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どうも、今回の映画は絶対初日に観るぞと心に決めていたゲタライドです。

アマゾンズ程ではありませんが、劇場内はいつもより大人が多い印象でしたね。
本当に平成最後のライダー映画にして、平成ライダーの集大成となる作品だけに、視聴者から非常に高い期待値がかけられた作品なのは言うまでもありません。
しかしあらすじ以外は宣伝の内容がやたらと曖昧でもありました。

客演でオーナーやモモタロス達は確定しているのに番宣の映像では全然出てこない。
PVも集大成的なライダー総登場やメタフィクション構造な空気は出ているけれど、ストーリーを連想させるものは少ないんです。
これは同様にPVが出ているVシネの『仮面ライダークローズ』と比べてみれば一目瞭然でしょう。

そういう中で期待ばかりが膨らんでしまうのは当然のこと。
そして本日上映がスタートとなり、平成ジェネレーションズは上がりに上がったハードルを、ものの見事に飛び越えていってくれたのです!

ネタバレなしの感想

平成ジェネレーションズは番宣でもあったように、仮面ライダーは現実だと虚構の存在であるというメタフィクション視点のネタを扱っています。
ソウゴ達は特撮オタクの部屋を見て、自分達が虚構の存在なのかもしれないと突きつけられる。

これは同時に視聴者に対しても仮面ライダーとはテレビ番組という虚構なのだと見せつけているに等しい。
それでも、仮面ライダーはここにいる。

ならばその『ここ』とは何なのか。
言葉にしてしまうと、それは視聴者の記憶。ライダーは心の中にある。
とかごく単純なことで、よく聞くチープな話になってしまう。
大事なのは『ここ』を示すための実感なのだ。

平成ジェネレーションズはストーリー的にもかなり複雑だ。
私は午前中に映画を観たけど感想はド深夜になった。
面白さを反芻していたのもあるけれど、ストーリーをきちんと整理していたのが大きい。
一度観ただけでは理解できない人も少なからずいるくらいややこしいストーリー構成だ。

それらは全て、クライマックスシーンで平成ライダーは『ここ』にいるの、『ここ』に説得力を持たせるための前置きだった。
虚構と現実が入り乱れる世界だからこそ『平成ライダー』とは何なのかという本質が浮き彫りになる。

これまでも仮面ライダーを集合させた作品はいくつもあった。
平成ジェネレーションズがそれと違うのはあえて平成ライダーが虚構であると印象付けた上で、視聴者とソウゴ達、双方の視点で平成ライダーの存在を問いかけたことだ。

ソウゴ達の視点だけだと単なるメタフィクションとその否定だけに話は収まる。
視聴者目線だけだとそれは単なるヒーローショーになってしまう。
最初から最後まで、二つの視点から『平成ライダー』とは何かを問い続けたからこそ、仮面ライダーは確かに『ここ』にいると視聴者は答えを実感できたのだ。

当初はあえてネタバレなしのみの感想にしておこうかと思ったのだけど、もっと、もっと語りたいと私の心が踊るので、ここから先はネタバレありの感想になる。
まだ未視聴の人はここでバックすることを推奨しておく。

平成ジェネレーションズで残念だったポイント

箸休めを含めて、先に残念だったなあと思うポイントを指摘しておこう。
それはもうズバリ言ってしまうとWの扱いが非常に雑だったことが8割を占める。

電王は平成ライダーの本質を語るためには絶対的に必要な存在だ。
そしてクウガは重要なキーパーソンとして話を構成するためにも必要不可欠である。

しかし『仮面ライダーW』だけはそうじゃない。
正直言って他の平成ライダーでも代えが効く扱いだった。
風麺屋がかなり唐突に出てきて、なぜか風麺屋のオヤジが翔太郎から預かっていたWのライドウォッチを渡す。
いやいやいやいや、なんで風麺屋のオヤジに預けたの?

フォーゼの時は仮面ライダー部の元顧問であり、弦太朗からの信用もある大杉がライドウォッチの居場所を聞いていたから納得できた。
(それに鍵もかけて大切に保管されていた)
風麺屋のオヤジがポケットから雑にライドウォッチ取り出して渡す展開はいくらなんでも強引過ぎる。

また、ウォズがなぜか星の本棚を発動させて電王のパスと時間の移動先を突き止める。
演出的な嬉しさはある。あるけど、それは君の役目じゃない
というかなんでそんなそんな能力持っているのか。
謎のキャラという設定を便利に使い過ぎなのが否めない。

アナザーWが誰だったのかも最後まで不明なままで、単なる一怪人扱いでWアーマーにサクッと倒されて終わった。
同じアナザーライダーが出てきた電王やクウガと比べてもあまりに扱いの差がありすぎる。

ライドウォッチの継承が終わってしまったので、今後の出番があるかも怪しい。
現段階で最も不遇な扱いの平成ライダーがWで更新されてしまった。

他にも戦兎がなぜ洗脳にかからなかったのか等、細々としたところで説明不足や粗がある。
とはいえ、Wの扱いを除いては尺的にカットしたか、演出的に美味しい方を優先にしたで概ね理解できる範疇だ。
何より映画そのものが持つ平成ライダーへの熱い想いが遥かに上回った。

お祭モノ感と平成ライダーらしいストーリ性の完全調和

そのためストーリー自体も『虚構』視点と『現実』視点が入り乱れていて非常にややこしい。
この複雑さはジオウの1~2話を思い出させるものでした。
けれど物語が後半に差し掛かると序盤の回想も使って複雑に絡まっていた糸がピンと張るように、スッキリとまとまっていく。
おかげでストーリー面のモヤモヤ一番燃えるシーンを純粋に楽しめた。

平成ジェネレーションズの脚本は、ジオウのメインライターでもある下山健人氏だ。
そして監修に小林靖子氏も加わっている。
恐らく電王に関わる部分の監修なのだろうと思うけど、綺麗な伏線回収とまとめ方は小林氏っぽさを感じた。

ストーリー全体を俯瞰してみると、平成ジェネレーションズはヒーローショー的な要素も実は結構強い。
仮面ライダーは虚構でも、誰かが憶えている限り確かに存在するのだと語り、皆の記憶から仮面ライダー達が蘇る。
この流れはレッツゴーライダーキックと近しい構成だ。

しかし平成ジェネレーションズはお祭りモノ感の強い春映画の枠では収まらない程、全体のストーリー構成がそれこそ電王ばりのロジカルさでもって構成されているためだ。
また、今回の映画ではいつものオモチャ宣伝やお祭りモノ演出的な強化やフォームチェンジの強調がない。

ビルド組はTVで使用されたフォームの再登場こそあったが、設定上使えるものだけ。
クローズビルドフォームはもちろん、使うと死ぬブリザードグリスや設定上もう使えないジーニアスフォームも登場しなかった。
ジオウに至っては使えるはずのアーマータイムの使用もかなり絞られ、オモチャ売るために宣伝の必要があるだろうディケイドアーマーすら登場していない。

総出演系だとお約束だった『タマシーコンボ』や『一号アームズ』などの特別フォームも、意図的に使わなかったのだろう。
これによって過剰な演出によるお祭感がなく、あくまでビルドの後日談、そしてジオウがメインの物語なのが強調されている。
しかしジオウの中にあるお祭り要素はしっかりと、少し強調して描くことで物語的な破綻を抑えたロジカルさとお祭りモノの融合を果たした作品になった。

またディケイド以降は完全に定着していた、新ライダーの顔見せや放映終了後の次映画宣伝すらなく映画はスッと終わった。
潔癖症なまでに『平成ライダーを締める作品』として扱われているのがよくわかった。

ジオウとしての夏映画は当然あるだろう。
しかし平成ライダーとしての映画は、これで本当にお終いで、そして皆の胸に残るものが全てなのだと告げているようだった。

平成ライダーは塊ではなく個性の集合体

平成ライダーは作品ごとに自分という形を確立している。
そしてライダーごとの個性というものをとても大切に扱ってきたからこそ、20作というシリーズが途切れつことなく続いていたきた。

宣伝時でも同じポーズの横並びではなく、ライダー一人ひとりが自分達の決めポーズを付けていることでも、それを強く示している。
ライダー達が集合して戦うシーンも、それぞれの個性を事細かく描いていた。

声優による演じ分けではなく、一部はレジェンド出演による新録。
そうでなくてもライブラリを使った本人の声を使用している。

ライダー達が数名単位で連携して戦ったり同時攻撃したりするシーンですら、個の特性やモーションをきっちり演じて個性が出るように気遣う。
龍騎はわざわざ『協力して一緒に戦う』ことを強調している。
見ているこっちはライダー同士は助け合いでしょの精神で、龍騎が他のライダー達と戦えているという実感が沸いてきて、もう『良かったね!』としか言いようがない。

キバはエフェクトに鎖が付いたり、アギトは何か神秘的な光が発されたり、それぞれの個性付けで新しい演出まで付与されていた。
何より私が感動したのはクウガのバイクアクションだ。
あの跳ねるようなバイクさばきは当時のアクションそのまんま。
まさに仮面ライダークウガの完全再現だった。

そしてお約束のライダーキックも『オールライダーVS大ショッカー』のように全員揃ってではなく、一人~三人に分けており、しかも見事な連携攻撃だ。
ライダーキックこそ仮面ライダーの華であり、それぞれの個性が光る。
ライダーキックを持たない例外や、どうしてもキックの形式が変わるタイプのライダーは、共通部分の見えやすいライダーとの同時キックとして演出。

特に龍騎のファイナルベントを立体的な視点で魅せる構図が堪らない。
キバとウィザードの同時キックも演出の素晴らしさが光る。
ここまでライダー達の個性を重要視した集合系の戦闘シーンは間違いなくなかった。
そして今後現れるかわからない。それぐらい素晴らしいアクションだった。

平成ジェネレーションズは平成ライダーを愛してくれた人に送る作品。
平成ライダー作品一つひとつへのお礼が込められていた、

虚構に対する戦兎の答え

ジオウのビルド編では、他のレジェンドと比べると損な役回りが強かった戦兎と龍我。
しかし平成ジェネレーションズでの戦兎はレジェンドとしてではなく、メインライダーの一人と先輩ライダーの役割を両立させていた。

自分の存在が虚構かもしれないと悩むソウゴに対して、『関係ない』と戦兎がフォローする。
『現実』か『虚構』かは関係がない。
大切なのはここに自分が存在していること

戦兎はエボルトによってデザインされた虚構のヒーローだった。
そもそもが葛城巧という別人。
けれど桐生戦兎として戦い続けた日々は仲間達に、誰より万丈龍我に届いていた。

ゆえに大切なのは仮面ライダーとしてここにいること。
たった一人でも、誰かに届けば、憶えていてもらえるならそれでいい。
新世界で得た戦兎の想いがそのまま形になった答え。
その意味と大切さをソウゴに伝えて、ビルド編ではできなかった世代のバトンタッチをようやくここで果たした。

戦兎の回答は、そのまま仮面ライダー視点での平成ライダーとは何かに繋がる。
憶えていてもらえること。
それが仮面ライダーとしての存在証明。

むろん、これは戦兎だけに限った話ではなく、他の平成ライダー全員に共通する。
ゆえにクライマックスで既にライドウォッチが継承された平成ライダー達の復活も叶ったのだ。
これは視聴者にとっては『いつまでも憶えていたっていい』という意味でもある。
我々は大人になっても仮面ライダーを好きでいていいのだ!

なお、他のビルド組はヒゲポテト組も出番はあったけど、大事なのはやはりジオウにも出たもうひとり。
龍我はややこしく複雑なストーリ展開の中で発した一言が全てを物語る。

「よく分かんねぇけどあいつが悪い奴なんだな!」

紛うごとなき万丈龍我!

電王の記憶と視聴者の中にある平成ライダー

ビルドが仮面ライダー視点での『平成ライダーとは何か』ならば、電王は『視聴者』側からの仮面ライダーとは何かである。
『記憶』が存在を形作る。
だから憶えていることが仮面ライダーの存在証明。

その実感を野上良太郎がこれ以上ないほどわかりやすく示してくれた。
上映中に皆が本気でどよめいた映画なんて初めてで、多分もう二度とないだろうなと思う。

壮大なストーリーを上映時間内に収めなければならず、尺との勝負になる劇場版。
その中でモモタロスと良太郎が言葉を交わすシーンだけ、感覚でわかる程にゆっくりと時間が流れていた。
そこで発される『俺達もお前を忘れるかよ。良太郎!』というセリフ。

これはもちろんモモタロスが良太郎と過ごした時間と記憶があっての言葉だ。
そして視聴者はその出来事をテレビやスクリーンを通して追体験してきた。
つまりモモタロスの想いは誰よりも重い視聴者の代弁となる。

また、今回のイマジン契約者だったアタルは、そのまま視聴者視線の存在だ。
ライダーを虚構と知り、そして虚構と知っても愛してきた。
彼も視聴者のシンクロには欠かせない存在だ。
劇場版において、ここまで感情移入できてストーリーに重要なゲスト一般人キャラはこれまで見たことがない。

ラストシーンで兄弟がライダーと共に成長していく姿。
あれもまた我々をストレートに表している。
ライダーと共に成長していき、愛し続けていくことへの許容と感謝。
そして平成ライダーの歴史を表すのに重要な記号だ。

仮面ライダーはいる。
仮面ライダーを観てきた人達、一人ひとりの心の中に。
私達が憶えている限り、仮面ライダーはいつまでもそこに輝き続ける。
そこに小難しい理屈は必要ない。

という理屈を、平成ジェネレーションズはこれ以上ない程丁寧に視聴者へと伝えた。
劇中に鳴滝さんがいなかったので、私が代わりに叫ぼう。
ライダーってのはなんて素晴らしいんだ!