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青いマン華鏡から読み解いたスーパーヒーロー戦記
『青いマン華鏡』は万華鏡を文字って、マンガキョウと読む。
とある男が、たまたま隣に座っている子供が楽しそうに覗き込んでいる万華鏡を懐かしみ、借りて自分も覗き込んでみる。
するとそこには、万華鏡の特有の多面鏡の世界が広がり、けれどそこに少年の人生と思わしきものが写しだされていく。
という形式で描かれる、石ノ森章太郎氏の短編自伝漫画だ。
その話では石ノ森氏の姉もと登場し、重要な人物として描かれる。
本編内で出ていた『世界の造物主』という言葉も、姉が幼き日の章太郎に言った言葉だ。
ここからは他の自伝漫画や史実も含めた話だが、石ノ森氏にとって姉は漫画家になるきっかけを作った存在であり、苦しい時間を支え続けてくれたかけがえのない人だった。
姉は喘息持ちで幼い頃から身体が弱い。けれどかなりの美人であることでも有名だ。
病弱な美人で優しい姉……実在していたのか……。
当時戦後で物資が乏しい時代、紙がないので子供用の絵本なども全然ない。章太郎少年が姉に愚痴を零すと、それなら自分達で描こうと姉が提案。
そして文章は姉が、絵は章太郎少年が描き漫画作りを始めた。それが近所の友達にも大好評。その繰り返しで、いつしか漫画を描くことにのめり込んでいく。
当然のように漫画を読むのも好き脱た少年は、ある日、手塚治虫氏の作品『新宝島』に出会い衝撃を受ける。
そして中学生になると毎日中学生新聞へ漫画を投稿。これが入選して以後投稿マニアとなる。
その間にも手塚治虫作品は石ノ森章少年に深く影響を与え続けた。
憧れだった手塚治虫氏のアシスタントに選ばれ、その伝手で高校二年生にして早くもデビューを果たす。
こうして語ると華々しい経歴だが、決して全てが順風満帆だったわけではない。
章太郎少年の父親は公務員で、安定した職業につくことを第一に考え漫画家になることを強く反対した。母や他の兄弟達は父親に従い認めない中、姉だけが章太郎少年を応援して家族を説得してくれた。
こうして章太郎少年は高校卒業後に上京した。
当初は下落合だったが、そこからのかのトキワ荘に移動。そこから割とすぐ姉も病気療養も兼ねてトキワ荘に下宿を始める。
男ばかりのトキワ荘において、美人な姉はマドンナのような存在だったらしい。
伝説のトキワ荘で自分を最も応援してくれる理解者である姉も合流し、「なんか行ける気がする!」とはならなかった……。
自分の描きたいものが全く認められず、編集者には不要と断じられる。
生活もこれまでとは一変して、雨漏りしている貧乏アパートで腹を空かせる日々……失意の中で石ノ森氏を支えたのはやはり姉だった。
けれどその姉も急逝してしまう……。
体調不良で病院に運ばれたものの、今日明日に死ぬという身体ではなかったはずだった。
直接の死因は、喘息の発作を抑えるモルヒネの量が多過ぎ、身体が耐えられなかったため。
あまりに予想外の出来事に、石ノ森氏には何の覚悟もできないまま、突然の死別だった。
幼い時代から切ない別れまで、石ノ森章太郎という一人の漫画家にとって、姉は切っても切り離させない存在だったとわかる。
形は違えど、須藤芽依は本作だと『姉』の役割だった。
ただ。これは元ネタをわかっていないと非常にわかりにくい。
章太郎役の鈴木福氏はパンフレットのコメントで芽依に対して恋愛感情を抱いているように見えないよう意識したとコメントしているが、残念ながら設定背景が見えない人は普通に美女を相手にデレデレしている年頃の少年に見えていたと思う。
これは単純に演技だけの問題ではなく、姉を連想させる演出が本編中では存在しないためだ。
元ネタがわかると隠れていた姉に被る部分と、芽依の姉としての役割が見えてくる。
まず姉は章太郎より三歳上だった。劇中での章太郎は上京の話が出ているので、恐らく高校三年生。
芽依は二十三歳で五つ上だが、割と童顔の美人なので自然に姉を連想する相手だったのだろう。
章太郎達がアスモデウスに世界からはじき出された後、芽依は漫画として挑戦する章太郎を肯定して応援している。
直接の担当ではないだろうけれど、史実では自分を冷遇していた編集者が、逆に直接の支えになるポジションでもあった。
章太郎が漫画を描いていた空間は、実際に『青いマン華鏡』でも存在したシーンで、原作だと章太郎と姉の二人である。
言い換えるとあの空間は現実の世界であって現実ではない空間。物語の世界でありながら現実と地続きの場所。『万華鏡の中』なのだ。
つまり部屋そのものは実在して、形は変われど章太郎にとっては思い出の場。
具体的に何処かというと既に記載しているが、姉と二人で下宿していた部屋は一つしかない。あの空間、しれっと出てきたが伝説のトキワ荘で、石ノ森章太郎氏が住んでいた部屋の再現だ。
さり気なく、重要なこと説明皆無で流してやがる……!
ちなみにヒーロー戦記の章太郎は当時の章太郎氏を再現している部分もあるが、結構嘘も混ざっていた。
五色田ヤツデに絵描きを目指しているのかと問われ、章太郎は塩対応したが否定もしていない。
また、編集に持っていこうとしていた作品はヒーローではなかった。
事実、高校時代のデビュー作『二級天使』もヒーロー系の作品ではない。
映画ではヒーロー作品を諦め動物系に逃げたように描かれているが、元ネタでは動物系を描きたくて描いたら編集からダメ出しされた。
『ジャングル大帝』等で手塚治虫作品から感銘を受けた結果、そこに単純な漫画の面白さだけでなく深いアート性を感じ取っていた。
そのため男女問わず楽しめて自然美を描ける動物系を描きたかったのだ。
漫画にアート性を見出していたので、絵描きになりたいで否定しなかったというのは理解できる。
ただし少なくとも、石ノ森氏がヒーローを通した人間性の描写に積極的な挑戦を見せるのは、これよりも後の時代である。
『青いマン華鏡』を物語の下地に使うのはいい。
ただ映画の物語とその結論有りきで、少年時代の石ノ森氏が抱いていた意思を変えてしまうのはちょっといかがなものかとも思ってしまった。
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