どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

仮面ライダーの情報や面白そうなネタを求めてネットを彷徨っていると、(特にTwitterで)ちょくちょく目に入るのが『仮面ライダーは子供向けだから』という話です。
大体仮面ライダーが子供向けか大人向けかで議論する時は大部分がネガティブな内容なこともありますが、どうしてもモヤモヤする部分があるんですよ。

私はブログだと視聴対象者という意味で、大人や子供という表現はあまり使わず、意図的に『小さいお友達』とか『大きいお友達』という表記をするようにしてます。
(それだと話の本質的な意味が伝わりにくい場合はその限りではないですが)

それくらい、仮面ライダー作品にとって『子供向け』に関する考え方や意見はデリケートなものだと考えているからです。
でもまあ、仮面ライダーが好きだからこそ、どうしてもこの手のネタが目につく度に思うことは膨らんでいきます。

大体目にする場所もTwitterなので同じくTwitterで吐き出そうとすると、どうしても文字が少ない。
前にTwitterのレス機能は試しましたが、この手のネタだと最初のツイートしか読まずに『子供に配慮しない最低な大人』的な反応する人が一定数いて、むしろモヤモヤが大きくなってしまうんですよ。

そんなわけで『場末の個人ブログだからいいよね。答えは聞いてない』ってな感じで今回の記事を執筆しています。
ただし、私は別に『子供向け』や『大人向け』で論争がしたいわけではありません。
『ぶっちゃけそんなの楽しければどっちでもいいじゃない』と言ってしまえるのが理想であり、綺麗事です。本当は綺麗事がいいんだもん!

しかし現実はクウガではなく龍騎世界で『ライダーの戦いはやめてモンスターだけ倒すべきだ!』と参加者に訴えかけるようなもの。
普通にファイナルベントが飛んできます。言葉で。

そして私は私で、一度考え出すと自分なりに解答を見つけ出さないと気が済まない。
だからこそ、理屈民族的な仮面ライダーブログを飽きもせずここまで続けられてきたとも言えるのですけどね。

最初に断っておきますが、仮面ライダー作品のメインターゲットは確かに『子供』です。
そこを取り違えてこの記事を読むと確実に混乱するでしょうし、高確率で誤解します。

まして大人として子供に配慮するなんてことは、子供向けか大人向けか論争以前の問題です。
電車の中ではお年寄りや体調の悪い人に席を譲りましょうレベルな、仮面ライダー云々以前のお話をしたいわけではありません。

あくまで子供向けと大人向けの持つ意味を考えて、私なりの見解を書くことが今回の目的です。
前置きという名の予防線が長くなってしましたが、それでは始めていきましょう。

最初のクウガからして純粋な子供向け作品ではない

仮面ライダーがどの層に向けた作品かというのは、『平成(令和)ライダー』という大枠の中でも、時代に沿って変化していっている。
それは『今の子供に向けた作品』だという意味ではない。

そもそも平成ライダー一作目であるクウガの時点から、仮面ライダーは純粋に子供向けのみとして作られた作品ではなかった。
そして子供向けだけに絞られていなかったからこそ、今日までの発展があった。

例えば主人公の五代雄介に『今時の爽やかなイケメン』であるオダギリジョー氏を採用したこと。
『仮面ライダー』という悪を倒す正義のヒーローが前提の作品で、善悪を越えて暴力で解決することを強く否定したグロンギとの戦い。
現代日本に本当に『怪人』が出現したら、警察はどのように戦い市民を守ろうとするかを、これでもかという程丁寧に描写したこと。

他に要素も書き出せばキリがない。
これらはどれも『子供向け』という言葉で思考停止していては絶対に生み出されなかった。

では、これらの物語はどこに向けられていたのか。
ここまで重厚なストーリーや演出で作品を作れば、そりゃあオタクという人種は黙っていない。

ただし、今回に限って言えばそこはサブの立ち位置だ。
明らかに狙っている層の一つではあるだろう。
作品を支えるためにこの層は必要だが、あくまでメインとは少し離れたところに位置する。

前置きでも書いたけれど、子供がメインターゲットなのは間違いない。
ならば『子供』を軸にして広がる層がその対象、つまりは『親』である。
今時のイケメンで喜ぶのは母親であり、子供と一緒に観ていて練られたライダーのアクションが予想以上に格好良くて一緒にハマるのは父親。
ドラマ性の高いシナリオは、父母どちらも得るものがあるだろう。

つまり仮面ライダークウガは『子供』を主軸に『ファミリー向け』作品として生み出された。
『子供向け』と『ファミリー向け』は近いようでいて、天と地ほどの差がある。

そもそも平成ライダーシリーズは当初、昭和ライダーのカウンターとして生み出された。
仮面ライダーとしての重要なイズムは残しつつ、昭和ライダーが作った定石や様式美を破壊して、新たなブランドとして確立させる。

だからこそ、BlackやZOなど放映が平成でも、クウガ以前の仮面ライダーは明確に線引きされている。
そういう強い意思と目的を持って制作された作品なのだ。

龍騎と電王が広げた平成ライダーの世界

それでも、クウガの頃はまだ物語に道徳性が強く、『説教臭い』という否定的な意見もあった。
これもまた番組を観た子供に何が残るか、大人が子供にどう向き合っていくべきか。視聴者の心に何が残って欲しいかを真剣に考えた結果だろうと思う。
そういう意味では子供とその親の視線に合わせようした作品ではあっただろう。

仮面ライダーに訪れた次の転機は、皆大好き『龍騎』だ。
ここで仮面ライダーという作品は一つの脱皮を果たした。

日曜の朝から、これまで人間の自由と平和を守るヒーローだった仮面ライダー達が、自分の願いを叶えるために殺し合いを始めたのだ。
もう発想やコンセプトからして完全に子供向けのそれではない。

ごく普通にライダーの中に犯罪者がいる。
戦いをゲーム感覚に行う者もいる。
ただ幸せになりたかっただけで無残に消えた者もいる。

番組に大人からの苦情がバンバン入ったし、こればかりは初代ライダーである『藤岡弘、』氏も苦言を呈する程だった。
作品を観た大人が『子供向けとは……』と真剣に考え出すレベルである。

同時に作品そのもののインパクトは絶大だった。
私が初めてちゃんと視聴した平成ライダーは龍騎であり、ゾルダが初めてファイナルベントという名の全弾発射であらゆるものをぶっ飛ばす回だ。
完全に『ぼくの知ってる仮面ライダーと違う』と呆然として一気に引き込まれた。

反面、作品が暗くなりすぎないよう配慮して、変身や戦闘で使うアイテムはより子供受けしやすいカードゲームをイメージしたものになり、怪人もゲームのモンスターみたいなデザインとなった。
以後の仮面ライダーの変身アイテムは単純なベルトだけでなく、日常的なアイテム要素が取り入れられていく。
この一歩間違えればゲーム感覚の殺人扱いをされかねない絶妙なアンバランスさが、龍騎の独特な世界を形作っている。

そして、それはこれまでよりも広い視聴者層の獲得に至った。
そういうもっと広い世代に広告塔のように、ゴールデンタイムに出したTVスペシャルもある。
当時私は中学生だったが、オタク仲間だけでなく普通の生徒ですらたまたま番組を視聴して、仮面ライダーの固定概念を崩されたことで興味を抱いていた程だ。

この頃から仮面ライダーにとっての『子供向け』に対する要素や姿勢が、クウガから明らかに変わってきているのがわかる。
その後もファイズやブレイドなど、かなりハード路線な物語で終幕も大団円とは言えない物語が続いた。
そしてファミリー層以外にも広く周知され、視聴者層の幅も確かに広がっていたのだ。

しかし、この頃の仮面ライダーは決して安定していたとは言い難い。
特に仮面ライダーブレイドは平成ライダー氷河期とも呼べる時代で、次回作の仮面ライダー続投も危ぶまれていた。
結果として仮面ライダー響鬼に繋ぐことができたものの、こちらもこちらで制作スタッフが大規模に変更される程に大きな問題が発生している。

そうした荒波を乗り越え迎えた二度目の大きな転機が、これまた人気作の『仮面ライダー電王』だ。
電王では『怪人』であるイマジンを桃太郎よろしく主人公のお供にして、モモタロス達の声に人気声優をあてた。

怪人にドラマ性を持たせる試みは、ファイズから生まれ創意工夫されてきたものだ。
それらの多くは『人の心を持った怪人の苦悩』に当てられている。
その狭間にある壁を乗り越え、人間と手を取り合う。そしてそこに生じる友情や悲劇を描いてきた。

それを電王では逆にシンプルに『人間の味方をする良い怪人』ぐらいにデフォルメ化して、怪人を明るく楽しい存在に変えてしまった。
下手すると作品をチープにしてしまう荒業だ。
だがしっかりとした個性付け、異形感を持たせつつもどこか愛嬌のあるデザインのイマジンを、軽快ながら骨太のストーリーに乗せることでマスコット化に成功した。

実質キャラソンである挿入歌は主人公とイマジンのデュエットソングであり、物語後半からはOPテーマの歌すらかっさらった。
今風に言えばイマジン達はアイドルのような扱いだったとも言える。

この流れにより、アニメ好きのオタク層がより強く深く取り込まれていく流れができた。
元々特撮とアニメで親和性が高かったのを、よりアニメ側に寄せてきたイメージが強い作品だ。

平成ライダー二期と称されるようになるのは『仮面ライダーW』からではあるが、平成ライダーにおける歴史的な分岐点として見るならば、それは電王である。
電王が生み出した、オタク層の取り込みを意識した『アニメ寄りの作り込み』は現在でも活かされている重要な要素だ。

アニメ寄りの濃いキャラ付けは前作カブトの天道達が基盤になっていると個人的に考えているが、それを一種な完成形に持っていき定着させたのは電王だろう。

後続作品の『仮面ライダーキバ』がスタートしても、異例の続編となる劇場版等が制作され電王世界の広まりは止まらない。
ディケイドから始まったと思われがちなライダー作品同士のクロスオーバーも、実は電王とその後に続くキバが最初である。
(世界観的に実質リンクがない龍騎のハイパーバトルビデオなどは含めない)
現在ほどではないものの、ここから平成ライダーの安定感も目に見えて向上していく。

ディケイドが破壊し繋げたのは視聴者層

次に大きな転機――というかもはや仮面ライダー後期のレールそのものとなり、平成ライダーを今の時代へ繋げる最大の岐路となったモンスター作品が『仮面ライダーディケイド』である。
ディケイドは各世界のライダーを平行世界の形式で一つに集約した。
一見すると単純なお祭りものに見えるが、これは本当にとんでもないことである。

平成ライダーはこれまで、それぞれに独立した世界観を作ってくることで作品毎のアイデンティティを作り出してきた。
そのためクロスオーバー作品は非常に限られている。

クウガとアギトの関係は特にそれが顕著だ。
アギトは実質クウガの続編的な立ち位置だが、クウガとはあくまで別世界となっている。
これは『五代雄介が守った世界』を大切にしたためであり、如何に『クウガの世界』を大切に扱っていたかがよくわかる。

ディケイドはそうして明確に分けられていた世界線を、なんと平行世界として分けたまま扱いながらも、『平成ライダー』という一つの世界観としてまとめることに成功した。
これは平成ライダーにおいても前代未聞の大事件である。

いわばディケイドは、各平成ライダー作品間にあったメタ視点という名の『世界の壁』を破壊した。
そしてもっと大きく柔軟性のある『平成ライダー』という名の枠で繋いだのだ。

これによって何が起きたのか。
かつての平成ライダーは世界が一つひとつ孤立していたため、次作が出る度にかつてのライダー達は『過去の存在』となっていく。
そうやって時代に流されていった過去のライダー達を、ディケイドは再利用可能なコンテンツとして定義し直した。

また、これによって視聴者の視点もまた大きく変わる。
ディケイドによる世界を繋ぐ形式を一番喜ぶのは『今の子供』ではなく、『過去に子供だった大人』だ。
過去のオリジナルキャストで誰が出るかをネタに一喜一憂しているのは、ディケイドでも二十周期のジオウでもまるで変わらない。

ディケイドはあえて本家のライダーではなくリ・イマジネーションと呼び、オリジナルとは異なる『ディケイドにおける平行世界のライダー』として作り直した。
これにより各ライダーは独立性を保持したままでありながらも、ディケイドの世界観へと置き直されている。

これは過去作の完全踏襲に対する上手い逃げ道でもあったが、それ以上に巧妙なバランスと展開をもたらした。
たった二話で過去作品を一本を消化するハイペースに、オファーを出しても必ず出演できるわけではない過去作の俳優達。
これらを再構成の概念が全て吸収した。

オリジナルの世界ではないから、各世界の主役ライダーは全員別人だ。
多少の設定改変やミスは『ディケイドの○○世界』だからという理屈で強引にねじ伏せる。
(一部流石に問題視されたものもあったが)

また視聴者は知らないライダーでも、ディケイド世界のフィルターを通してそのライダーを見ることができるので、過去作の原作知識を必要としない。
もちろん知っていればより楽しめるようにも作ってあるが、過去作を知らない初視聴者への意識は大変強い。

過去のライダーを知らない人がディケイドを視聴する。
そして各世界のライダーで気になったタイトルがあれば、原作に手を出す。
ディケイドは原作未視聴者には平成ライダーカタログの役割も果たしていた。
これもコンテンツ再利用の流れを強化している。

ディケイドが世界観の壁を破壊し、全部繋げて次の二期へと放り投げたことで、平成ライダーはもはやディケイドがいなくても繋がっていることが当たり前になっていく。
劇場版に過去のライダーがレジェンドとして出演する機会も大幅に増えて、比較的最近ライダーを知った大人が、好みだと思ったライダー作品を次々と消化しやすい環境になった。
その集大成とも呼べる作品が『平成ライダージェネレーションズFOREVER』だ。
ジオウはグランドジオウの姿が物語ように、ディケイドが生んだ平成ライダー集合の流れを、平成終了に合わせ集大成として祭り上げている。

こうしてディケイドが生んだ流れは巨大な波となって、10年もの間発展を続けてきた。
これにより仮面ライダーは、歴史を武器に大人からも大枚を吐き出させる東映のドル箱コンテンツとして完成に至る。

平成ライダーの歴史と発展から視聴者層を読み解いてみた。
これでわかるのは平成ライダーは段階的に取り込む視聴者層を広げていることだ。

『子供向け』と言い切るには、仮面ライダーはあまりに複雑かつ綿密なプロセスにより積み上げられてきた。
クウガがファミリー向けコンテンツなのは、当時を知る人にとっては結構有名な話である。
そして『平成FOREVER』では『仮面ライダーを愛してくれたあなたへ』ともはや対象すら問うこともなく投げかけた。

そして投げかけれた者達は何の疑問も持たず、「ああ、これは平成ライダーを愛してきた自分達へのご褒美なんだ」と受け取る。
それだけの歴史を私達は仮面ライダーと共に歩いてきた。
この歩みが胸に湧き上がる感慨が、そのまま『今の仮面ライダーは誰に向けられた作品か』に対する全ての答えなのだ。

ことここへ至る間にあった物語をざっくり解説したのが、今回の記事であると考えてもらえるとわかりやすいだろう。
W以降も仮面ライダーブランドは様々な変化を遂げているが、視聴層の歴史としては基本的に安定化路線へと入ったと思うので一旦ここで止めておいた。

故に私は平成ライダーを単純に『子供のためだけの作品』と断ずるのは反対だ。
それは仮面ライダーが作ってきた歴史そのもの否定、ひいては『平成FOREVER』が示してくれた『仮面ライダーは存在する』ことへの否定なのだ。

ただどの層に向けた作品かを言語化するのも非常に難しくなっているのは事実だ。
そのため、今の仮面ライダーをどこの層向けかと問われると私は便宜上、『子供を主軸にして計画的に大人層も取り込んでいる全年齢向けコンテンツ』と答えるようにしている。

最初にこの結論を置いた上で解説した方が効率的ではあると思うのだが、結論だけで中身を判断して『勝手に子供から仮面ライダーを取り上げるな』と激怒する人が一定層いるのだ。て言うかTwitterでホントにいた。

別に私の書いたこの記事が全面的に絶対正しいと言いたいわけではなく、読んだ上で『ここはこうだろう』とか『こう考えるべきだ』と議論してくれるのなら、むし本望である。
(そして確かにそうだと思えば、その内容も取り込んで記事をブラッシュアップする私得)

ただし、玩具やTV放送以外での外部作品については、大人と子供の視点に絡めて語るべきことはまだまだ残っている。
ここからは、平成ライダーはターゲットを大人にも広めたことで、世界観を無限に広げられる土壌を手に入れたのだ! という話をする……のは次回にしておこう。
(長すぎて記事一本じゃ収まりませんでしたァー!)