どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

皆さんにとって仮面ライダーとは何でしょうか?
私にとって、仮面ライダーとは年代によって意味を変えてきます。

なんせ、私の子供時代には仮面ライダーとは基本的に過去のコンテンツでした。
特撮冬の時代とも呼ばれた私の子供時代には、仮面ライダーもウルトラマンも新作が途切れていた時期になります。

あったとしても真~JはVシネマや劇場版であり、幼い子供にとってTVシリーズとは作品の触れやすさは天地程の差がありました。
かつての私にとって仮面ライダーとは再放送やレンタルビデオ屋で触れる古い作品という位置付けだったのは間違いありません。

そのため仮面ライダークウガが始まった時は、興味はあれど年齢的にも仮面ライダーは卒業していました。
(当時の私はクウガに触れなかった故に、昭和ライダーのイメージが抜けていなかった)

その状況がひっくり返ったのが龍騎で、以後私の時間はほとんど仮面ライダーと共にありました。
仮面ライダー氷河期な子供時代だったのに、人生単位で見ると仮面ライダーと歩んでいた時間の方が長くなっていたのです。

毎週、毎年、存在し続けるのが当たり前。
内側を覗くとそこには制作スタッフさんがたのたゆまぬ努力や紆余曲折がありましたが、視聴者としてみるとやはり日常の一部となって存在し続けていました。

ゼロワンで初めてそれが崩れました。
理由は言わずもがなコロナ禍によるものです。

最初は二話分の発表があった総集編。
けれど、来週、また来週も……と続いていく。
いつまで続くのか。そもそも本当に再開できるのか。
再開できたところで物語をまともに畳めるだけの話数が残っているのか……。

二十年以上も仮面ライダーが続いてきたのは、決して当たり前のことではないんだという実感がありました。
だからこそ、考察を始める前に製作者の皆様に心からの感謝を述べたいです。
コロナ禍の中でも決して妥協せず諦めず、立派な作品を生み出し、そしてきちんと完結させてくださり、本当にありがとうございました。

そして、コロナは尺の問題だけでなくゼロワンの物語自体にも大きな影響を与えました
それはどういう影響だったのか。
全体の物語と共に語り、ゼロワンの本質と、それが何処に行き着いたのかを語りたいと思います。

綿密に描かれた『高度なAIのある生活』

人型AIかどうかはさておくとしても、高度AI社会はいずれ必ず訪れる未来だ。
これはゼロワン感想で何度も語ってきたが、正統派SF作品とは一定のルールを与えた未来のシミュレーションである。

番組を見る子供達に向けて、いずれくるAIの進化が社会にどのような影響を与えるか。大人が本気で、かつなるべくわかりやすく解説した。それがお仕事紹介なのである。
大人に向け視点ではいずれくる未来だからこそ、AI社会の可能性や問題とは何か、そしてどう向き合っていくべきかを問う作品だった。

ゼロワンの物語は途中に挟まれた総集編を除き、大きく分けて四つのパートに分けられる。

  • 滅亡迅雷.net編
  • ZAIA編
  • 飛電製作所編
  • アーク編

この四章構成では、それぞれに明確なテーマ性と話の流れがある。
滅亡迅雷.net編ではヒューマギアという概念の紹介を軸として、高度な人型AIが与える影響を描いていた。
様々な懸念はあるとしても、ヒューマギアは人々の生活に役立つ夢のマシンである。

そういう『ヒューマギアのある生活』の中で、徐々にヒューマギアに自我が芽生え始める。
その自我を起点として滅亡迅雷.netという、ヒューマギアを暴走させるテロリスト集団が現れた。
しかも、その滅亡迅雷達もまたヒューマギアだったのだ。

滅亡迅雷.net編はヒューマギアが人間社会に与える影響。そして暴走したヒューマギアと人類との戦いの物語だった。

ZAIA編の要は言わずもがなお仕事五番勝負だ。
過去の記事で二度に渡り考察したが、お仕事五番勝負の物語構造はかなり複雑で難解だ。
これはTTFCでの記事で大森Pも反省点として挙げている。

ネットでは尺取ってダラダラやり過ぎという声も多いが、むしろ様々な要素を入れ込み過ぎて消化不良を起こした結果だろう。
その上でZAIA編は、大きく分類すると二つに分けられる。

  • 人類とヒューマギアの本来の機能性で競い合い
  • 人間の悪意が起こす問題

(亡をキーにした迅雷滅亡等の要素も勿論あるが、ここでは一旦置いておく)

ヒューマギアには心が芽生えることでの暴走、人類の雇用を奪うなど様々な問題が発生する。
そんな存在が本当に必要なのか。
ヒューマギアの限界と可能性を問う意味でも、人間との真っ当な競い合いは必要だろう。

実際、お仕事勝負の中でもその両方を上手く描けていた消防士編は評価が高かった。
他の勝負も、基本的には同様の流れが多い。

シンギュラリティに至り、人に寄り添うことで限界を超えた性能を発揮する。
これは或人が願う『人類のパートナー』の形の一つとも言えるだろう。

だが、ZAIA編においてこの要素はかなりわかりにくくなっている。
もう一つの要素、人間の悪意が物語に与える影響が大き過ぎたためだ。

視聴者は全体的にヒューマギアへかなり感情移入している。
そのためヒューマギアの可能性より「可哀想」「なんで朝から嫌なもの見せられなければならないのか」という考えが先に立つ。
物語にかかってくるストレスの大きさで善し悪しを判断するタイプには、かなり嫌われる作品となった。
だが、ストレスかかる作品は嫌だで終わってしまうと、何故あえて人間の悪意をテーマとしたのかを見落としてしまう。

道具とは便利である程、必ず使う側のモラルが求められる。
ネット社会になりYoutuberが一躍脚光を浴びるようになった。
趣味や楽しいを仕事にできるという反面、チャンネル登録者や再生数を求めてわざと危険な行為に走ったり、他人に迷惑をかけたりして目立とうとする者が現れる。

SNSでは匿名で好きなことが言えるため、有名人に対して直接的に誹謗中傷を行う者が出てきて、自殺にまで追い込んだと思われる事件が実際に起きた。
それでも誹謗中傷がなくなることはない。

ヒューマギアはとても新しい技術かつ便利な存在で法整備も整いきっていない。
また、本物の人間ではない道具でありながら自我のある存在となれば、ネット社会と同じように完全な線引きも難しくなる部分が多く出てくるだろう。
そういう存在に対しては、より人間としての良識が求められる。

そしてゼロワン世界にとって悪意の象徴が、ZAIAの天津垓なのだ。
本来複雑なAIを製作するならセキュリティは厳重にして、人に危害を加える可能性は潰す。
そのプロテクトを破壊できるのはAIではなく、やはり人間なのだ。
アークの暴走原因が天津なのは、テクノロジーは扱う者次第であることを如実に示している。

更に天津の扱うもう一つの悪意レイドライザーで、ヒューマギアに悪意を持つ者をレイダー化させマギアとの対立構造を深めていく。
天津が黒幕であることも、レイドライザー自体もそれ単体ではさして視聴者のストレスにはならなかったろう。

問題はお仕事勝負に直接レイドライザーを絡めてしまったことだ。
ヒューマギアの対立者が極端に悪意を持っている。
しかも同時にマギア化が無線接続になったことで、ヒューマギアの危険性が飛躍的に上昇した。
ヒューマギアは自分の意思でいつ暴走するかもしれない存在になってしまった。

これらのせいで、本来はAIの可能性を追求するアンドロイドVS人間の構図が『いつ暴走してもおかしくないAI VS 人間のクズ』となったのだ。
しかも物語の展開上、悪意ある人間の側が優位で勝利する。
むしろ最初から悪人ではなかった検事や消防士が敗北していた。

また人間の悪意から生まれたメタルクラスタホッパーが、ヒューマギア達の善意で制御可能になる流れも、善意と悪意に偏りか出てしまう要因の一つとなった。
俳優編で不憫な扱いだったエンジなどが活躍できて、単体の物語としては面白かったのが非常に惜しい。

AIのテーマ性は丁寧に扱っても難しくなってしまう。そこへ表面上のわかりやすい部分に、ストレスのかかる展開を多くしてしまった。
作品の魅力が伝わりにくくなってしまったのがZAIA編の構成ミスだ。

逆に言えばこの手の、ストレス部分も『物語』として楽しめるタイプの人間にはゼロワンはAIとアンドロイドの存在を深堀して語ってくれるとても楽しい作品だった。

Twitterでは、ゼロワンがお仕事5番勝負で一度批判されると、後の展開でもことあるごとに『だからゼロワンはつまらない』と言ったツイートがでるようになった。
これは個人の感想であるため批判するべきものではないだろう。けれど、中にはかなり口汚く罵り誹謗中傷する人も一定数いた。

コロナで総集編が決まると、お仕事勝負編があったから尺が足りなくてまとまらなくなったと言う者も、実際に何人か目に入った。
(探したわけでもなく目に入っただけなので、確実に他にもいただろう)
しごく当たり前だが、コロナ禍なんて不測の事態を計算して物語作りをしているはずもなく、二つは完全に別問題だ。
お仕事勝負編を殴るための手頃な道具としてコロナを使っている。

特に酷いのは、天津を演じている桜木那智氏のTwitterアカウントに天津を批判するリプライする者も出て炎上騒ぎになっていた。
まさにチェケラが見たら滅びろと怒る醜い人間達の姿だろう。

これらを元に、人を傷付けるTwitterはこの世界に不要と断言するなら、「そんなことはない! Twitterは自由に人と繋がり交流ができる素晴らしいツールなんだ! 悪いのは悪意ある人間なんだ!」と叫ぶTwitter愛用者葉必ず現れるだろう。

この思想こそ飛電或人の姿勢そのものであり、ヒューマギアと悪意の関係がただの絵空事ではない証明なのだ。

世界の話から個人の夢へ

ZAIA編で飛電インテリジェンスは敗北してヒューマギアは破棄処分。或人は社長ではなくなりドン底まで落ちた。
ヒューマギアを完全否定された状態からの再起が飛電製作所編である。

飛電インテリジェンスでは完全に流れで社長になったが、飛電製作所の立ち上げはイズのファインプレーではありつつも、或人自身も望んでいた展開だった。
或人はヒューマギアを社員として大切に扱い、社員を守る社長というポジションだ。
天津は人間を道具のように扱う外道であり、二重の意味で対象的な構造を、ZAIA編から構築していた。

飛電製作所編ではこれをもう一歩進めた。
ヒューマギアの暴走は、悪意からのストレスで引き起こされる。
或人はヒューマギアの意思を認めて、自ら望む未来を選べるように働きかけた。

二代目Gペン太郎は漫画アシスタントとして生まれたが、持ち主が次なる飛躍を望んだ。
漫画アシスタントから漫画家へ……。
Gペン太郎からすれば、より直接多くの人を楽しませることができるかもしれない。

人が夢を叶えるためヒューマギアをパートナーとするように、ヒューマギアも夢を見ていい。
プログラムされた機能を活かして、プログラムされていないもっと広い世界へ羽ばたいていった。

ヒューマギアが安心して働ける職場環境を作ることを、暴走対策の答えとした。
暴走は世界規模の問題だが、解決するための手段はまず個の意識を変えていくことなのだ。

人類からヒューマギアの開放を願っていた迅も、或人の考えに賛同するようになった。
根本的に迅は使命感からシンギュラリティを迎ていない特殊な存在だった。

あくまで親である滅を継ぐため。そして自我を得た以後は自分なりに人類滅亡とヒューマギア=友達を見つめ直したのだろうと思う。
その答えが人類からのヒューマギア開放だった。

ヒューマギアは皆自由に生きるべき。
けれどシンギュラリティを迎える前のヒューマギアには選択できるだけの個がなく、人間が存在するからヒューマギアは自我を得られる。

その事実に直面した上で、迅は『飛電或人ならヒューマギアと人類が共存できる未来を作れるかもしれない』と考えたのだ。何故なら、その思想こそが或人の夢そのものだから。
或人が夢を諦めず走り続ければ、ヒューマギアが自由に生きられる可能性に繋がる。

そして飛電製作所編でのもう一つの要素が天津1000%フルボッコタイムである。

フルボッコそのものはZAIA編ラストから始まるが、本当にほとんど毎週倒されていく。

不破→或人→迅→亡→唯阿→滅

六連続で新しく別の誰かが混ざってるぞ! 皆で焼きマシュマロを作ろう。

このやり過ぎなまでにボコられた理由は、お仕事勝負で溜まった視聴者のストレス解消だったとは明言されている。
個人的にはこれこそ尺の使い過ぎだよと思う。

或人や不破はわかる。唯阿の過剰演出は背負わされていた重圧や理不尽さを鑑みればむしろバランスが取れていると思う。
裏で随分手酷い扱い受けていた亡も、まあ理解できる。これだけで既に四名なんだからもういいじゃない!
皆が手と手を取り合うためのアイコンみたいになってるよ……。

そうしてもはや殴ってないのが復活したばかりの雷ぐらいしかいないってところで総集編へと入ったのだ。

悪意に対するたった一つの攻略法

大森P曰く、コロナによる撮影停止が入ったことでゼロワンのラストは大きな見直しと変更が入った。
少なくとも、コロナがなければ確実に別の結末であったと語っている。

最も悔やまれたことは、物語終盤近くで撮影が止まったため、キャラの掘り下げができなくなったことだ。
ライダーになるキャラだけでも八名だ。
残り話数にはゼロツー登場やアークとの決着が必要不可欠だったことからも、全員を掘り下げて描くことはもはや不可能だった。

亡と雷は目に見えて出番が少ない。
雷はアーク破壊という活躍があったものの、全体のイベント量と流れの早さからあまり目立っていなかった。
仮面ライダー亡も45才児の面白リアクションに全部持っていかれたまま、大きな活躍がなかったのはあまりに悲しい。
ZAIAパンツに挨拶するのが唯一にして最大の見所……!

メイン回が用意された天津ですら、仲間になる流れに違和感なく納得ができた視聴者はそう多くないだろう。
行動で示すため色々と頑張ってはいたのだが、活躍内容が有能だけど地味だった。

けれど誰より不遇なのは唯阿だろう。
ゼロワン開始前は初のメインライダーに女性が参戦とかなり脚光を浴びる存在だった。

それがまさか序盤の派生キーが唯一にして最後の強化で打ち止め。
全体を通して二号と三号ライダーに天と地程に格差がありすぎる。
迅と滅も終盤にかけて相応の出番があったため、OP並びの五人の中でも一人だけあまりに扱いが……いや、ホントにどうしてこうなったの……。
せめてVシネマは、仮面ライダーバルキリーで唯阿にメインスポットを当ててあげてください。

全体の展開も滅亡迅雷.net編の終盤並の駆け足展開で、話の流れは良いのに心が震えるってところまでには届かない。
どうしても惜しさがつきまとう展開が連続していた。
致し方ないことは重々承知の上で、失われた話数がどれだけ大きかったかをありありと感じてしまうのだ。

元々ゼロワンが令和一号であっても、平成仮面ライダーと地続きであるため大きな変化はないとした上で、これまでとは違うものを作りたいという意思が大森Pにはあった。
良くも悪くも仮面ライダーは、平成二期に入って以降安定路線に入っている。
そこからの脱却を目指していたようだ。

コロナ云々よりも前に却下された案として、人類が滅亡する展開もあったらしい。
ファイズのパラダイス・ロストをTV本編でやろうとするのは、中々にチャレンジャーであると思う。
ゼロワン劇場版が延期になる前は、その残り香として人類滅亡を予感させるイメージ画があった。

お仕事勝負やイズ爆発のように、ゼロワンにおける大森Pは視聴者の精神ダメージ覚悟の展開を出してきている。
最終フォームのゼロツーもいつものような『集大成』的な最終形ではなく、もっと純粋なバージョンアップだ。
Wiiから新規にSwitch出すような、まさに新製品を出す形式にした。
ゼロツーの最終フォームっぽくなさも発表時は結構な賛否両論だった。

大森Pのやりかった新しいこととは、結果として平成一期のような衝撃を生み出したかったのではないかと思うのだ。
賛否両論になったとしても、そうくるとは思わなかったという勢いで走り、そのまま突き抜ける作品を目指したかったのかなと。
結果として辿り着いた結末は、そういった方向性とは異なる、コロナにぶつかった今の日本がどうすべきかも意識した着地点になったように思う。

それが人とヒューマギアが手を取り合い悪意を打ち破ることだった。
アークは一つの大きな悪意の塊である。わかりやすい『悪』そのものだ。
皆で協力して大きな悪を打ち破る。それはとても王道でわかりやすい展開と言えるだろう。

けれど、それはこれまでの仮面ライダーで何度も示してきた展開であり、新しいというより完全にただいつも通りであるだけだ。
悪意の塊が仮面ライダーアークゼロとして或人の前に立ちはだかる。

衛生ゼアも破壊され、飛電インテリジェンスの技術力ではもう立ち向かう術もない。
悪意の集合であるアークは人類だけでなくヒューマギアすらも不要として全てを滅ぼそうとする。

それに対して或人は今の自分だから生み出せる『新しいゼロワン』を企画・製作を目指した。
イズのシンギュラリティと協力を得て、生み出されたゼロツーが打ち倒す。
ヒューマギア達が人類滅亡を食い止め人々を救い、滅亡迅雷.net達もアークの破壊に協力した。
ここでも十分に最終回と呼べる展開ではあったろう。

だが滅はそれでも人類との共存を受け入れなかった。
アークの裏切りに遭い、自分の行為を過ちだったとするのではなく、アークではなく自分の意思で人類滅亡を宣言する。
それがどれだけ歪んでいようと、人類の悪意をラーニングした結果、滅が個人として辿り着いた結論なのだ。

対してイズは単身滅を説得しようとする。
ヒューマギアの善悪はラーニングで変わる。ならばイズは或人から善意をラーニングしてきた、誰よりも人間に、或人に寄り添うヒューマギアだ。

故に偏った悪意ではなく、或人から人間の善意をラーニングしようと滅に言葉を投げかける。
ラーニングで己の個性と自我が決まるならば、ヒューマギアにとってイズの提案は『今の自分を否定して上書きし直せ』と言うのと同じだ。
それは残酷さの上に成り立つ正しさだった。

かつての滅ならまともに取り合うことなく真っ向から否定して終わる話だったろう。
だが、そもそも自分の意志で人類滅亡を選んだ以上、滅には選択する自我がもう備わっている。

自分で考えられる意思と感情が滅にはあるのだ。
考えるから迷う。
考えるから揺れる。
己のやろうとしていることを、正論での自己否定という形で抉られた。
そうして普段ならあり得ない誤作動のような感情の波が、イズを破壊した。してしまった。

そしてイズを失った或人に悪意アークが宿った。
許さない。許せない。許してなるものか。
悪意が悪意を呼び連鎖する。

最終回を目前にしてヒロインの死亡と主人公の悪堕ち。
これが人類滅亡とは異なる衝撃としてぶっ込んできた展開だった。

イズを壊され悪意に染まった或人が、今度は滅の前で迅を破壊した。
両者からは誇りと理念が失われ、憎悪の感情だけで争う。
どちらが勝利しても、それは更に大きな憎悪を生み争いを加速させる。

そう思っていた。
少なくともアズとアークの計算は。

だが、或人はそれでも前に進んだ。
怒り。それは時に悪意を呼び込む。
だが、怒りそのものは悪ではない。

かつての或人は其雄を失いただ泣くことしかできなかった。
だが、今の或人はイズを失い泣くだけでなく怒ることができる。

怒りとは無念や理不尽に対する反発。
それは力を得たからこその成長であると其雄が語ったのだ。

だが、その上でどうするか。
怒りを悪意に変えないために、『怒りの先』へと向かわねばならない。

或人の選択は、同じ痛みを持った滅に自分を止めてもらうことだった。
殺し合うのではなく、滅の怒りを受け止める。

そうして、滅は学んだのだ。
息子を失った自分の怒りを認めることで、相棒を失った或人の痛みを理解した。

イズの願ったこと。或人から善意のラーニング。
或人はイズが最期に遺した想いを引き継ぎ完結させた。
だからこそ、或人はリアライジングホッパーに、もう一度イズと一つになれたのではないだろうか。

或人とイズなら、そこはゼロツーの出番では? そう思う人もいるだろう。

滅が或人を止めて、
或人が滅を止める。

それは許し合うこと。
互いの意思を尊重すること。

この『互い』は或人と滅だけでなく、人間とヒューマギアという意味も含まれている。

仮面ライダーゼロツーはゼロワンにおける最強の姿ではある。
だがこれは或人とイズ、人間とヒューマギアの善意が一つになった、一歩先へ進んだ存在だ。

今この時に限って、或人はヒューマギアの側に立ってはいけない。
滅がヒューマギアを守る仮面ライダーであるのなら、或人は人間を守る仮面ライダーでなくてはならない。
だからこその『ゼロワン』なのだ。

アークが遺した悪意を打ち倒すたった一つの方法。
それは『許す』ことだった。

苦しい時、悲しい時、怒っている時、
人は心に余裕がなくなり、普段なら許せることでも許容できなくなってしまう。

辛いのだから怒っていい。
自分を守るための行為として、それは正しい。

だが、相手も辛いなら?
皆が等しく辛くて苦しいなら?

互いに辛くて許容できない状態では、互いに怒りを募らせ、わかってもらえないことが憎しみへと変わる。

許すこと。
相手の気持ちを理解して尊重すること。
互いにそれができれば、憎しみはなくなる。

或人はずっと、人とヒューマギアの間で、互いが手を取り合う夢を追い続けてきた。
それは社会と悪意が押し潰そうとしてくる茨の道。
悩み、苦しみ続けたからこそ、或人は跳べたのだ――怒りを越えた先にある夢へと。

ゼロワンにおける仮面ライダーとは何だったのか

或人と滅がそれぞれの側に立つ仮面ライダーとなったように、最終話では言葉でもやたらと仮面ライダーが強調された。

事故にあった人をゴリライズで鍛えた腕力によって扉を破壊して救助した不破は仮面ライダーを名乗った。
暴走するヒューマギア達や悪意を振り撒く者達と戦い、人々を救ってきた仮面ライダーこそが不破の夢そのものだ。

というか飛電製作所がなくなり、用心棒をする理由もなくなった不破は、AIMSに戻った様子もなく状況的に見て現在無職なのでは?
もはやへも帰れぬゴリラは仮面ライダーを名乗っている不審者……。

ええと、たとえ寄る辺がなくなっても、彼はもはや在り方そのものが仮面ライダーなのだ!
夢オチだったけどお仕事紹介の総集編があったせいで、不破の未来が暗闇としか思えない!

唯阿はAIMSへと戻り、本人の意思を尊重して亡を技術顧問として雇い入れた。
人間のような道具であった唯阿は、もうヒューマギアを道具として見ていない。
道具のような道具だった亡は、自分の意思を持ち誰かを助けるエンジニアの道を歩む。
どちらも自分の意思を持って、誰かの意思を守る仮面ライダーとなった。

天津もまた、立場への拘りを捨てサウザー課の課長として日々を生きる。
そこにいるのはかつて自分が捨てて否定したAIの友達。
自分はZAIAスペックを用いて1000%の力を引き出し、さうざー達を統括する。

一見するとギャグだが、というかどう見ても狙ってやってるとしか思えないが、実はこれも或人が抱いた理想の一つだろうと私は思う。
さうざー達が人間を越えたスペックで日々活躍し、天津はZAIAスペックによって人間を越えた処理能力を得てこれらを統括・管理する。

元々優秀な天津なら、それこそさうざー達の性能を1000%引き上げることだってできるかもしれない。
消防士編で見せた人間とヒューマギアの連携を更に進めたような在り方だ。
誤った道を正してくれるAIを友とし、天津は仮面ライダーの力で罪滅ぼしを為していくのだろう。

滅と迅はヒューマギアに害をなす悪意が生まれないよう見張る役割を選んだ。
彼らはまさにヒューマギアを守るための仮面ライダー。

そして或人は飛電インテリジェンスの社長に戻って夢を追う。
人間とヒューマギアが共に手を取り良きパートナーになれる世界を目指して。
これからも仮面ライダーゼロワンで在り続けるのだ。

元々、ゼロワンでも仮面ライダーという単語はちょくちょく出ていた。
序盤からショットライザーは変身時に仮面ライダーを連呼する。
天津はかつて新時代の神話、『仮面ライダーの神話』という言葉を使った。
それはアークを使ったマッチポンプによる仮面ライダー兵器化計画だったが、今の状況はどうだろう。

或人の夢は未だ実現したとは言い難い。まだまだ多くの困難と課題が残っている。
人間には善意もあれば悪意もある。
人が悪意に傾けば、ヒューマギア達はその悪意をラーニングして、また人々に害をなすかもしれない。

ヒューマギアは本当に夢のマシンとして人は使いこなせるのか。
逆に悪意を捨てられない人間のパートナーであることが、ヒューマギアにとって本当に幸せなのか。

その答えはこれから探していくべきこと。
絶対的な正しさなんてなく、AI社会の未来は0と1だけでは語れない。

だからこそ、仮面ライダーは必要なのだ。
ゼロワン世界で仮面ライダーを生み出し名付けたのは飛電其雄だ。
彼は息子である或人とヒューマギアが笑顔で生きられる世界を強く望み、仮面ライダーを作り出した。

これまでの仮面ライダーは『人間の自由と平和』を守る存在だった。
最初の令和ライダーとして生まれたゼロワンは、人間とヒューマギアが共存する社会を望んだ。

新たな時代を仮面ライダー達が守る未来。
それこそまさに新しい仮面ライダー神話なのだ。