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一条薫が小説版の主人公だった理由
小説版を深く語るにはやはりTV本編を掘り下げる必要がある。
特に重要なのはダグバとの決戦と最終話だ。
これはTV本編の感想・考察記事でも書いたけれど、荒川氏は途中までダグバとの決戦で五代雄介も命を落とすつもりにしていた。
けれどそれは流石に酷いと、最後は旅に出る形で締めくくった。
再びクウガが戦うとなれば、それは五代雄介が日本に帰ってくる話が必要だ。
そうなると雄介の視点では書けない。そういう逆算から小説版は一条視点での物語になった。
監督は荒川氏の意図を汲み、最終回に出てきた五代は一条の見た夢のつもりで撮ったと語っていたそうだ。
その発言を聞いた荒川氏もその内容を小説に反映した。
最終回で椿と一条の会話で、「五代は今、笑顔でいると思うか」の問いかけを一条がボカしたことを『答えを誤魔化した』として、小説版クウガでは本当に一条の夢だったとした。
13年間帰ってこない状況をある意味で『シュレディンガーの五代』にしたのだ。
本心を見透かした相手が一条の友人、大怪我して病院に運ばれた時もこいつが安静にしているわけがないと、最初から相応の処置をしていた椿であることもにくらしい演出だ。
結果的に小説での五代雄介の出番はかなり限られたものになった。
(戦闘シーンの短さもまさにクウガだったと言えよう)
けれどこの発想は正解だったと私は思う。
クウガという物語において五代雄介は聖人に近い存在だ。
自分の苦しみを笑顔の裏に隠して、皆の笑顔を守るために戦う。
どんどん人間から離れていく自分の身体を皆がどれだけ心配しても、大丈夫だと微笑み続けた。
むしろ加速度的に強さを増していくグロンギ達に対抗するため、意図して強化すらしてしまう。
物語におけるクウガは、警察がゲゲルのルールを解析して一般市民の安全を確保した後に現れ、グロンギを倒す役割だった。
人間ができる努力が前提にあり、人の手に余る部分を解決する。
雄介も捜査に加わりヒントを出す場面も時々あったので、完全にこの流れってわけではなかったが、基本的な流れは所謂ウルトラマンの論理に近いヒーローだった。
この場合、雄介が聖人足りえた最大の理由とは何か?
それは五代雄介の心情を示す描写が少なかったからだ。
全くなかったわけではないが極端に絞ったからこそ、ジャラジを相手に激怒して荒れ狂う姿が異常に映った。
普通の人間ならジャラジの残忍性を目の当たりにして怒っても、そりゃこいつなら仕方ないになるだろう。
それが「あの五代雄介でも憎しみや怒りに呑まれてしまうのだ」と思わせ、視聴者に暴力の恐さを訴える効果があった。
小説とは登場人物の思想や思考を掘り下げることを得意とする媒体だ。
けれど、雄介の心情を描いてしまうと、彼はその時点で聖人から人間になってしまう。あるいは超人が凡人になるの方がわかりやすいだろうか。
類稀なる心の強さがあっても、その裏を覗くと苦悩が現れ人間臭さが出る。
雄介のケースでそれを実行すると、クウガのヒーロー性を打ち消してしまうのだ。
【次ページ:五代雄介の見た青空】
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