大ヒット映画「ジョーカー」の続編として話題を呼んでいる「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」。この作品は、映画ファンの間で激しい議論を巻き起こしています。なぜこの映画がこれほどまでに賛否両論を呼ぶのか。本作を作った真意とは何なのか。その真相に迫ります。
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」が賛否両論を呼ぶ8つの理由
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」は、前作を超える衝撃的な内容で観客を魅了しています。しかし同時に、多くの議論も巻き起こしています。なぜこの映画がこれほどまでに賛否両論を呼ぶのか、その理由を詳しく見ていきましょう。
- 衝撃的なラストシーンが観客の心を揺さぶる
- 前作との物語展開の違いが賛否を分ける
- 法廷劇からジョーカーの側面を切り出していく
- レディー・ガガによるラブストーリーと歌の是非
- アニメーションの使用が物語に新たな層を加える
- ジョーカーがいないの真意
- ジョーカーの正体とは共同幻想
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」は、前作「ジョーカー」の続編として高い期待を集めていました。
しかし、その期待に応えつつも、予想を超える展開で観客を驚かせています。
この映画が賛否両論を呼ぶ最大の理由は、従来のヒーロー映画や続編の枠を超えた大胆な試みにあります。
監督のトッド・フィリップスは、単なるリメイクや前作の焼き直しを避け、新たな角度からジョーカーというキャラクターに迫ろうとしています。
この挑戦的なアプローチが、一部の観客には斬新で魅力的に映る一方で、他の観客には物足りなさや違和感を与えているのです。
以下、この映画が賛否両論を呼ぶ具体的な理由を詳しく見ていきましょう。
衝撃的なラストシーンが観客の心を揺さぶる
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」のラストシーンは、多くの観客に強烈な印象を与えています。
主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)が若い受刑者に刺されて死亡するという衝撃的な展開は、観客の反応を大きく二分しました。
このシーンを支持する人々は、その予想外の展開と、ジョーカーというキャラクターの脆弱性を露呈させた点を評価しています。
彼らは、このエンディングがジョーカーの複雑な内面をより深く描き出していると感じているのです。
一方で、このラストシーンに納得できないという声も多く上がっています。
彼らは、ジョーカーという強力なキャラクターがこのような形で命を落とすことに違和感を覚えているのです。
また、前作で描かれたジョーカーの強さや狂気とのギャップが大きすぎるという指摘もあります。
このラストシーンは、ジョーカーというキャラクターの解釈や、映画全体のトーンに大きな影響を与えており、観客の評価を分ける重要な要素となっています。
前作との物語展開の違いが賛否を分ける
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」の物語展開は、前作「ジョーカー」とは大きく異なっています。
この違いが、観客の評価を二分する要因の一つとなっています。
前作では、アーサーがジョーカーへと変貌していく過程が丁寧に描かれ、そのクライマックスが映画の終盤に置かれていました。
しかし、本作では既にジョーカーとなったアーサーの姿から物語が始まり、その内面の葛藤や社会との軋轢に焦点が当てられています。
この展開の違いを評価する声は、前作のジョーカーとは何だったのか、その本質を探求できたと感じています。
彼らは、既に確立されたキャラクターの内面をより深く掘り下げることで、ジョーカーの複雑さや魅力をさらに引き出せたと考えているのです。
一方で、この展開に物足りなさを感じる観客も少なくありません。
彼らは、前作で味わった「変貌」のドラマ性や緊張感が薄れてしまったと感じているのです。
また、ジョーカーの狂気や破壊性が前作ほど強調されていないことに不満を持つ声もあります。
このように、物語展開の違いは観客の期待と実際の内容のギャップを生み出しており、低評価は主にジョーカーとなった後のアーサーの狂乱を期待していた層でした。
法廷劇からジョーカーの側面を切り出していく
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」に登場する法廷劇のシーンは、観客に新たな視点を提供しています。
この法廷劇は、前作で明かされた「ジョーカーはどのように生まれたのか?」という謎解きの続きとしても機能しており、多くの観客の興味を引いています。
法廷劇を通じて、アーサーの過去や心理状態がより詳細に明かされていきます。
これにより、ジョーカーという複雑なキャラクターの形成過程がより深く理解できるようになっています。
また、法的な観点からジョーカーの行動を検証することで、彼の犯罪性と精神疾患の関係性にも新たな光が当てられています。
この法廷劇の描写を評価する声は、ジョーカーの内面をより多角的に探ることができたと感じています。
彼らは、法的な視点を加えることで、ジョーカーの行動の背景や社会との関係性をより深く考察できたと評価しているのです。
一方で、この法廷劇の部分にやや躍動感が欠けるという指摘もあります。
前作のような動きのある展開や緊迫感のあるシーンが少ないことから、物語のテンポが落ちたと感じる観客もいるのです。
また、法廷を中盤以降の舞台にしたことが、ジョーカーの自由奔放な性格と相反するように感じる声もあります。
このように、法廷劇の描写は新たな謎を投げかけつつも、観客の評価を分ける要素となっているのです。
レディー・ガガによるラブストーリーと歌の是非
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」には、前作にはなかったラブストーリー要素が導入されています。
アーサーとリー(レディー・ガガ)の関係性が描かれることで、ジョーカーという人物の新たな側面が明らかになっています。
このラブストーリー要素の導入は、多くの観客に意外性をもって受け止められました。
ジョーカーというキャラクターに恋愛感情を持たせることで、彼の人間性がより複雑に描かれているのです。
リーには謎めいた雰囲気があり、アーサーにとってはジョーカーだということが黒い影のように付きまとうことになります。
この関係性が、物語に新たな緊張感と深みを与えているのです。
ラブストーリー要素を評価する声は、ジョーカーの人間性をより多面的に描くことができたと感じています。
彼らは、恋愛感情を通じてジョーカーの脆弱性や感情の揺れ動きをより深く理解できたと考えているのです。
また、レディー・ガガの演技力も高く評価されており、彼女の存在が物語に新たな魅力を加えたという意見も多くあります。
一方で、このラブストーリー要素に違和感を覚える観客も少なくありません。
彼らは、ジョーカーというキャラクターの本質的な狂気や破壊性が薄められてしまったと感じているのです。
また、レディー・ガガが演じたことから、ミュージカル仕立てに歌うシーンも随所に散りばめられておりました。
歌自体は評価する一方、これが全体のテンポを悪くしていて、話が中々進まず退屈に感じてしまうケースもあります。
ジョーカーの心情を語る意図もあるため、一つ一つもそれなりに尺を取ってしまうのも原因でしょう。
このように、ラブストーリー要素の導入は、ジョーカーというキャラクターの新たな側面を描き出す一方で、観客の評価を分ける要因ともなっているのです。
アニメーションの使用が物語に新たな層を加える
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」では、物語のプロローグとして短いアニメーションが導入されています。
このアニメーションは、ジョーカーとその影が繰り広げるドタバタ喜劇のエピソードで構成されており、別人格を象徴的に表現しています。
この斬新な試みは、多くの観客の注目を集めています。
アニメーションの使用は、ジョーカーの複雑な内面世界を視覚的に表現する新しい手法として評価されています。
特に、ジョーカーの分裂した人格や、彼の内なる葛藤を象徴的に描き出すことに成功しているという声が多く聞かれます。
また、このアニメーションが実写パートとは異なる雰囲気を醸し出すことで、映画全体に独特の味わいを加えているという評価もあります。
アニメーションの使用を評価する声は、この手法が物語に新たな層を加えたと感じています。
彼らは、視覚的な表現を通じてジョーカーの内面世界をより深く理解できたと考えているのです。
また、この斬新なアプローチが映画全体の芸術性を高めたという意見も多く聞かれます。
一方で、このアニメーションの使用に違和感を覚える観客も存在します。
彼らは、実写映画の中にアニメーションを挿入することで、物語の一貫性が損なわれたと感じているのです。
加えて、アニメーションの表現が過度に象徴的で分かりにくいという指摘もあります。
冒頭にあるため、話が進めばその意図は汲み取れるように作られていますが、そこで何だかわらからないと冷めてしまう人には向いていない演出でしょう。
このように、アニメーションの使用は物語に新たな層を加える一方で、観客の評価を分ける要因ともなっているのです。
主人公の精神疾患の描写が深く掘り下げられている
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」では、主人公アーサーの精神疾患、特に解離性同一障害が深く掘り下げられています。
この描写は、前作で提示された「ジョーカーはどのように生まれたのか?」という問いにさらに踏み込んだ回答を提供しています。
アーサーの精神疾患の描写は、多くの観客に強い印象を与えています。
特に、解離性同一障害という具体的な診断名が提示されたことで、ジョーカーの行動や思考がより理解しやすくなったという声が多く聞かれます。
この精神疾患の描写を評価する声は、ジョーカーというキャラクターの複雑さをより深く理解できたと感じています。
彼らは、精神疾患という視点を通じて、ジョーカーの行動の背景や動機をより明確に把握できたと考えているのです。
加えて、裁判に登場する証人や証言もまた、ジョーカーの精神性を掘り下げています。
例えば、アーサーがジョーカーと化した動機は、自分を侮辱した者や理不尽な暴力に対する怒りや反抗です。
そのため、妄想を膨らませて恋人になっていた相手には、無理やり関係を迫ったり暴力を振るったりはしていません。
自分よりも弱い立場の者を笑うこともしませんでした。むしろその心根の優しい部分を相手に指摘されると、ジョーカーの人格が剥がれ落ちそうになっていました。
一方で、この精神疾患の描写に違和感を覚える観客も存在します。
彼らは、精神疾患という具体的な診断名を与えることで、ジョーカーの神秘性や魅力が損なわれたと感じているのです。
また、精神疾患の描写が過度に強調されすぎているという指摘もあります。
このように、主人公の精神疾患の描写は、ジョーカーというキャラクターの理解を深める一方で、観客の評価を分ける要因ともなっているのです。
ジャーカーがいないの真意
アーサーは当初、ミュージカルシーンでジョーカーは誰の心にもいると歌っていました。
そして、彼の手札から、つまり社会的に不遇な境遇からアーサーの中のジョーカーが表へと出てきました。
だから誰でもジョーカーになり得るけど、僕がジョーカーだという宣言に繋がるのです。
しかし、本作においてアーサーは、ジョーカーとして自主的な行動をほとんど取っていません。
というのも、前作でジョーカーと化していましたが、本作は冒頭からアーサーに戻っています。
ジョークを暫く言っていないという看守の発言から、監獄での厳しい生活を送るうちにジョーカーを維持できなくなっていったことが窺えます。
そんな彼が再びジョーカーに戻ったのはリーの誘導があったためです。
再びジョーカーに戻ったアーサーは、無罪を勝ち取ろうとしていた弁護士を切り捨て、単独での裁判に臨みます。
しかし、ジョーカー信者達からは声援を受けて自由な振る舞いを見せていましたが、監獄に戻ると馬鹿にした看守達から激しい暴行を受けてしまいました。
加えて、獄中でジョーカー信者となり、彼を応援していた青年もそのまま勢い余って看守達の暴行で命を落としてしまいました。
それに耐えられず、アーサーはジョーカーとしての自分を維持できなくなってしまいます。
アーサーは誰にでもあるジョーカーの種が、自分の中で芽吹いたと思っていたのでしょう。
しかし、それは周りから反体制的な悪のカリスマのごとく扱われ、そう思い込んでいただけ。
あるいは、ジョーカーというカリスマを自分の中に維持できる才能はなかったのです。
だからアーサーは自分はジョーカーじゃない(自分の中にその才能はなかった)と悟ったのでした。
ジョーカーの正体とは共同幻想
アーサーから発露したジョーカーとは嘲りと暴力に対する怒りによる一時的な狂乱でした。
しかし、その種はアーサーが歌ったよう、確かに誰の心にもあったのです。
それは前作でアーサーが見えていた、多くのピエロたちが示していました。
そうして多くの民衆達はTVの生中継で狂乱したピエロに、自分たちの中のジョーカーを刺激されました。
つまりアーサーは祭り上げられた扇動者であり、一種のインフルエンサーだったのです。
アーサーの狂気が異常に拡散された結果、本当は存在しないジョーカーの幻想を強く求め出すか、強烈に憎みだしました。
その証拠に、本作のアーサーには主体性がなく、自分ではほとんど何もできていません。
アーサーの本当の姿はジョーカーだと信じて疑わなかったのはリーで、脱獄未遂も彼女の起こした火事が発端です。
裁判所の爆破は過激なファンたちによる犯行で、その後のジョーカーの逃亡も同じく彼らの手引きでした。
そして、ジョーカーの信者たちは誰一人としてアーサー個人を見ていませんでした。
アーサーがリーにキスを求めると、ジョーカーのメイクを強要されます。
面会でも口紅で書いたジョーカーメイクに、アーサーは顔の位置を合わせますが、これもジョーカーを強要する一種の精神誘導でしょう。
アーサーはジョーカーとして目覚めたのではなく、民衆にジョーカーであることを強要されて、やがて本来の自分とのギャップに耐えきれなくなっていったのです。
そしてジョーカーはいないと宣言しても、民衆はなおもアーサーにジョーカーでいることを強要しました。
それが裁判所の爆破であり、受刑者に刺される終わりへと繋がります。
アーサーはアーサー個人として罪を裁かれることすら許されず、ジョーカーとして死ぬことを強要されたのです。
アーサーが本当に望んでいたのは、恋した相手と子供と生きる、多くの人が抱くただただ普通のあたたかな家庭だったのに……。
皮肉なことにジョーカーとしての活躍が少ないと低評価だった人たちこそ、彼に扇動され共同幻想を抱いていたからこその不満と言えるでしょう。
そして、最後の面会とはまだ続きがあるのか、まだジョーカーとしての復活はあり得るのか。そう期待したところへ唐突に終わりを告げる刃が突き立てられたのです。
これはジョーカーに扇動され、共同幻想を抱いた者たちの目を覚ますための物語でもありました。
結論:「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」は挑戦的な作品
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」は、前作の成功を踏まえつつも、大胆な新しい試みに挑戦した作品だと言えるでしょう。
この映画は、ジョーカーというキャラクターの新たな側面を探求し、観客に新鮮な体験を提供することに成功しています。
しかし同時に、その斬新なアプローチが観客の評価を大きく二分する結果となっています。
この賛否両論は、映画の価値を損なうものではなく、むしろ作品の深さと複雑さを示すものだと考えられます。
「ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ」は、観る人それぞれの解釈や感じ方によって異なる魅力を持つ、挑戦的な作品なのです。
この映画は、単なるエンターテインメントを超えて、観客に深い思考と感情の揺さぶりを与える力を持っているのは間違いありません。