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FGO第2部4章感想 カルナによるアルジュナ救済の物語

2020年3月8日

※ 移転前の記事を加筆修正したものです。

ゼミ生の皆様こんにちは、語屋アヤ(@ridertwsibu)です。

毎週楽しみにしている仮面ライダーが今週お休み。ゴルフがこの世界からなくなるようイマジンと契約するかを真剣に考え出していたところで、ロストベルト新章開幕のお報せが!

というわけで今週の日曜日はFGOに明け暮れておりました。
そして今回もやりごたえ十分なボリュームでございました。

システム面に関しては何よりNPCサポートに概念礼装実装がありがたかったです。
ジナコが何回明日からダイエットを誓ったかわからない。

その分、戦闘難易度はかなり高めでしたね。そして神性ラッシュ。
しかもアーチャーとバーサーカーの偏りがあるので、ストーリーでカルナが退場しても戦闘では自前のカルナと、影の国の女王様による槍投擲が冴え渡っていました。
あと、カリがバーサーカーでHP多いのもあってステラァーもよく響く。

アーラシュが宝具使う度に消滅し、カルナは鎧を剥ぐのに毎回呻き声をあげる。なんだこ地獄。

神ジュナ戦については良くも悪くも派手。
クリティカルバンバンだしてくるバーサーカー相手だと、戦闘がどうしても大味になりがちなのはいつも通り……フォーリナーすら長持ちしないとかどういうことなの。
回避ができなきゃ後は死ななきゃラッキーで、やられる前に神性特攻でやれ!
その後の伐採はまだマシだったので、主にフォーリナーでがんばる。

シナリオ面は全体的に、これまでと比べても丁寧かつ繊細でした。
『輪廻転生』、『自己喪失』、『神』の三テーマを平行に扱い、最終的にそれらは全てアルジュナに収束していく。
この流れと構成がめちゃくちゃ上手い。

ただし物語の構造自体がいつもよりやや複雑なので、テーマ性を考慮せずプレイすると終始アルジュナがディスられているように感じてしまう人もいたようですね。
というわけで、今回は物語のテーマ性から考える第二部四章の考察と感想をアルジュナを中心に据えて書いていきましょう。

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神将が示した『レディ・ライネスの事件簿』の続き

異聞帯インドはカリ・ユガにより、超短期的な輪廻転生のサイクルをぐるぐる繰り返している。
そのサイクルの中で不出来とされたものは淘汰されて次の輪廻に持ち込めない。

まさに神のごとき諸行なのだけど、このシステムの恐ろしいところは除外された側が変えられたものを認識できないところにある。
カリ・ユガで生き残った人々は皆、『今回も全員無事乗り越えられた。神様を信じたからだ!』と考える。
故に神を疑うこともなく世界はまた次の輪廻を繰り返す。

たとえ認識ができたとしても別問題が生じる。
人は記憶を奪われると、消えてしまったものに対しては実感が沸かず、感情移入できなくて悲しめない。
大切な人を失い思い出せない、自分でなくなった自分を嘆く。思い出せないことが悲しいのだ。

カリ・ユガの中で描いた悲劇を、もっと具体化して掘り下げたのが神将達だった。
哪吒は自分の中に受け入れがたい存在を入れられてしまう。
なんとか見てみぬ振りをしていたら、自己を確立できている己と向き合わされ、結果として自己を保てなくなってしまった。

この時点でアルジュナは、不出来という邪悪を淘汰しておきながらほとんど個を見ていない
結果としての善だけを求めている。
(だから神に祈らず自力でカリ・ユガを乗り越えた人々だけを丁寧に消し去る行為が、カルデア側には予想外だったとも言える)

ウィリアム・テルとアスクレピオスは自己のアイデンティティを不出来として消去された。
記憶の消去と改竄は藤丸立香も『レディ・ライネスの事件簿』で受けている。

自分の記憶を奪われ、部分的に改竄されて、何処までが本当の記憶なのかわからない。
どこまで自分を信じていいのかが曖昧となる。

『ユガ・クシェートラ』ではライネス事件簿から、もう一段階先『人はどこまで自分を削ぎ落としても自分でいられるか』へと踏み込んだ。

例えばの話。
立香が右腕を失っても立香だろう。
立香が右足を失っても立香だろう。
立香が令呪を失っても立香だろう。

ならば、立香がマシュを失っても立香でいられるだろうか?
恐らく第一部が終わった時点でマシュと別れていたら、きっと立香のままだ。
マシュを失って立ち直ることができれば、それでも傍目から見れば立香でいられると思う。

それならマシュの記憶だけを失った立香は立香と言えるのか。
マシュと共に積み上げた思い出。
マシュと過ごすことで成長できた心。
それらがスッポリと抜けた落ちてしまったとしら……。

それが息子の記憶を失ったウィリアム・テルだった。
記憶がその人物の魂を形作るのなら、記憶や認識を破壊された人間は自己を保てない。
アスクレピオスもまた、医者としての認識を歪められたことで行動原理に大きな矛盾が生じた。

アシュヴァッターマンだけは自己喪失の本質に気付いていた。
故に怒りを喪失しないためアルジュナに隷属する道を選んだ。
怒りこそが自分のアイデンティティであり、怒りを喪失した自分はもはや自分ではない。

逆に最後まで怒りを捨てずに済んだのならば、怒りという負の感情を不要と断じれなかったアルジュナの敗北となる。
そういう自分ルールで対抗する道を選択した。
記憶だけでなく感情すらも、時には自己を確立するアイデンティティとなり得る。これも自己喪失に対する一つの答えなのだ。

アルジュナは完璧な己であろうとして貪欲に神を取り込んだ。
その結果、自分の感情を喪失して本来の自分や、なろうとしていた自己を保てなくなり別人と化した。

たとえ別人となり果てても、自分の意思さえ削ぎ落として完全な神を目指したため、もはや何が自分の起源なのかがわからない。
完璧を目指したはずが、自分の不完全にすら気付けなくなった。

気付かないことで自分が目的を達しようとしていると勘違いし続けた。
今ある様が正しい答えなのだと思いこむ。

カリ・ユガで輪廻転生を続ける人々と神将の自己喪失は類似していて、神将の自己喪失とアルジュナの自己喪失は本質が同じ。
この流れと同じく、第四章では物語のテーマと核になるべき部分はアルジュナが巻き起こしている。
それらがシナリオの中で巡り巡ってアルジュナへと帰結していくのだ。

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ジナコとアルジュナの重要な関係性

カリ・ユガによって振るいをかけるシステムは、前提としてアルジュナという一人の神による人力運営である。
つまりカリ・ユガの輪廻転生を延々淡々とこなし続けるアルジュナは、もはやそれそのものが舞台装置に等しい。

ジナコが狂いかけた、気の遠くなるような時間の中でアルジュナは神となった。
そこからリンボが現れるまでは一人でカリ・ユガを運営し続けてきた。
アルジュナは自己完結している唯一神の性質上、人と関わることがないのはジナコと変わらない。
しかも延々とチート系世界運営シミュレーションゲーム『カリ★ユガ』のワンタイトルのみをひたすらプレイし続けている。総プレイ時間なんて考えたくもない。

とまあ、ここで名前が出てきたジナコであるが、なぜ今回彼女がガネーシャとして出てきたのか。
これは設定的な意味ではなく、物語の役割的な意味での話だ。

それこそ体型とかネタ的な意味合いでもなく、ジナコこそがガネーシャでないといけなかった理由とは何か。
第4章において、ガネーシャだけがカルデア側において一人だけ純粋な神だった。
カルナとラーマは神性こそあるが正式な神ではない。
(わざわざ選択肢を用意して解説までしている)
ラクシュミもベースはあくまで人間だ。

一人だけガチ神のジナコは、作中でも激しくゴッドアピールしていた。
ここまで来ると、パールバティがあえてお留守番になった理由もなんとなく察せられよう。

異聞帯側は言うまでもなくアルジュナが唯一の神である。
神将はアルジュナが神の力を分け与えただけだ。
神性を帯びているが神ではないという意味ならカルナやラーマに近い。

そしてジナコとアルジュナも最初から神ではなかった。
どちらも神の力を得ることで神に成った存在なのだ。

しかしながら神になる以前の在り方は正反対。
アルジュナはまさにマハーバーラタを代表する完璧超人であり、ジナコは(才覚は別にして)人間的には引きこもりの残念な娘だ。

ではジナコとアルジュナの接点とは何か……そんなことは言うまでもなくカルナしかない。
ジナコはカルナと強い信頼の絆で結ばれている。
アルジュナとカルナはまさに宿命のライバル。
ジナコとアルジュナはカルナを挟んで神としての対比関係にあるのだ。

一人で完成した神として君臨していたアルジュナに比べて、格はジナコの方が圧倒的に低い。
けれどアルジュナの絶対的な神性を崩したのはジナコだった。

ただしこれはジナコ一人で成したことではない。外殻を作ったのはラクシュミであり、過去へ送ったのはアシュヴァッターマンだ。
そして孤独の時間に心が折れてもがき苦しみ、その度に約束を思い出して少しだけ立ち直り、また地獄をのたうち回る。
無様でも泥臭く、足掻いて足掻いて、ようやく気の遠くなる未来へ辿り着いた。

人の心があったから苦しみ続けて、人の心があったからこそ仲間に支えられてアルジュナでも取り除けない存在となり、インド神合体を上回ったのだ。
後に人と神の合一体として、ウィリアム・テルが最もバランスよくできていたと語れたのも、ジナコがアルジュナに上回った理屈と同じだった。

そして最後にジナコは神の役割を引き継いで世界を眺めて回る。
人を自分ルールで機械的に判断する神は消えて、何も成すこともないが人を人として眺め、最後まで寄り添う神が残った。

神は人と共にあってこその神。
正しく在る神が見守ることで、ようやく正しく輪廻は回り始めた。
たとえすぐ消えてしまう輪だとしても、泡沫の夢で少女が家族に出会えたことには、きっと意味がある。

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第四章はカルナがアルジュナを救う物語

『輪廻』『自己喪失』『神』という四章を形作る要素は、全てアルジュナが起点であり、どれも最終的にはアルジュナへと収束していく。という理屈をこれまで解説してきた。
ではなぜこの因果関係を軸に物語を構築したのか。
これは全体の構成を整理すれば自ずと理解できてくる。

いつも大抵諦めの悪い藤丸立香が、アルジュナの説得については割と早々に諦めている。
またアルジュナを打倒した時には(異聞帯消滅は別問題として)喪失感のようなものもない。
これはアルジュナが完全な別人と化していたためなのだが、同時に人間性を喪失していたためでもある。

第一章アナスタシアにて登場したアステリオスは、一般的視点として皆がイメージする怪物ミノタウロスにむしろ近くなっている。
「藤丸立香と出会わなかったアステリオスはこうなるのか」と感じる人は多いだろう。だから感情移入しやすい。
哪吒については、人格は変わっていても根底にある非人間性的な部分は同じだ。要するに面影がある。

アルジュナはそういった本来あるべき繋がりが全く感じられない存在と化していた。
なんせあのカルナをスルーしており、その姿を立香も目撃している。
その上でペペロンチーノにもはや別人だと言われているので、感覚的な割り切りが生じていた。

一番近い例だとアルトリアと獅子王だ。
アルトリアが神の域に入って別人になったと理解した時の方が、ミノタウロスや哪吒より扱いは近しい。

そもそもオルタというか別側面がジャカポコ増えすぎて、それらを皆同一人物とみなすべきではないという思考が立香には完成している。
これはもうしょうがない。セイバーアルトリアとサンタオルタとXを同一人物として同じように扱えと言う方が無理だ。
つまり同一人物でも中身が別人だと、立香は案外割り切れるのである。

またアルジュナの幕間二で、立香はアルジュナに黒い部分があっていいと諭して、アルジュナは自分の中にある黒を受け入れた。
その黒い部分を不要な邪悪として消し去るアルジュナを、立香がこれも同じアルジュナだと認識するだろうか。
認識するのなら、立香は神のアルジュナが行った所業を『アルジュナだからそうあってもいい』と認めなければならない。

それはカルデアのアルジュナに対して非常に不誠実となる。
ここは別側面として割り切った方がむしろ自然な流れなのだ。

それでも割り切れなかった。そしてどこまでも割り切らなかったのがカルナだった。
最初にシャドウボーダーを庇って消える段階で、ようやくアルジュナはカルナを認識した。
まだ自分に対する執着心が消えてないと理解したカルナは、神となったアルジュナを『もはや別人』と割り切って倒すのではなく、好敵手として自分も同じ高みに立って対抗したのだ。

一度は立香達を蹴散らしてカルデアを些事と判断したけれど、消し去ったはずのカルナが復活してからは完全に『カルナアァァァ!』状態となり、執着心を隠せなくなってきた。
そうしてカルナに敗北して『屈辱』を感じたアルジュナは、初めて自分の中に消せない不要があると気付き、自分が何故完璧を目指したのかルーツを思い出す。

もし、カルナがいなければアルジュナは純粋に別側面として倒されていただろう。
神となったアルジュナは、もはやカリ・ユガを運営するシステムと化して、それをリンボに利用されて世界を回すだけの舞台装置となっていた。

カリ・ユガの盤面が回りながら少しずつ壊れていく描写が入っていたが、これはリンボによる策略で世界崩壊までの道程を示していた。
しかし盤面を完全に破壊したのは世界の崩壊ではない。アルジュナを倒したことが致命打となった。

つまりカルナは敵対者としてアルジュナを理解して、神から人へと引きずり下ろしたことを明示しているのだ。
完璧であろうと暴走して自己喪失していたアルジュナが、最後の最後で己の過ちに気付き自己を取り戻せた。

カルナが倒したのは神ではなくアルジュナという人だ。
『アルジュナ倒す』という行為を悲観する必要はない。
カルナとアルジュナに限って言えば、倒すという行為は宿命のライバル二人が行き着く結果なのだから。

最後の黒き神と化してしまったアルジュナ。
そんな彼が自分は不完全な人間だったと気付き、宿命の相手と決着を付けられたことが何より重要な救いなのだった。

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