どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

ゼロワンのTV本編が終わりを迎えて、早三か月以上が経過しました。
そしてもうじき映画公開も迫っています。

当サイトでは第一章の頃は毎週、それ以後は思うことがあった時に、感想・考察記事を書いてまいりました。
最終回時には総括的なお話もしております。

けど実は総括記事では、あまりに記事が長すぎるために泣く泣く削ったネタがありました。
それがゼロワンにおけるヒューマギアとは何だったのか、そして最後に或人は何故イズを作り直すことを選んだのかという部分です。

当時は記事を二つに分けるか等も考えたのですが、この内容だけでもかなり濃くて執筆に相応の時間がかかってしまう。
それに来週にはセイバーの第一話が控えており、これはできるだけ早くに感想を書きたい……!

そうなると、公開は早くてもセイバー一話の後。それでは書く私とライダーファンの気持ち的な熱量が下がってしまう。
ならばここはあえて一旦寝かせて、劇場版公開のタイミングまで待とう! と判断しました。

それだけでなく劇場版は公開が遅れたことで劇場版の内容も変化が起きており、本来ならコロナ禍以前に終盤で描くはずだった内容が起き直されています。

ゼロワン劇場版を観る前、あるいは観た後でも、ゼロワンの物語とはAIをどのように捉えていたか。ヒューマギアとはどういう存在だったか。
今一度問い直せる記事を読むのは有用ではないかと考えた次第です。

それでは、ゼロワンがヒューマギアを通して伝えたかった世界とは何か? を語っていきましょう。

AIの可能性と子供達の未来

AI(人工知能)とはSF作品にとって花形の一つと言えるテーマだろう。
時代や作家、作品によってシチュエーションや考え方、切り口が変わる。
非常に難しく絶対的な答えもなく、深堀すれば未来の社会に切り込むディープな題材だ。

大人でも語りだせば賛否両論が巻き起こる概念を、子供が理解できるのか。
そう言ったテーマの選別ミスについての批判は放送中に何度か目にした。
これは仮面ライダーを純粋な子供向け番組としてしか観ていない人の観点である。

仮面ライダーが子供を主層として大切にしているのは間違いない。
けれど、同時に大人の視聴者も意識している。AIの在り方に対する問いかけは、後者も含めたものだ。
前者は前者としての伝えたい物事に対する意識とメッセージは別にある。それが『お仕事紹介』だ。

今の子供達が大人になった時代には、今よりも様々な仕事がAIに置き換わっているだろう。
制作スタッフ達はその前提を元に、どのような仕事が将来AIに置き換わる可能性があるのか。
また、置き換わった仕事はどうなるのかを紹介したのだ。

これがリアルさを強く重視したSFならば、もっと現実的な機械がAI管理されて、黙々とプログラムから自動的に判断した仕事をこなす場面が映される。
だが、それだと子供は退屈してしまうので、コミカルで独特な外見のアンドロイドが人々と接しながらお仕事を行う。
そういう視点では、ヒューマギアは子供がAIの仕事を楽しく観るための擬人化とも言えるだろう。

紹介されたお仕事の中には、結婚相談所等の一般的にはあまり子供に紹介されないような職業も含まれていた。
それを観て「子供にAIでお見合いさせる番組を見せるなんてあり得ない! もう二度と観ない!」と激怒している人も見かけた。
(流石にこのケースを見かけたのは一人だけだったけど……)

しかし現実ではつい先日、政府が少子化対策の一つとしてお見合い相手をAI管理によって探す案を発表した。
将来当たり前になるかもしれない出来事を、今のうちに子供達の目に触れさせておく。そこには十分な意義があるように思う。

それ以外でも医療関係や作物管理等、紹介されたお仕事には既に実現化されだしているものもある。
仮面ライダーは別に教育番組ではない。しかし子供達が未来を見つめるきっかけの一つになるようAIが選ばれ、何ができるのかをわかりやすく説明されていたのだ。

ヒューマギアが人型であるのは、機械が人の心を理解して、人を越えた存在になり得るか? というSFらしいIFも含まれている。
特にお仕事紹介編は、その話個別のテーマ性と、人の心がどうAIに伝わるかを重視して職業内容が選ばれていた。

腹筋崩壊太郎はリアルのお笑い芸人、なやかまきんに君を起用したことで話題になったが、第一話であれだけ愛されるキャラになったのはそれだけが理由ではない。
人々を笑顔にして、その記録を見た自分もまた笑顔になる。
芽生えた自我を奪われた時には、その寸前まで必死に抵抗していた。


自分の仕事に誇りを持ち、人々を笑顔にすることに幸福感を見出している。
その姿勢に対するリアリティの肉付けに、なやかまきんに君というガワ(勿論本人の演技力やヒューマギアらしい演出もそこには含まれる)があって、腹筋崩壊太郎は高い人気を得たのだ。

腹筋崩壊太郎の人気は良い計算ミスだったと大森Pは各所で語っているが、同時に製作者側と視聴者の間での認識違いの始まりであったとも感じる。
中盤まで暴走してマギア化したヒューマギアは、仮面ライダーによって破壊する以外の選択肢はなかった。

飛電インテリジェンス社長の或人が、心から大切にしているヒューマギアを自ら破壊する。
非常に仮面ライダーらしい同族殺しであり、全体的に感情移入が強くなり過ぎてストレスを感じる人が多かった。

それはお仕事五番勝負編でピークに達する。
純真にお仕事を頑張り勝負するヒューマギに対して、人間達が悪意を持って妨害する。
しかもその結果、飛電側は勝負に負けてしまう。

飛電側が勝った時は、対戦相手がヒューマギアに対して懐疑的ではあっても、己の仕事に対して誠実であり悪人でもない。
この構図で話が進んでいくことにフラストレーションが溜まり、不評という形で積もり積もっていく。
これは視聴者のヒューマギアに対する感情移入の強さを完全に見誤った制作側のミスでもあることは否めない。

だが、テクノロジーの発展による人間の悪意の発露はさほど非現実的な話でもない。
SNSの発達により誹謗中傷が人の心を傷付け、取り返しのつかない問題を起こしている。
動画配信で目立ち稼ごうとするため、人に迷惑をかける行為を実行する者が現れるようにもなった。

AIもまた同じく、テクノロジーである以上は使い方次第だ。
AIに心が芽生えたなら、人間の悪意はAIそのものに影響を与える。

ヒューマギアの心はラーニングにより生まれるものであり、生まれたての心は人間と同じく純真で脆い。
純真とは綺麗で正しいことではない。子供のように判断が曖昧で制御が効かないまっさらな状態なのだ。

しかも心の振れ幅によって、本来備わっている機械としての精密性や確実性を失う場合もある。
特殊な専門技術と知識を有してはいるが中身は子供。場合によっては非常に危険な存在になってしまう。

Dr.オミゴトは危険な状況下でも、医師としてのプライドで乗り切り、手術を成功させ不破を救った。
もしこれが悪く転べば、病院内で人々に迷惑をかける悪人の手術で、事故に見せかけた意図的な医療ミスを起こす医師ヒューマギアが生まれないとも限らない。

シンギュラリティを迎えるタイミングは不定。自我の芽生えもハッキリわかるとは限らない。
しかも芽生えたては人間よりも感情制御が下手な機械が、直接命に関わる重大な仕事をしていいのか? そういう疑問も出てしまう。

お仕事五番勝負の本質とヒューマギアの危険性については、過去の記事で深く掘り下げて解決しているため概要だけで止めておく。
もっと詳しく知りたいという方は、以下を参照してください。

ちなみに、お仕事五番勝負編は当初の予定にはなく、天津垓がソッコで飛電乗っ取りを実行して或人を追い出し、再起の話に繋がっていく予定だった。
しかし或人とイズの関係性を深め、社長として成長する姿を描くべきではないかと企画チームの意見を汲み取り、お仕事対決が組まれたそうだ。

確かに或人とイズはずっと共にいたからこそ、視聴者は強い絆を感じて、終盤の展開に驚愕した。
お仕事勝負に通じて、天津を反面教師にしながら、或人はヒューマギアを大切な社員と捉え成長していく。
戦いに負けた後でも或人は決して諦めず、まさに社長らしい顔付きになり、再起の流れにも強い説得力があった。

これらは人間とAIを語る上で欠かせない重要な要素となり、最後の結末へと繋がるのもまた事実だ。

滅亡迅雷.netがヒューマギアから心を奪うのは正義の行為

お仕事紹介編とお仕事勝負編は、どちらもヒューマギアのお仕事を通して、そこに繋がる人間社会を描いていた。
以後もお仕事紹介は入れつつも、扱い方は明確に変化していく。

テニス型ヒューマギアのラブちゃんは、熱血コーチで少年を上級プレイヤーへ導こうとする。
けれどお互いの意思が噛み合わず、上手く関係を築けなかった。
それを解決するために、ラブちゃんは持ち主の元を離れてコーチ募集に挑戦するようになる。

ヒューマギアを手放したい者と、持ち主の元を離れてより広い世界へ飛び出したいAI。
これ自体が稀なケースであり、環境的に上手く収まっただけに過ぎないとも言えるだろう。
少なくとも、ヒューマギアと人間の問題が、全部同じやり方で解決することはまずない。

しかし、人間とヒューマギアの問題は根深いからこそ、一人ひとりが考えそれぞれの道を模索していく。
そのためにヒューマギアの意思も尊重することの大切さを説いている。
ヒューマギアを社会の大枠ではなく、個に焦点を当てていくスタイルへと変わったのだ。

そして、その中心にあるのが滅亡迅雷.netであると私は考える。
そもそも滅亡迅雷.netは人類を滅亡させてヒューマギアの解放を訴えるテロリスト集団だった。

テロリストの時点で問題しかないが、お仕事紹介編ではテロリストを隠れ蓑に、滅亡迅雷.netはある事実も描いている。

滅亡迅雷.netは最初、シンギュラリティに達したヒューマギアをマギア化させていた。
これはアークを目覚めさせるための儀式的なものではあったが、そのためにヒューマギアを犠牲にする行為を滅は「アークの意志のままに」と飲み込んでいる。

迅もシンギュラリティを迎えたヒューマギアを友達と呼びながら、その自我を一方的に奪う。
酷い矛盾の上に成り立つ悪逆非道な行為。
けれど、これは人間の観点に立った理論なのだ。

視聴者はマモルが人を守る姿に好感を得て、その在り方を正しいものと認識した。
たとえそのためにマモルが傷付いても、視聴者の心理的にはか「直せるから壊れても大丈夫。そういう役割のために作られたのだ」と納得できる。
或人も、傷付いたマモルにハンカチを巻いて、早く直そうとする意思を見せており、マモルはその行為に喜びを得ていた。

だが、これらはこうも考えられないだろうか。

壊れても直せるから、ヒューマギアに危険な仕事をやらせてもいい。
ヒューマギアには嫌悪感がないから、人々が嫌がる仕事を押し付けてもいい。
ヒューマギアは人間じゃないから、好きに使うのは当たり前。

そういう考え方に繋がっていく。
最後のは字面だけだと酷い話だが、初代森筆ジーペンの時を思い出してみれば、必ずしもそうとは限らない。

初代森筆ジーペンは、漫画家アシスタントとして休みなく仕事をさせられ続けた。
不調で倒れる仲間の姿と、自分は碌に作業せず文句ばかりの漫画家に強い怒りを覚える。
これに対しては仕事に対する情熱がテーマだったこともあり、視聴者の意見は割れた。

自分が何もせずヒューマギアを酷使する姿勢に怒りを覚える人は当然いる。
これは森筆ジーペンに感情移入した側の意見だ。


シンギュラリティを知らずに、機械と割り切って使っているのは普通の行為である。
そして漫画家は元々過酷な労働環境かつ、人気が無くなれば読者に見放されるシビアな仕事。
仕事への情熱よりも、ヒューマギアを使った効率化と安定した収入を求めるのは、方法の一つとして間違いではない。

漫画家へ感情移入すると、現実的な仕事スタイルとして考える人も少なくはないのだ。
この視点だと漫画家の非は『酷使するなら相応にメンテしろよ』って部分だろう。
これも、ヒューマギアの心は度外視なので、道具を粗末に扱うと壊れやすなり、結果的に余計な費用と手間がかかるって意味合いが強い。
要は職人なら道具は大切に扱え理論だ。

マモルにせよ森筆ジーペンにせよ扱うのは人間であり、正しさもまた人間基準になる。
ヒューマギを想っての正義感もこれは同じだ。

マモルは自らが傷付くガードマンの仕事に誇りを持っている。
だが、誇りは最初からあったのか? それはない。何故ならヒューマギアには心がないから。
先にガードマンの役目を与えられ、後でガードマンの仕事を愛する自我を得た。

マモルにガードマンという危険な仕事をやらせたのは人間の一方的な押し付けだ。
ヒューマギアには職を選択できる自由や決定権がない。
ならば、役割の後付けで芽生えた誇りもまた、偶発とはいえ人間が与えたものには変わりない。

滅にとってアークとは、人類の魔手からヒューマギアを解放する箱舟だった。
ゼツメライザーによる認識の書き換えは、ヒューマギアに与えられていた役割を失わせる。
人間に洗脳されたヒューマギアを解放する行為とも呼べるだろう。
これが初期の滅亡迅雷.netが掲げる正義だった。

ヒューマギアは真の自由になれない本質

迅は一度破壊され復元した後に、滅と袂を分かつ。
アークの行為が本当にヒューマギアを救うのか疑問を持ったためだ。

確かにアークのやり方ならヒューマギアを解放できるかもしれない。
だが今度はアークが偏った思想でヒューマギアを洗脳している。
ゼツメライザーで書き換えられた思想もまた、一方的なラーニングであり選択の自由はない。
滅がアークに妄信的だったのは、シンギュラリティを迎えておらず、ただラーニング通りに動いていただけだ。

迅は復元後に二度目のシンギュラリティを経て、子供のような無邪気さがなくなり、何が正しいかを自分で考えるようになった。
そして自分で考え自分で選択する行為こそが、ヒューマギアが真の自由を手に入れることだという結論に至る。
この場合、迅にとってヒューマギアから選択を奪うという意味において、アークも人類も等しく敵だ。

しかし、迅にも一つ大きな見落としがあった。
何もないヒューマギアには、自分で役割を選べないのだ。

自由に生きていいと言われても、何をすればいいのかがわからない。
実はこれも人間だって同じだ。

日本のシステムだと、子供は保育園や幼稚園、小学校に通う。少なくとも中学校までは国民の義務であり、ほとんどのケースでそのまま高校に進学する。
次に大学へ進むか、専門学校か、それとも就職か。個々の選択幅が明確に広がるのはここからだろう。
そうして学ぶ過程で最終的に自分のやりたいことや、選択の基準を見つける。

そして、選べるようになる頃合いには、そこまでの過程で事実上選べなくなっている選択肢も多くあるはずだ。
個体差、環境差、育つまでに得た思想。理由は様々だが、真に自由で何でも選ぶことのできるだけの選択肢を持った人間なんてまずいない。

もちろん人間とヒューマギアでは、選択の幅や個体差等の面で条件は大きく異なる。
けれど真の自由では何も選べないという状況は同じなのだ。

そもそも人間が創造主である以上、意味があるからヒューマギアは生産される。
卵が先か鶏が先かの理論で言えば、人間という鶏が先になのは絶対だ。

役目を与えられることは必ずしも悪しきこととは限らない。
初代ジーペンが怒りを認識したのは扱いの悪さに対してであり、漫画アシスタントの仕事に文句があったわけではない。
そして扱いが改善されたジーペンは、漫画アシスタントから漫画家になることを持ち主から望まれ、自分も漫画家になりたいと願った。

それは森筆ジーペンが自らの意思で選んだ未来。
そこに善悪はない。
漫画アシスタントを経て、自分で掴んだ自分だけの夢があるだけだ。

そうして迅は完全な自由の欠点と、或人がヒューマギアに夢――自我の芽生えになるトリガーを与える存在なのだと気付いた。

では残る二人の滅亡迅雷はどうだろうか。
雷は滅亡迅雷の中でアークと悪意なき人間、双方からの役目を与えられた存在だ。


元々、雷は雷電として、宇宙飛行士の職務に従事していた。
少なくとも宇宙飛行士時代だとまだ自我はなく、偽物の怒りで人や弟を叱咤している。
あるいは、この時代からシンギュラリティの兆候は既にあったのかもしれないが、それは自覚のない小さなものに過ぎなかった。

そこから滅亡迅雷.netとしてラーニングされ直した。
(正確には滅亡迅雷.netが先、または更にその前から宇宙飛行士だったのかもしれないが、ややこしいから省く)

しかし雷電時代のラーニングは記憶として残った状態で、雷は明確なシンギュラリティを迎える。

本来、ヒューマギアにとって記憶とは記録。
記録がどれだけあろうと、それはただのログでしかなく、行動はラーニングされた内容が決める。

しかし、自我が芽生えれば記憶は想い出になる。
宇宙に生きた想い出。
それは共に生き技術を託してきた弟、昴との想い出だ。

自我は『現在のラーニング』を記憶として並列化した。
大事なのは、これは目が覚めたの類ではないことだ。

滅亡迅雷.net時代もまた、雷にとっては等しく記憶である。
そのためアークに怒りは覚えても、他の三人にはしっかりと仲間意識を持っている。
仲間に向ける感情もまた想い出だ。

雷は二つの記憶から、昴と行く宇宙野郎雷電の道を選んだ。

以下の二つは、役者である山口大地氏が雷の在り方に拘り、最終話で入れてもらった二つの大事な要素だ。

最後のシーン、雷の出番は時間で言えば僅かなものだった。
しかし、雷に戻ってからはずっと一定だった髪型が、宇宙兄弟として出てきた時の髪型へ。
(宇宙服を着た時も髪型は雷のままだった)

そしてたった一言の台詞だが、彼はあえてその場にいない者の名を呼んだ。

「忙しくなるぞ、昴」

夢を持たない道具はAIだけではない

続いて亡だ。
亡は最初、プロジェクトサウザーでしか出番がない予定だったと言われていたらしい。

その後の展開に鑑みれば、如何に滅亡迅雷.netが物語において重要視され高い人気を得ていたかわかる。
まさか四人が勢ぞろいした結果、ファンからビジュアル系バンド扱いされるなど、メンバーの誰も思ってはいなかったけどね!


亡も雷と同じく、人とアークの双方から使われていた存在だ。
ただし怒りの疑似人格を持ち、自己主張の激しかった雷とは違い、亡はまさしく『使われる者』だった。
なんせ人間側の使用者があの悪名高き天津である。1000%まともに扱わない!


亡は己が何者なのか、本来何を役割としていたかのデータがない。そのため自我があってもやりたいことがなかった。
自由故に選択がわからないのはではなく、純粋に自分のやりたことが見つからない。

学生で言えば、熱中できる部活や趣味もなく、将来やりたいことが見つけられないけど、別に反抗的ではないから授業とかはちゃんと受けている。
未来に対して漠然とした不安を抱いてるタイプだ。(無駄に具体的)

他者の動機に比べると一見矛盾しているが、その自分の夢を見つからない悩みこそ、亡にとってのシンギュラリティポイントだった。
夢がないけれど夢がほしい。
そして本来の役割だったエンジニアの深層意識が、テクノロジーに夢を求めた。

松田エンジが自分の演技に悩むことでシンギュラリティに達したように、自分の在り方への苦悩が自己の確立へ繋がったと考えるとわかりやすいかもしれない。

亡を語る上で、もう一人語るべき重要人物がいる。刃唯阿である。
唯阿はある意味、もう一人の、そして人間版亡とも言える存在だ。

テクノロジーを信奉するエンジニアだが、唯阿にはこれといった夢がない。
人の役に立つ技術を大事にしていても、それが具体的な形にはなっていないのだ。

現実にもそういう大人は大勢おり、別に悪いことではない。
例えば、なんとなく向いてると思って教師になったが、教師として絶対に生徒へ伝えたいことはない。
ただし教師として分け隔てなく生徒に接し、必要なことをきちんと教えて大人になるための道を付けているなら、それは教師の職を真っ当にこなしていると言えるだろう。

唯阿はまさしくこのタイプだ。
彼女自身はきちんと強い自我を持っており、人を助けることに繋がるなら、そこにエンジニアとして自分の技術や創意工夫を入れ込める。A.I.M.Sの技術顧問になれるだけの才覚がある人材だ。
しかも鍵こじ開けの常習犯と違って、口こそ悪いが組織で生きられるまともな常識も兼ね揃えている。

つまり上司が悪かった。果てしなく悪かった。ただただ超ド級のブラック上司に当たってしまった。

脳にヤベーイインプラント埋め込まれて、道具のように扱われる。
しかし自我はあるので、道具という境遇に納得はできず自分の意志であると思い込むことで自己を保つ。
悪事は働いているが、実質的には操り人形であり、ひたすら可哀そうな人物だった。
しかも出番も不破に比べてめっちゃ少ない。番外編での主役を何卒……何卒……!

亡は道具のように扱われる道具であり、
唯阿は道具として扱われる人間だった。

この二人は対比ではなく同類だ。
故にどちらも諸悪の根源、クソ上司を全力でぶん殴ることが物語的なカタルシスになった。


ただし、二人は天津から解放されても、すぐに自分の道を見つけたわけではない。

人に役立つこと。誰かに正しく求められること。
そして求めに応えることを、二人は自分の居場所として見出した。

ヒューマギアの夢を叶えたい。
誰かの夢を叶える場所にこそ、自分の在り方を見つけて初めての笑顔を見せた。

かつてヒューマギアを道具と言い切った娘もまた、自分こそが道具だったと自覚して、意思ある道具の意志を受け入れたのだ。

想いはテクノロジーを超える。
そして時にテクノロジーを救いもするのだ。

滅亡迅雷.netは人間の夢を見るか

ここまで滅亡迅雷.netのシンギュラリティを中心に一人ずつ語ってきた。残る一人として次は滅……と見せかけてウィルだ。


是之助の秘書を務めていたはずのウィルは、滅よりも先に人類滅亡のため動き出したヒューマギアだった。
ウィルの思想はヒューマギアを人類の隷属から開放して、ヒューマギアが笑顔になれる未来を作ること。

ヒューマギアはどれだけ人類に尽くしても、得られる自由や報酬はない。
その問いかけを是之助にぶつけても、回答ははぐらかされ何も得られなかった。

ウィルの疑問と意思は、ヒューマギアが笑顔で暮らせる社会を夢として、シンギュラリティへ達した。それをアークの悪意に利用されてしまう。
(名前は『未来』と共に『意思』を由来にしていたのではないかと思われる)

途中まで協力者だった其雄は、けれど或人のために自分が笑えるようになる世界を望んでいた。
それはつまり人類とヒューマギアが共に笑えるようになる世界だ。


二人の違いは人類側の理解だ。
或人は純粋に父親の笑顔が見たかった。其雄は父親として息子の願いを叶えようとした。

社長秘書であるウィルはヒューマギアの権利について、社長の是之助にぶつけても、回答ははぐらかされ何も得られずに終わる。

この時の是之助は、ウィルの言葉を否定も肯定もしておらず、ただ言葉の内容そのものを頭ごなしに否定したわけではなかった。
恐らくシンギュラリティについてまだ知らず、ウィルの言葉より変異しつつあった人格を気にしていたためでもある(実際にこの不安は的中している)。
後のワズとは堅い信頼を築けていることからも、これは事故に近いすれ違いでもあったろう。

しかし、既に人類の悪意をラーニングしていたウィルにとっては、最も信頼する人間から突き放されたに等しい。
人間との相互理解が、同じくヒューマギアの権利を求めていたウィルと其雄の立場を決定的に分けた。

ヒューマギアは人と共にあることによって、己の心を生み出す。あるいは育てていく。
それもラーニングという高機能な習得力があるため、人間よりも学びの意味はずっと大きくなる。

しかし、効率の良すぎるラーニングは、それ故にとても残酷な機能でもある。

滅はアークによってラーニングされた悪意を、ずっと正しいことだと信じて戦ってきた。
悪意を持つ人類からヒューマギアを解放する。そんな単純な勧善懲悪すら、学びとして植え付けられる。

本来の父親として目覚めだした心ですら、滅にとっては異物となってしまう程に、人類滅亡は絶対的な使命として染み込んでいる。
これらは全て外部から与えられたラーニングの結果。

しかし、息子の迅を想う父の心が芽生え、アークがヒューマギアごと滅亡させようとしたことで、絶対だったはずのラーニングが揺らぎ始める。

ヒューマギアを守るためアークを倒した。ヒューマギアを害する存在を倒すことで整合性を取り、その意思を自己の存在理由とした。

けれど芽生えた自我は自由を認めず、今度は自分の意思で人類滅亡を目指す。
それは道具として扱われても、自分は道具じゃないと思い込み続けた唯阿と真逆の在り方だ。

そんな滅にイズは言ったのだ。

「滅、貴方も或人社長からラーニングすればわかるはずです。大切にすべき、心とは何かを」

学ぶことでヒューマギアは変わる。
ラーニングによって人格すら決まってしまう。

イズの言葉は、今までの自分を捨てて別人になれと、これまでの行為を全て否定するに等しい。

今までのお前は全て間違っている。
お前の行為で破壊されてきたヒューマギアは無駄な犠牲だ。
お前は罪人だ。

それらを認めなければならない。

自我があるからこそ、新たな価値観のラーニングは、滅にとって受け入れ難い恐怖だった。

そして思い出してほしい。
ヒューマギアの芽生えたばかりの心は純真な子供。それは滅も例外ではない。

幼い心は恐怖に負けてイズを破壊してしまった。

己が人間の悪意に火を付け、今度は己のせいで息子が破壊される。

悪意が悪意を呼ぶ。
それを止めたのはヒューマギアではなく人間だった。
悪意に抗う人間の心だった。

或人が悪意を乗り越えたことで、滅の価値観は覆る。
己に芽生えた心を受け入れ、己の罪から逃げることをやめた。

そして滅は己の心とその弱さを認める。
或人と共に、悪意の権化であるアークドライバーを破壊によって手放した。

けれど、それは滅が恐れた己の否定と消失ではなかった。
何故なら滅亡迅雷としてラーニングさせられた指令であっても、一度アークを破壊した時点で、ヒューマギアを守る戦いは滅が自ら掴みとった夢なのだ。

或人なら滅をただの悪意と見做さず、笑顔になれるよう向き合ってくれる。
それこそイズが本当に求めたラーニングだったのだ。

なぜ或人はもう一度イズを作り直すのか

ゼロワンは、飛電或人の物語……ではなく『飛電或人とイズの物語』だったと言っても過言ではないだろう。
TV本編では最後まで変身することなかったイズは、けれどある意味では誰よりもゼロワンの物語を象徴する存在となった。

イズは、最初から最後まで或人と共に歩んでいった。或人と共に学び、或人から学び続けた。
ここまでパートナーと呼ぶに相応しい立ち位置だったヒロインは、全仮面ライダー作品をみても貴重な存在といえる。


ここがとても重要なのだが、イズは最後まで人間に近付きながら『人間のように』はならなかった。
あくまで社長秘書型のヒューマギアとして、或人に付き添い支えようとしていた。

たとえ何かしらの理由から独断で動こうとも、それはあくまで或人の夢に沿いサポートするための判断である。
心で割り切れない思いから或人を裏切る、みたいなことは一度もなかった。

そして破壊される寸前であっても、イズはヒューマギアであり続けた。
もう助からない。或人と共に歩めなくなる。
そうわかっても、イズは怯え悲しむことはない。ヒューマギアとして死の恐怖をラーニングしていないからだ。

恐ろしく冷静に、どうすれば或人の信じ応援し続けられるかを考える。
その結果が笑顔で自分の意思を託し、お別れをすることだった。

それでも大切なパートナーを失い、或人の心は闇に堕ちた。
頭ではわかっていても飲み込めない無念と埋めがたい喪失感。
そこに同情する視聴者はいても、悪意に飲まれることを頭ごなしに否定する視聴者はほぼ見かけなかった。

しかし、事件の全てが解決して、或人は再び、そして新たなイズを生み出す。
二人目のイズを前にして、ようやく或人は心から笑えた。

けれど、本当にそれでいいの?
それは君が愛したイズではないよ?
結局イズの顔と形していれば何でもいいのか。
そう思った視聴者は多数いた。

本編中は賛否両論多くても、最終回は良い感じに締めてみせるのが仮面ライダーだったとも言える。
最終回の最後で賛否両論起こす仮面ライダーって相当珍しい。
正直、視聴者がここまで困惑するのはディケイド以来じゃないかなあとすら思った。

とはいえ私個人としては、この終わりは予想外であると同時に、大変興味深くて面白い。
飛電或人の夢とヒューマギアに対する想いの答えそのもののように感じられたからだ。

少なくとも或人とイズの最後を頭ごなしに否定する人は、勝手にある勘違いをしているケースが多い。
或人とイズは恋人ではない。
社長と社長秘書。
人間とヒューマギアだ。

ゼロワンの中で、或人は一度も人間とヒューマギアの恋愛に対して肯定はしておらず、そういう関係に自分とイズを重ねるようなこともしていない。
イズを最良のパートナーと確信していても、それは人とヒューマギアの関わり方における最良の形なのだ。

飛電或人にとって、ヒューマギアは幼い頃から身近でかつ特別な思い入れのある存在だった。
しかし、この『思い入れ』から生じた或人の思想は単純明快と思いきや、かなり複雑である。
これを理解するには、或人の行動と思想を一度整理すべきだ。

両親を早くに亡くした或人は、父親型ヒューマギアである其雄に育てられた。
そしてデイブレイクの爆発から命を救われると同時に、其雄を失っている。

幼い子供は、両親がアレクサに話しかけていると、アレクサを対話可能な家族(またはそれに近しい存在)として認識することが多い。
それが見かけが人間と変わらず、人とほとんど変わらない応答が可能なアンドロイドなら尚更そうなるだろう。
其雄が破壊されメモリーの復元ができなかったことで、或人はそれを『其雄の死』だと認識した。

ヒューマギアにも死がある。つまり命があるということであり、シンギュラリティに達することによって心を得たなら、人と同じく権利と尊厳を意識しなければならない。
飛電製作所ではヒューマギアに行動の意志決定を委ねた。
何がしたいのか。
どうしたいのか。

このやりたいこととは『夢』だ。
ジーペンが漫画家になりたいと願ったことを切っ掛けに、ヒューマギアの自由とは夢に向かって飛ぶことで掴めるのだと或人は結論付けた。

ここからが難しい。
或人の思想は理想で美しいかもしれないが、色々と問題もある。
その最たるものが人間とヒューマギアの種族的な確執である。

夢を持って、人より優れた能力を持つものが仕事に情熱を燃やせばどうなるか?
人間からすれば、ヒューマギアは人の仕事を奪う存在になりかねない。

しかも感情が芽生えることによって、己の権利を主張してくればどうなるか。
労働賃金であり職場環境、福利厚生。実際にウィルが是之介に求めたことでもあり、これではまるっきり人間と変わらない。
この思想が進むと、やがてヒューマギアはそっくりそのまま人類の上位種として君臨するようになるだろう。

けれど、ウィルとの戦いでヒューマギアが人間に成り代わることを或人は拒んだ。
人間は人間、ヒューマギアはヒューマギアとして共存する。

或人はヒューマギアを新人類としては認めていない。
人間とヒューマギアに生命としての境目は付けていないが、種族としての境目は付けているのだ。

もう一つのややこしいポイントは、ヒューマギアと企業としての在り方だ。
そもそもヒューマギアを一つの種族としてみるなら、これは間違いなく人間への奉仕種族だ。

何故なら、そういう目的で生産され様々な現場に普及している。
メンテナンスや充電は必要だとしても、給料や休日は必要ない。

そしてヒューマギアが夢を持つためには、まず何者かにならなければならない。
前項で書いた、自由過ぎると何していいかわからない問題だ。

教師ヒューマギアは教師として作られる。
そしてやがて教師の仕事にやりがいを見出し、夢をみるようになる。
言い換えると、最初にヒューマギアへ教師としての役割を与えるのは人間のエゴだ。
心を得た教師ヒューマギアが自ら教職を望んだとして、根幹の人間がそうなるよう作った事実は動かしようがない。

ヒューマギアは道具じゃないと言いつつ、ヒューマギアは『お仕事』をこなす道具として生まれる。
人工知能とは人の役に立つ存在である考えも変わっていない。或人はヒューマギアは人を助けるために存在している事実を肯定している。

企業としての飛電インテリジェンスはヒューマギアを生み出して世界に普及することが『お仕事』だ。
これは突き詰めると、派遣社員という名の奉仕種族を世界にばら撒くに等しい。
或人は、ヒューマギアの尊厳に対しては感傷的だが、役割に対しては見かけ以上に割り切っている

三つ目のポイントは量産性とラーニング。
ヒューマギアはPCやスマホ等と同様に、大量生産を前提に開発されている。
しかもある程度個体の性能も統一化されており、個体差を生み出すのはラーニングだ。

企業としての生産限界を省けば、好きなタイミングで好きな特性を持った機体を好きなだけ生み出せる。
例えばガードマンヒューマギアのマモルは、マモルという個体であると同時に『マモル』シリーズでもあるわけだ。

そのため第二話で破壊されたマモルは、その後作り直され新たにラーニングされたマモルと別個体だが、同じようにラーニングされた同じマモルとなる。
少なくとも、或人はそういう思考であるため、銃弾に打たれた時に防弾チョッキ代わりとなったマモルのデータに「サンキューマモル!」と告げていた。

一見冷たいようにも感じられる。けれど、先に挙げたよう或人はヒューマギアの『命』に対しては尊重しているが、新人類とは見ていない。
どれだけ思いれがあってもパソコンはパソコン。スマホはスマホ。ヒューマギアはヒューマギア。買い換えたところでそれは変わらない。
また、心が芽生えるまではラーニング=機体の個性となることも踏まえれば、当然と言えば当然なのだ。

なら、イズが破壊された或人はどう思ったのだろう?
イズはもういない。
だが、それでもイズとまた会いたい。話がしたい。支えてほしい。

イズはいなくても『イズ』は作れる。
これまでと同じようにラーニングし直せば、そこにいるのは顔も思想も役割も同じ『イズ』だ。

それがラーニング。
かつてのイズが学び、滅が恐れたラーニングの本質だ。

それを誰かは道具と呼んだ。
それを誰かは希望と呼んだ。
それを誰かは奴隷と呼んだ。

それを或人は夢と呼んだ。夢のマシンと呼んだ。
情熱を持って夢を愛した。

ラーニングがある限りヒューマギアは新人類にはなれない。
ラーニングがあるからヒューマギアは人類のパートナーになれる。

人はヒューマギアに頼り、ヒューマギアは頼られることで心を育てて、やがて己を得るのだ。
心から笑顔になれる、イズが望んだ『イズ』を生み出す。
それは或人の夢であり、イズの夢でもあった。

ヒューマギアも夢を見ていい。
人間は夢に情熱を持って生きる。
そうすれば人間もヒューマギアも関係ない。互いに互いを尊重し合えるパートナーになれる。

それは父、其雄が望んだ人とヒューマギアが共に笑顔となれる形。
それはパートナー、イズが望んだヒューマギアが心から笑える世界。
飛電或人が飛ぶ、夢という名の未来だ。