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【仮面ライダージオウ】49話 感想 最終回と夏映画は繋がらないからこそ面白い

2019年8月21日

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仮面ライダージオウ 49話『2019:アポカリプス

ゼミ生の皆様こんにちは、語屋アヤ(@ridertwsibu)です。

ジオウの物語も次回で最終回。
本来はいつも通り次回予告を元に考察と予想を立てようと思ったのですが、今回は最終回前なので少し趣向を凝らして見ることにしました。

夏映画『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』を観た人は結構な割合で現在モヤモヤしていることがあると思います。
それは映画と本編との繋がり、パラレルワールド問題です。

Twitterやら感想記事を読んで回っていても、本編と夏映画の整合性を気にしている人はかなり多い。
中には相当に強引な繋がりの仮説を立てる人もいました。

私は最終回の予告を観たことで私なりの考察、言ってしまえば『夏映画はパラレルワールドだからこそ、映画と本編の最終回は最大限に楽しめる』と府に落ちたので、実のところ今はかなりスッキリしています。
本来、この手の話は本編終わってから考察として書くべきことなのだろうと思っていたのですが、そうなるとモヤモヤを抱えたまま最終回を視聴する人も多いでしょう。

そして多分、このモヤモヤは最終回を過ぎても解決できる類のものではないと思うのです。
公式から出ている見解からもこれはそこそこの確率で当たるのではないかなと考えています。

それなら、あえて最終回前に本編と夏映画の関係性。
それぞれ二つの本質を明確にしておくことで、少しでもスッキリした気持ちで最終回を観れる状態になればいいなと思い、今回の記事を書きました。

そのため、今回は映画のネタバレ注意になります。
では、始めていきましょう。

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夏映画の設定では本編に繋がらない

早速TV本編に最終回と夏映画が違う理由を解説したいところではあるが、大前提として映画はパラレルワールドであるという部分を解説する必要がある。
まず夏映画と本編が繋がっていると考える理由は大きく分けて三つ。

一つ目、公式によるアナウンス。
二つ目、物語的に存在する微妙な繋がり。
三つ目、視聴者的な気持ちの問題。

三つ目は一先ず置いておくとして、他二つはある程度論理的に整理して考えられる事柄だ。

一つ目については『公式がそう明言していたから!』という話である。
私の調べた限り(というか親切なフォロワーさんに教えて頂いた)、公式がTV本編と夏映画の繋がりがあると触れたことは事実としてあった。

TV朝日のジオウ公式サイトにて、チェイス登場のニュースに『ゲイツが劇場版で出会った詩島剛のことを話して説得を試みる』といった旨の内容がある。
ほら見ろ、と思った方は少し待ってほしい。

繋がりがあると書かれているが、同時に繋がりが無いことも公式に触れられている。
正確には日本映画NAVIという雑誌にて、田崎監督から「本作が本編にどうリンクしていくのかなどは、特に考えて作っていません」というコメントがあった。
こちらは表現こそ多少曖昧だが、最初から繋げる前提で作っていないとハッキリ書かれている。

となれば、後は信憑性による比較だ。
TV朝日側のニュースはあくまでサイトの運営管理をする広報によって書かれたものだろう。
平成仮面ライダー20作品記念サイトで白倉プロデューサーが書いているコラムと違い、直接劇場版制作に関わった人物の言葉である可能性は低い

もう一方は作品を作った監督がインタビューを受けて直接のコメントをしたのである。
普通に考えて、作品を手掛けた監督の方が信憑性はあるだろう。
TV朝日側は冬映画でのウォッチ継承と同じく、TV本編では似たできごとが別にあったというニュアンスを、劇場版で起きたことだと書いてしまった辺りではないかと私は考えている。

二つ目の物語的な繋がりについては、先に書いた通りゲイツが詩島剛の話をチェイスにしたことが発端だ。
私はここで話が完全に噛み合わないので劇場版はパラレルワールドだと確信したのだけど、真逆に考えた人も少なからずいたようだ。

また、ウォズの正体が映画で明かされたことや、逢魔降臨歴の製作者がクォーツァーであることから、映画と本編に繋がりがあるという印象がより強まっている。
即ち、「繋がってると思いたい」に他の情報も合わさったことで、「繋がってなければならない」に強化されたのだ。

しかしながら、そもそも夏映画と本編は繋がっていることで起きる矛盾の方が大きい
夏映画を直接観た人で、これを理解していない人は恐らくいないだろう。

それでも何とか繋げるためにいくつか見聞きした考えだと、人気のあるものとしては時系列の並び替え、もしくはループ説がある。
時系列の並び替えとは、劇場版でドライブウォッチを入手した後に、一旦本編に戻り最終回を迎える。そして再び映画の後半に戻るという考え方だ。

この方式だとソウゴ達は一度ウォッチを揃えたのに、そこから王位継承の儀式(SOUGOが登場する流れ)を暫く後回しにしたことになる。
根本的に『ウォッチを揃える=王』になるの図式だ。

そして王の力を手に入れることは、同時にオーマジオウと同等の力を手にすることでもある。
ソウゴはドライブウォッチの未継承で一度敗北しており、オーマジオウを越える力を手に入れて倒そうと躍起になっているのに、わざわざ時間をあけるのは言うまでもなくおかしい。映画の内容的にも前半と後半で明らかに時間経過のある描写は見られなかった。

もう一つのループ説だが、こちらは要約すると最初にオーマジオウになった周回が一回目。TV本編が二週目。そして夏映画が三周目で全部時間ループによって繋がっている説だ。
これは先の時系列並び替えより説得力はあるように思えるが、それでも根本的な問題がある。

逢魔降臨歴の内容が夏映画とTV本編で異なるのだ。
クォーツァーが作製した逢魔降臨歴はソウゴを替え玉にしてウォッチを集めさせることを目的としている。
つまり、最後のドライブウォッチを手に入れてソウゴとSOUGOが入れ替わり直すところがゴールなのだ。
少なくともそこから先が描かれる場合、SOUGOが前提の計画書とならなければ辻褄は合わない。

けれどTV本編の逢魔降臨歴だと、最終ページまでソウゴがオーマジオウになる前提で現在も進んでいる
これはクォーツァーが製作しているなら起こり得ないことだ。
つまり夏映画とTV本編で逢魔降臨歴を製作したのは別人物であり、そんな変化は限られた期間内のループだけでは発生し得ない。

そもそも、二週目の本編時間にクォーツァーが現れない理由も説明が付かず、ソウゴがTV本編だと力を与えられたただの少年ではなく、本当に『生まれついての王』である説明もないままだ。
TV本編ではスウォルツが与えたのは仮面ライダーの世界が集まってくることだけで、ダイマジーンを倒せる力は別口になる。
その矛盾を無くすため夏映画だとスウォルツはSOUGOの協力者設定になっていた。この辺りもループだけではどうしようもない根本の設定違いだ。

もし、TV本編でもソウゴに力を与えたのがスウォルツだと、自力でウォッチを集めたら自分でオーマジオウになれてしまう。
スウォルツに世界を破壊できる力はないと断言したオーマジオウの言葉と完全に矛盾する。

ここまででわかるように、TV本編と夏映画に一部繋がりはあるが、同時に致命的な設定矛盾も複数ある。
そりゃあ監督は繋がりを気にせず、夏映画は夏映画だけで完結するよう話を作っているので当然だろう。

だとしたら本編では『ドライブウォッチ継承の話は似たようなものが別にあった』と考える方がずっと自然だ。
タイミング的にはアナザージオウⅡを倒してから、スウォルツがアナザーディケイドの力を使い出すまで。正確にはスウォルツが人々をアナザーワールド送りにしているとソウゴが認知するまでの間。

スウォルツはこっそり複数人のアナザーワールドを作っていたので、その期間内ならドライブウォッチ事件に関わる猶予がある。
逆を言えば、そこから先はずっと地続きに話が進んでいるのでここしかない。

また完全に本編と切り分けて作っているから、映画には本来いるはずのタイムジャッカーや門矢士もいない。
最終局面でスウォルツが出張ってこないのは不自然で、士は世界の破壊から人々を守ることが目的だった。
本編との整合性を一切気にせず作れる。余計な尺を削り矛盾をさて置けるのである。
この恩恵は後述する、夏映画をあえて切り分けた理由にも繋がっている。

そして最後、三つ目の理由。視聴者のお気持ち問題。
これは感情論なので、いくら論理的な理屈を並べてみても意味がない。
そもそも、ここまでは全部前置きで、三つ目を解決することが今回の本題なのだ!

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夏映画がパラレルであることの重要な意味

夏映画がパラレルワールドだと納得できない理由の三つ目。
これは感情的な理由なのだけど、別に視聴者が悪いわけではない。そもそも、そう思わせる宣伝方法していたのは東映だ。

なんせ公開前に『平成ライダーの真の完結編』と大々的に宣伝していた。
真の完結編なんて呼べば、そりゃあ本編に繋がりがあると考えるのは当然だ。
事実、私も当初はエグゼイド夏映画『トゥルー・エンディング』のような後日譚だと思っていた。

しかしながら、これは言葉のマジックだ。
夏映画は『平成仮面ライダーの完結編』であり、TV本編最終回は『ジオウとしての完結編』であるとも白倉プロデューサーは解説していた。
要するに、映画とTV本編の最終回は同じ完結編でも主眼が根本的に異なるだ。

これだけだと、言葉遊びが過ぎるだろうと考える人もいるだろう。
そもそも『平成ライダーの完結編』と『ジオウとしての完結編』って何が違うの?

公式で大々的に『最終回』として宣伝してそのように扱っている以上は、平成ライダーの締めとなるジオウ本編と繋がっていないのは納得できない!
ということに繋がる。いや、気持ちはわかるのだ。
私も『何故あえてパラレルワールドとして分けるのか』が頭では理解できていても、心情的に納得しきれなかった。

これを飲み込めたきっかけは最終回の予告だった。
本編の最終回でソウゴは最低最悪の魔王と呼ばれた、オーマジオウに至る最後の一歩を踏み出す。

夏映画は平成仮面ライダーとして全てのウォッチを継承して『最善最高の仮面ライダーの王』であるオーマフォームへと至る。
TV本編はジオウの最終回としてオーマジオウへと辿り着く。
二つのエンディングは、目指した場所が違う対比として完成している。

劇場版は一つの物語として完成させる必要がある。その瞬間の特別さや爆発力が重要だ。
それがクォーツァーの存在であり、終盤でウォズが逢魔降臨歴を破り捨てる行為。そしてオーマウォッチによる王の継承、春映画ノリでのライダー集合である。

歴史書を破り捨てるのは平成仮面ライダーの肯定であると同時に、ジオウという物語の全否定だ。
ウォズは歴史書を破ることで、平成仮面ライダーは型にハマるものではないと示した。
見方を変えれば、クォーツァーが用意したこれまでの歴史に意味はありませんでした! と言っているようなものである。

これを本編でやってしまうと、視聴者は意味のないものに一年間付き合わされていたことになり、ジオウの物語そのものが陳腐化する。
けれどそれは逢魔降臨歴がクォーツァーの作った計画書である場合のみで、上記で説明した通り本編の歴史書は別人物が製作したものとなるので関係がない。

そしてウォズが歴史書を破り捨てて、ソウゴがオーマジオウを継承したことで「もう歴史なんて関係ねえ! 全員集合だ!」というノリに話を移行できた。
映画の興奮から流石に冷めているだろうから、ちょっと落ち着いて考えてほしい。
この展開はメチャクチャだ。整合性も何もない。

あの平成仮面ライダー達はオーマフォームの能力で召喚したわけではない。なんかノリでやってきたのだ。
このライダーは本編のレジェンド達ではなく、性質上はグランドジオウによる召喚に近い。
故にディケイドはネオディケイドライバーではなく白い通常モードに変わっている。

加えて召喚という形式すらも完全に無視したからブレンやカチドキ斬月を呼び出せた。
斬月がポスターから抜け出した描写があったように、終盤に出現した仮面ライダー達は実在ではなく明確にフィクションから現界したメタな扱いだ。
歴史も何も関係ない! というか、この時点でジオウの本質であるはずの時間や歴史は『平成仮面ライダー』の一言にすり替えられてすらいる。

ブレンや斬月はれっきとした平成ライダーの歴史でありながら、正式ナンバリングの外にいる。
それを関係ねえ! お前達も平成ライダーだ! パーリータイム! と言えるのは歴史ぶっ壊して整合性より勢いを選んだから。
そうでなければ漫画クウガを漫画のまま登場させるなんて狂気の沙汰ができるか!
これはきちんと一つの物語として完結しなければならないジオウ本編では、絶対やってはいけない行為だ。

平成仮面ライダーはひと括りにしたくない。
それを可能にするためには、まず平成仮面ライダーを『ジオウの物語』という括りから解き放つ必要があった
(これは冬映画『平成FOREVER』も同じ構造で、根底の世界観をジオウではなく現実世界に移している)

そして『平成』を最大限強調することで『我々の平成は仮面ライダーと共にあったんだ』という、平成仮面ライダーそのもののアンサーとして作品は成立した。
これが『平成仮面ライダーの真の完結編』の本質である。

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テレビ本編が目指したジオウの最終回とは

『仮面ライダージオウ』という作品は『ジオウの物語』をかなり重要視している。
これは『仮面ライダーディケイド』と比較すると明らかだ。

ディケイドは門矢士が仮面ライダーの世界を旅して回る物語を主軸にしている。
世界の破滅を防ぐ目的はあるものの、各世界での戦いに世界破滅はあまり関与していない。

なんだったらディケイドが旅をする必要性は完結編までわからず、それでも物語としては成立していた。
世界観としての主体はディケイドではなく、旅して回る世界側にこそあるという証左だ。

『仮面ライダージオウ』はこの逆だった。
物語の目的はソウゴが最善最高の王になって、最低最悪の未来を阻止することにある。
そして歴史と戦いの裏側にある真実への伏線や、歴史の争奪戦など『ジオウの物語』も展開していた。

ライドウォッチを継承して王になるため、平成仮面ライダーに関わる数々の事件が起きるけれど、これらはその多くがソウゴのいる時間軸で起きている
過去にタイムスリップするのはあくまで事件を解決するためだ。

終盤で明かされた事実として、平成仮面ライダーを集めて世界を融合させていたのはソウゴ本人だった。
つまり物語の主軸は最初から最後までソウゴにあったのだ。
要するにお祭り物作品として見ると、ジオウはディケイドより密度は薄くパンチは弱い。
これもまた、本当の意味で完結編を本編と同一化するということができなかった要因だと言える。

けれどそれは悪い話というわけでもない。
むしろこのストーリーにしたことで、ジオウはジオウとしてきちんと独立した一つの物語を丁寧に積み上げてきた
そのためテレビ本編は一年間積み重ねてきた物語の総決算でなければならない。

そこにはノリダーや漫画版クウガのような飛び道具は必要ないし、またあってはならない。
本編は本編を組み上げながら少しずつ広げた風呂敷があり、その中で物語を展開することが、一つの物語としてとても大切なのだ。

ジオウ一話でカットされたシーンに、捨てたはずのライドウォッチがいつの間にか戻ってくるというシーンがあった。
まるで運命のように、ソウゴは『ジオウの物語』に引き込まれ、どう足掻いてもオーマジオウという結末へと辿り着く。
これによってジオウとは一年を通してソウゴがオーマジオウとなる軌跡を描いた物語として帰結するのだ。

ならば一年間ソウゴが運命に抗った物語は無駄だったのか。
そうではなく、ソウゴは本来だとオーマジオウの歴史得られなかった仲間、そして友達を得た。
最後に雌雄を決するはずだったディケイドは、今やかつて世界の破滅に立ち向かった先輩としてソウゴ達を導く役割を担っている。

歴史の結末、最後の一ページ。
その重みが最終回には詰まっている。

これは積み上げ続け、本を破り捨てなかったからこそ至ることができる。
TV本編でなければできない物語構造であり、夏映画をあえてパラレルワールドで違う完結編として描いたのは正しい選択だったと思う。

一年をかけた物語のゴールを、夏映画のように勢いで走り抜けるのではなく積み重ねを大事にして終着へと辿り着く。
それが『ジオウとしての最終回』としての本質。

故に『平成仮面ライダーとしての完結編』と『仮面ライダージオウとしての最終回』は並び立てないものだった。
けれど、どちらもが最高最善。それぞれの終わりを楽しむためにこそ物語は分かたれた。

夏映画との繋がりにモヤモヤせず、ジオウの最終回を純粋に楽しんで臨める人が一人でも多く増えることを、私は心から願っている。

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