セイバーは物語を描く物語になれたのか?
フォローしているのだか何だかよくやからないセイバー坂発生のプロセスの考察を語った(とても楽しかったです)。
大事なのはその根底にはシナリオ側の問題が隠れていることだ。
この話まででにこの設定を出しておくに重きを置きすぎて、イベントを消化するために話を作っている感が出る。本作はこれを感じるタイミングが多かった。
これをやると物語そのものが薄まって、繋がりも弱くなる。
イベントは登場人物の情緒や演出と絡まなければ、大事なシーンでテンションが上がりきらなくなってしまう。
厄介なことに最終章(最終回ではない)でもこの現象を感じてしまった。
世界は、全能の書によって予め始まりから終わりまでの全てが決まっていた。
その事実を知り、物語を綴る者だったストリウスは絶望した、飛羽真と対比になる存在だ。
世界の終焉が迫る中、剣士達は全てのわだかまりを捨て集い、世界とルナを救うため最終決戦に挑む。
このシーンの画作りは最高に格好良かった。演出の匠だ。
死に物狂いでロード・オブ・ワイズ達とストリウスに立ち向かう。
そして最後の最後で飛羽真は歴史書にない新しい物語を作りだす。
ワンダーオールマイティ! これまでのライドブック全部乗せ!!!!!
新しい……とは……。
ストリウスくん、本当に新しいものが生みだされないことに絶望したんだよね? これ、今までの寄せ集めちゃうん??
そもそも、全部乗せネタこれで3回目やないかい。何だったら仮面ライダーストリウスは未完成とはいえ全部の剣とブック集めた力やぞ。ギャラクシーは聖剣だけだったけど、完成版みたいなもの。全部乗せでも実は君格落ちしてない???
いやまあ、実際の設定上は新しい全知全能の書なのである意味正しいのだけど、ここまできてありきたりが過ぎる。
そしてストリウスを倒した後、皆の物語に対する思い出によって新たなワンダーワールドが生みだされ地球も存続していくのだった。
うん? セイバーってそういう話だったっけ?
理屈はわからなくもない。
要するに「『全知全能の書』君が完結しちゃったぞ。じゃあ続編行こう!」みたいなもので、それがワンダーオールマイティだ。
けれど、エレメンタルドラゴンが生まれた時のような、『続きが生み出される理屈』に説得力がない。
全知全能の書は全てが刻まれているからこそ、本の終わりが全ての終わりのはずだ。言わば絶対のメタ構造。
読者達の物語に対する想いも、全ては全知全能の書に刻まれた事柄に過ぎない。
想いが直接書かれていなくても、因果が計算され尽くされていなくては、生まれる発明品や世界の終わりまで記せない。当然その因果の中には人の感性や意思まで含まれる。
書が記されるからそうなるのか、賢人のように未来予測的な結果なのかはわからないが、人の意思なんて掌の上に過ぎないからストリウスは絶望したはしたはずだ。
例えば芽依が『北風と太陽』を読んで編集者になったのも、飛羽真が今の形で本を出すのに必要な事柄である。
全て全知全能の書に書かれていた通りにそうなったたと言うことになる。
ならば、全世界の物語に対する想いを集結したところで、それは全部書き記された情報を上回る要素は何処にもない
そもそも全知全能の書には新しい書が生まれる記述はなかったから世界は終わるはずだった。
新しい本が生まれる要素は何処にあったのです? 神秘か。神秘なら仕方ないね!
本の終わりに対抗できるのは同位以上のメタ概念『作者』であり飛羽真である(後日、新しい本を書き終え事件の犠牲者達を救いだした)。
けれど飛羽真は呼びかけただけ。呼びかけ自体も芽依の行動だった。
設定上はワンダーオールマイティには白紙が多く、願いによって新たな世界を生み出す仕組みだ。
(後、そもそも映像だけじゃこのシーンは理解し難いのでちゃんと描いてほしかった)
理屈は一応存在しており、皆の願いと想いが世界救ったという構造は、聞こえはいい。
けれど仮面ライダーセイバーは、物語全体が『世界中の皆の想いで解決する』に説得力がある構造をしているとは思えない。
ここは少し複雑なので、実例として『戦姫絶唱シンフォギア』を使って解説しよう。
当作は、シンフォギアという特殊な兵器を纏える才能を持った装者と呼ばれる少女達が人々を守り戦う物語である。
その最終章で装者達はラスボスの侵攻を止められず地球規模の窮地に陥る。
しかし、全人類が一致団結しラスボスの侵攻を食い止めて、装侵攻達は最終決戦を挑む。
装者の一人風鳴翼は自らを防人と律して人類を守る刃と化してきた。
しかし終盤『自分が戦う理由』に深く葛藤する。その時、『弱き人々を守るための刃』だった彼女に対して父は『人は弱いから守るのではない。守る価値があるから守るのだ』と言葉をかけられる。
また、シンフォギアは『人間とは絶えず争いわかり合えない生物である』という前提の元、『相互理解』をテーマにしてきた。
ラスボスの侵攻とは『全人類の人格を自分に書き換える』ことで、故に『人間達が最終決戦でラスボスに抗う=守るべき人類の価値』を示した。
セイバーは『物語』をテーマにしていながら、テーマに対する積み上げが残念ながら薄いと言わざるを得ない。
芽依の『北風と太陽』は第一話の流れを汲んでいる。けれど、それ以前に彼女が物語に対する情熱を見せるシーンはほとんどない。あるのは編集という仕事と、飛羽真と飛羽真の物語に対する情熱だ。
『北風と太陽』は遠く離れた点と点でしかなく、その間にあるべき積み重ねがないから、良いシーンアピールで出されても唐突で説得力がない。
故にオールマイティの想いを空白ページで埋めて次のワンダーワールドを作る、全知全能の書とは全く異なるシステムの後出し新設定が必要だった。
ラストの物語やヒーローを語る場面は投稿企画で集められたものだ。
画作りとしては悪くないのだが、扱われ方が一年間の流れにあまり繋がらないので、企画あり気で最後を決めた印象が残ってしまった。
と言うのも、先に上げた玲花のハグもそうだし、この後に出てきた突然のヒューマギア(中身は脚本家の人)も、突発的な流れによるもので、これまでのキャラ性や世界観を壊している。内輪へのサービスを否定したくはないが、あえてのヒューマギアは本当に意味がわからない。
物語構成の甘さが全体的に目立つので、どうしても世界に没入できずモヤモヤが付き纏ってしまった。これこそ私が本作に乗り切れなかった最大の理由だ。
しかしながら積み重ねが全て失敗していたわけではない。キャラクター単位なら良いシーンはいくつもあった。
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