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人間と怪獣優生思想の違いの本質とは?
ダイナゼノンにおいて怪獣優生思想は最後まで抽象的な理念を掲げる敵役だったと思う。
思想そのものが勢力名の割に、その内容はあまり細かく解説されず曖昧だった。
ガウマ隊が共感をテーマとするなら、敵勢力は基本的に逆の理念で否定側に回る。
そう考えると怪獣優生思想は、人間が持つべき共感性が欠如している。
アイドル衣装かコスプレとしか思えない白い派手な格好でうろつき、何の疑問も持たず日常生活を送るのが最もわかりやすい意識差だろう。
リアル日本なら職質待ったなしじゃないかな?
そして彼らは怪獣を世界の中心に据えた思想の下で、自分達が怪獣を操り自由に暴れさせる。
・怪獣が世界を導く
・怪獣が必要とする世界
・怪獣は人類全てを抹殺する
人の情動を呼び水と糧として成長する怪獣。
その怪獣が必要とする世界を作り、導いてもらったら人類は皆殺しにされる。
どういうことなの???
なんかものすごく壮大かつ荒唐無稽な思想にも思えて、そもそも割とメンバー毎に言っていることが違う。
恐らく組織として共通理念はあっても、そこからの解釈や見解がそれぞれに異なる。
また、一番人間に対してストレートに敵愾心を燃やすオニジャですら、個人的な感情で怪獣を扱うことを決して許さない。
そういう観点から見ても、彼らは怪獣を大いなる意思として扱い、怪獣使いを明確な使命としている。
そして彼らが扱う怪獣達はアカネが作っていたものとは違い、人間の情動を餌に成長する。
供給先がちせ個人に特定されているゴルドバーンを除き、怪獣は誰かの気持ち、それも不特定の意思が形を成したような存在に描かれている。またその意思は一人とは限らない。
(シズムは情動を集める対象を蓬と夢芽の二人にしていた)
情動はマイナス感情も多いため排他的な傾向にあり、怪獣使いはそれを個人ではなく人類全体への攻撃手段として扱う。
だとすると、無意識化で溜め込まれた情動、言わばフラストレーションの解放こそが怪獣優性思想の在り方だ。
ちせを例にすると、彼女は個性的過ぎて人の輪から弾かれた。
当時の記憶を思い出すとゴルドバーンは学校に危害を加えようとするのを何とか抑えている。
人間の情動から生まれる怪獣は、行動原理もそこに連動する。
多分、本編を観た人はちせの個性を好意的に捉えて「彼女の個性は個人として尊重されるべきだ」という感想を抱きやすい。
裏を返せば彼女に理解を示さず輪から締め出した者達は悪であり、裁かれるべき者達になり得る。
けど、そういう疎外感を与える行為とは無意識や消極的な疎遠行動が積もり積もってできたものであるケースは珍しくない。
それこそ香乃が受けていたイジメと呼べるのか微妙な扱いやイジリもその中に含まれる。
第三者からすれば、香乃が傷ついていたならそれはイジメで、罰を受けるべきだと考える者は多いだろう。
そういう意思もまた怪獣を育てる情動となり得る。
同時に「加害者にその気はないケースはいくらでもあって特別に酷い話ではない」「ちせのように個性が強過ぎる子が排斥されてしまうのはある程度仕方ない」という常識的な認識も人間にはあるだろう。
そういうちせや香乃が受けた行為に近しい、無意識の攻撃というのは人類多かれ少なかれ誰しもやっている。
TwitterとかSNSだと皆気軽に言葉にして情動は『実体化』しやすくなるからもっとわかりやすい。
だから、他人を攻撃しながら実は自分もターゲットが成り立つ。
ややこしくなってきたので簡略化すると、怪獣優性思想はなんとなく集まった人間のフラストレーションを、世界を導く意思として振るう。
要は無差別テロ。二代目曰く『心の三次元化』と『感情の兵器化』だ。
それでも怪獣優性思想のメンバーにはそれぞれに人間らしい個性があった。
ムジナは無気力で流される性質だったが、暦とサシ飲みからダイナストライカーを奪った事件を切欠に、怪獣使いとしてやる気を見出していく。
オニジャは凶暴な性格ながら仲間想いで寂しがり屋。ガウマに対する敵愾心が強いのもその裏返し。謎の稼ぎ柱であり財布扱いでもある。
ジュウガは穏やかで理知的な性格であるが、裏ではかつてガウマを深く尊敬していた。
そのため今も執着心があり、怒られるのをわかっていながら敗北の報告にやってきた。
唯一の例外がシズムである。
彼は自発的に蓬や夢芽に近付きながらも、その間に感化されることはなく情動を集める餌にした。
真の怪獣使いとして睡眠も食事も必要なくなったシズムは、人間のしがらみ一切を不自由として切り捨てている。
人の理解の外、つまりは相互理解の断絶だ。だからこそ超常の力を持ち、何者にも縛られない自由を得られる。
それはまさしくガウマ達が得た絆や繋がりとは対極に位置するものだ。
【次ページ:ガウマ達の何も取り戻せていない結末】
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