クウガの力に頼らずグロンギを倒す手段を得た。

それからさらに13年が経過している。その分科学もより進歩した。
この状態でただグロンギを復活させるだけでは、ダグバ級の規格外でも出なければ人間達だけで事態を収束できる。あらゆる意味でクウガが必要ない。

そのために小説版では新たな仕掛けを二つ追加した。
対グロンギの法案を持ち出し、あえてグロンギに人権を認める。そして明確な殺意の証として怪人の姿を見せないと射殺できないようにした。

流石はゴマアザラシやアニメの埼玉県民にも住民票を認める国である。
グロンギにも生きる権利を与えてしまう発想は実に日本特有のノリだ。
ただし、流石にダグバを筆頭にそれまでの所業を考えると、まともに通るような話ではなく、読者からすれば違和感も強い。

それを政治家として潜り込んだグロンギが汚職を使い成立させましたとして説得力を持たせた。
日本人の政治不信と、グロンギの高い適応力の合せ技だ。

加えてゲゲル自体の性質変化。
かつてのゲゲルは一定ルールに則り短期間に多くの人間を殺害するかを競う。タイムトライアル的な競技だった。

それを今回は、まず準備段階として完全に人間社会へと溶け込むところから始める。
次に年単位の長期スパンで綿密な計画を立てる。そして個々の能力を使い一定ルールに沿った大規模なテロを起こしていく。中にはダグバの三万人すら可愛く思える大殺戮を一発で引き起こす者も現れる。

しかも、かつてはゲゲル以外の殺しはルール違反だったはずだが、今回は正体隠ぺいのためなら躊躇わずゲゲル外の殺人も実行している。

ゲームとしての完成度と計画性が共に段違いで向上。仮面ライダー史上最悪なテロリスト集団と化した。
これには元祖悪の秘密結社(テロ組織)ショッカーも真っ青で思わずゲルショッカーになってしまうね!

そのテロ内容も実に凝っている。
最初は機械の誤作動に見せかけた殺人。
もう七年前の作品ではあるが、当時から精密機器の誤作動事故は定期的に話題となっている。
そこに隠された意図としてゲゲルを絡めた。

二つ目はアイドル。
当時と言えばAKB48が高い人気を得ていた時期だ。

現代アイドルはファンとの距離感が近さが売りの一つ。○○券や大量買いによってファンが支え、国民的アイドルへと押し上げていく流れを書いている。
そしてファン達との最大の交流場であるライブをゲゲルの会場に選んだ。

芸名も伽部凛(トキベ・リン)であり、ファンのコールは自ずと『リント ギベ(人間は死ね)』になる。このコールの最中にファンを皆殺しにするのだ。外道。まさに外道。
かつての雄介でもこれを実行されたらマウントポジション不可避では?

そして最後は政治家。
汚職と政治不信については先程語った通り。

しかも社会的な流行を上手く使い、毒素入りジュースを世に充満させる。
仕上げは160万人というもはや想像もできない人数を一瞬で殺害。当然、その際に起こる二次被害とパニックは更に甚大なものとなるだろう。

どれもこれもが人間の、そして日本社会に根付いた計画的な犯行。
この社会性を重視したゲゲルは、同時にクウガらしいリアリティを伴う。

時代によって変化するグロンギとゲゲル。
わかりやすい遊び感覚の暴力から、社会の暗部に絡んだ複雑で捕まえにくい犯罪へのシフト。
まさしく小説版を13年後の現代クウガ足らしめている要素だ。

一条薫が小説版の主人公だった理由

小説版を深く語るにはやはりTV本編を掘り下げる必要がある。
特に重要なのはダグバとの決戦と最終話だ。

これはTV本編の感想・考察記事でも書いたけれど、荒川氏は途中までダグバとの決戦で五代雄介も命を落とすつもりにしていた。
けれどそれは流石に酷いと、最後は旅に出る形で締めくくった。

再びクウガが戦うとなれば、それは五代雄介が日本に帰ってくる話が必要だ。
そうなると雄介の視点では書けない。そういう逆算から小説版は一条視点での物語になった。

監督は荒川氏の意図を汲み、最終回に出てきた五代は一条の見た夢のつもりで撮ったと語っていたそうだ。
その発言を聞いた荒川氏もその内容を小説に反映した。

最終回で椿と一条の会話で、「五代は今、笑顔でいると思うか」の問いかけを一条がボカしたことを『答えを誤魔化した』として、小説版クウガでは本当に一条の夢だったとした。
13年間帰ってこない状況をある意味で『シュレディンガーの五代』にしたのだ。
本心を見透かした相手が一条の友人、大怪我して病院に運ばれた時もこいつが安静にしているわけがないと、最初から相応の処置をしていた椿であることもにくらしい演出だ。

結果的に小説での五代雄介の出番はかなり限られたものになった。
(戦闘シーンの短さもまさにクウガだったと言えよう)

けれどこの発想は正解だったと私は思う。
クウガという物語において五代雄介は聖人に近い存在だ。

自分の苦しみを笑顔の裏に隠して、皆の笑顔を守るために戦う。
どんどん人間から離れていく自分の身体を皆がどれだけ心配しても、大丈夫だと微笑み続けた。
むしろ加速度的に強さを増していくグロンギ達に対抗するため、意図して強化すらしてしまう。

物語におけるクウガは、警察がゲゲルのルールを解析して一般市民の安全を確保した後に現れ、グロンギを倒す役割だった。
人間ができる努力が前提にあり、人の手に余る部分を解決する。

雄介も捜査に加わりヒントを出す場面も時々あったので、完全にこの流れってわけではなかったが、基本的な流れは所謂ウルトラマンの論理に近いヒーローだった。

この場合、雄介が聖人足りえた最大の理由とは何か?
それは五代雄介の心情を示す描写が少なかったからだ。

全くなかったわけではないが極端に絞ったからこそ、ジャラジを相手に激怒して荒れ狂う姿が異常に映った。
普通の人間ならジャラジの残忍性を目の当たりにして怒っても、そりゃこいつなら仕方ないになるだろう。
それが「あの五代雄介でも憎しみや怒りに呑まれてしまうのだ」と思わせ、視聴者に暴力の恐さを訴える効果があった。

小説とは登場人物の思想や思考を掘り下げることを得意とする媒体だ。
けれど、雄介の心情を描いてしまうと、彼はその時点で聖人から人間になってしまう。あるいは超人が凡人になるの方がわかりやすいだろうか。

類稀なる心の強さがあっても、その裏を覗くと苦悩が現れ人間臭さが出る。
雄介のケースでそれを実行すると、クウガのヒーロー性を打ち消してしまうのだ。

五代雄介の見た青空

その苦悩を描き出す役割を負ったのが一条と実加だった。

一条は雄介が苦しみ傷付きながらも、それを笑顔で隠して戦い続ける姿を誰より近くで見ていた。
そして別れを告げず消えてから、13年間の月日が流れる。
帰ってこない時間が、そのまま雄介がどれだけ苦しんでいたかを推し量る結果となり、一条の罪悪感を掻き立てていく。

対グロンギの法案も、元々は警察がグロンギを殺害する免罪符になっていた。
人の形をして人のように思考する。怪物であれ、そこまで発達した人に近い存在を殺害するには大きなストレスがかかる。
それは一条も身を持って知っていた。

新たな窮地に、五代が再びクウガとなって戻ってきてくれたのではと期待する声もあった。
けれど一条はまた思い悩む。

本来、五代が帰ってくる時は、体内のアマダムが消滅した時であるべき。
今回の帰還は、雄介の笑顔がまた遠ざかるという現実でもある。

暴力を誰より嫌い、けれど暴力を振るう選択をした心優しいかつての青年は、その後自分が作った平和な世界から13年間距離を置き続けている。
一条はその苦痛と覚悟を慮り、帰ってきてほしいと口に出せない。

『中途半端はしない』とかつて五代雄介は一条に約束した。
そして本当にクウガとなって戦うことに対して、一切の中途半端をしなかった。その結果が赤い目の凄まじき戦士だ。

皆はそこで終わると思った。雄介は辛い役目から解放されると信じた。
けれど中途半端にしない約束を、雄介はクウガという存在自体にも適用したのだ。

クウガの力とは、本質的にグロンギと同じ。
未確認生命体が日本に必要ないなら、自分もまた消えねばならない。
それは自分の手でグロンギを消し去ったクウガとしての責任もあるだろう。

もし日本に帰ってこられる可能性があるとするなら、それは体内から完全にアマダムが消滅した時だけ。
会いたい人、話をしたい人はたくさんいるはず。雄介は自らの力を完全に封印するまで、その気持ちを抑え込んだ。
その深い痕を一条の視点から深く掘り下げている。

そしてクウガとなって戦うことの恐怖と痛み。
雄介が仮面の下に隠してきた感情を、かつてクウガに救われ、新たにクウガとなった実加が語る。

既に刑事として成長している実加は、けれど覚悟を決めきれず白のクウガのまま戦い続けた。
戦いに対する予想以上の重圧と恐怖に苦しむ。
より力を求めると、その先にあるのが心を失い生物兵器、凄まじき戦士への変貌である。覚悟を決めようにも決められない。

実加が弱いのではない。むしろ刑事としても優秀で努力家だ。そんな彼女でさえクウガの背負う重責には心が折れる。
自分もクウガになったからこそ、実加の口から紡がれる『人外になって戦う経験と苦悩』は生々しい。

彼女はクウガになることの真の恐怖と苦しみを知り、精神的な助けを一条に求めた。
けれど人間じゃなくなってしまい、憧れの人に抱いてもらうことにも抵抗感が生じてしまう。

一条の拒絶が、彼の経歴や生真面目さからくるすれ違いだと判断ができなくなる程に、化物の自分を自分で追い詰めていく。
想像しやすく近いものは、感覚的にまどかマギカの美樹さやかだろう。

これは当然全て五代雄介も味わったことだ。
それも四十を超えるグロンギ達と戦い続けて、人外と戦いの恐怖をたった一人で耐えていた。
ほとんど表にも出さず笑顔を絶やさず、凄まじき戦士になっても自分を保ち、自ら選んだ道をやりぬいた。

我々は13年の時間と実加越しに、雄介の抱えてきた苦しみの本質をようやく理解できたと言えよう。

雄介にとっての13年は孤独と癒しだった。
涸れ果てかけた聖なる泉を少しずつ満たしていく時間。それも終わりが近付き、真の意味で解放の時が近付いていた。

だが、それよりも先に日本で再びゲゲルが始まる。
雄介でさえまたクウガになること、そして13年という時間の積み重ねを壊すことには躊躇いがあったという。
その苦悩も一条と実加の存在によって共感のあるものだった。

雄介が久方ぶりに変身したのは、戦いの果て手にした凄まじき戦士でも、常時発動が可能になったライジングでもなく、通常フォームだった。
アマダムの消滅は近付いていたのは事実で、13年かけてようやく手放しかけたクウガの重さを再び背負い込む。

聖人だった五代雄介。
その苦悩を知り、その優しさをわかって上で、帰ってこいと一条は言った。

皆が帰りを待っている。
一人で抱えて苦しむな。

望まぬ形で戻ってきた戦士を、それでも引き留める。
心からの言葉は雄介のためではなく自分のため。
雄介に帰ってきてほしい自分のため。

雄介は孤独を耐えていた。
一条は心を出さす待ち続けた。
実加は隠して背負い続けた。

けれど、正しさと自分の気持ちは別だと、一条の先輩刑事でもある杉田は語った。

五代雄介ではなく、自己犠牲を否定した。
一条は雄介のため、雄介は皆のため、誰かのために苦悩を隠す気持ちは尊いものだろう。

けど、押し隠した自分の気持ちを吐き出したことで、初めて気付くこともある。
クウガの居場所は日本になくても、雄介の居場所はちゃんとあるのだと。
二つは別てなくても、天秤は最初から大きく傾いている。

新たなグロンギを相手に、けれど雄介はその手を汚さなかった。一条達が汚させなかった。
もう雄介には一人で背負わせない。胸の痛みも共有できる。

最初から、一条達が雄介に望んでいたのは癒すための旅ではない。楽しむための旅だった。
だから行くも帰るも自由。

一条は自分の願いを雄介に伝えた。
誰かを求めるワガママは、誰かを想う優しさなのだ。

それに対して雄介は、古代ローマで、満足できる、納得できる行動をしたものにだけ与えられる仕草で返した。
見上げるだけで心安らぎ笑顔になる――彼の青空は旅した異国の果てではなく、ここにあった。