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『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』感想 平成ライダーとは何かの答えがここにある

2019年7月27日

ネタバレなしの感想

ゼミ生の皆様こんにちは、語屋アヤ(@ridertwsibu)です。


昨日は仕事でどうしようもなかったのですが、今日は朝一から劇場へ向かって視聴してまいりました。

公式の告知でもTV本編は『ジオウ』としての最終回、今回の『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』は平成ライダーとしての最終回だというお話がありましたが、まさにその通りな内容でした。
テーマ性とストーリー展開共に、ものの見事に平成ライダーという作品を総括しています。

『平成ジェネレーションズ FOREVER』が視聴者視点での『平成仮面ライダー』を描いた作品なら、『Over Quartzer』は仮面ライダーという作品そのものの視点で平成ライダーとは何かを形にしました。
それぞれメタフィクション要素を強めた作品ですが、その差がストーリーにトンでもない違いを与えています。

これはまた好き嫌いがハッキリと分かれる作品でしょう。
個人的には有りというか、『平成FOREVER』でこうなるんじゃないかと思ってたこと、ある意味では不安視もしていたことを、フルスロットルで走り抜けちゃった感があります。
ここまで突き抜ければいっそ清々しい。むしろかつての微妙な扱いを受けた作品達のことすら、肯定させる巧妙な構成とエネルギーが感じられました。

そういう意味では今までとはひと味違う新しいライダー映画と言えるのですが、それでも『ぼくの愛した平成ライダーを観た!』という気持ちでいっぱいです。
良い意味でも僕らの知っている平成ライダー。
悪い意味でも僕らの知っている平成ライダー。
つまりいつもの平成ライダー!

この『平成ライダー』というパブリックイメージを、あえてものすごーくわかりやすい形で映画にしています。
MCUにおけるアベンジャーズでの集大成とはまた違った意味で、平成ライダーだからできる、平成ライダー以外ではできない集大成でした。

ではでは、ここから先はネタバレ有りの感想と考察になります。

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劇場版仮面ライダーとしても集大成の構成

本作はかなりわかりやすく二部構成になっている。
前半はクリム・スタインベルトと織田信長を軸にした過去の歴史を巡る物語。
もちろんドライブウォッチも関わってくる。

後半は全てのウォッチが揃い、歴史の管理者クォーツァーが本格的に動き出す。
そして最後の決戦が始まり平成ライダーを総括するような集大成へと向かう。

そもそも何故、このような形で構成を分けたのか。
平成ライダーの映画とは常に尺との戦いであることは、大きいお友達の平成ライダーファンなら多くの人が知っている事実だ。
ならば、分けたことには必ず意味がある。

前半はTV本編の延長線上にあるような流れだった。
けれど本来なら平成ライダーも関係しない遥か過去での冒険は第一話以来で、今回敵対するのはタイムジャッカーではなく未知の敵だ。
物語のスケールは目に見えて大きくなっている。

この時点では、まだ物語の設定も明確に本編へと寄っていて、ウォズが少しメタ発言した以外はあまり無茶なことはしていない。また、このメタ発言はただメタなだけでなく、ソウゴ達を監視しているクォーツァーにも向けられている。視聴者は別にウォズがコスプレしても混乱とかしないからね。

ソウゴの歴史に対する考え方も、『自分のやりたいと思ったことを優先すべき』という思考はいつも通りで、やはりTV本編の延長線上にある。この王様希望者はしょっちゅう、自分が現在をより良くしたいという考えで、周りを振り回して歴史を改変してきた。

この構成は平成ライダーの夏映画だ。
ディケイドによって放送時間軸がズレてからは映画の放映タイミングも変化して、映画の放映はTV本編の中盤から終盤へとズレた。
この変化によって、本編終了後や終了直前での番外編を描くことがやりやすくなっている。

また本編よりも世界観を広げて、異世界や別の歴史と関わることによってスケールを大きくする手法も夏映画ではお馴染みのパターンだ。
今回は織田信長だったが、我々はかつて江戸を統べる将軍様が白馬に乗ってレジェンド出演してきた脅威の出来事を知っている。

そして後半の流れ、これは更に二つの要素が混ざり合いながらも区分けして構成されていた。即ち、冬映画と春映画だ。
中盤、クォーツァーが本格稼働して動きだした辺りは、少しわかりにくいが冬映画の要素が強い。
中でも今回は平成ジェネレーション形式と呼べばいいだろうか。
多数の作品が混ざり合いながら、メインとなる作品の世界観を放棄せず調和させてストーリーを形成する構成が近年の冬映画である。

冬映画枠だからこそ、この時点ではクォーツァーの本編軸への介入にも違和感があまりない。
まだこの時点では映画の枠に収めていたというか、きちんと本編とストーリーをリンクさせて、ジオウの物語性を重視していた。

そして映画の終盤、オーマフォームが登場して真の意味で平成ライダーを統べる王が降臨。
他の平成ライダー達も大挙して集合してくるこのノリ。ここからは完全に集合系の春映画だ。

全員揃っての同時ライダーキックからの、新年号発表ネタのオマージュ。
全員のキックで平成の文字を作った流れは、『レッツゴー仮面ライダー』のオールライダーブレイクの突撃時に『40』の数字を作った展開によく似ている。
攻撃前と後の違いはあれど、必殺技の使用時にキーとなるワードを入れる手法を東映が意識していないとは思えない。

春映画はお祭要素がフルスロットルになるので、その分ストーリー性が損なわれて、中身が薄いと評価されるケースも少なくはない。
もし本作が頭から終わりまでラストのノリを貫き通していたらここまでの評価は得られなかったろう。

尺が厳しくても構成を分けたのは、本作が『平成ライダー』としての集大成であると同時に、『劇場版平成ライダー』の集大成としても意識しているためだ。
まさにパーフェクトハーモニー、完全調和!

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積み重ねが生んだ平成ライダーの本質

Foreverにて、平成ライダーとは群ではなく個の集合体だと示した。
本作では更に平成ライダーとは何かを突き詰めている。

https://kamen-rider.info/zio-forever/

歴史の管理者を名乗るクォーツァーは、世界観がバラバラでまるで不揃いな平成ライダーを不出来な存在として抹消した。
平成に放映されたが平成ライダーとして扱われない者達の力で、平成ライダーの歴史を美しく揃ったものとしてやり直す。

しかも平成ライダーの力が意味を持たずまるで通用しない。メタ視点のマウントポジションだ。

とてつもなくわかりやすい平成ライダーの否定である。対比としてはある意味完璧だ。
その反動としてクォーツァー、特に常盤SOUGOは役割がそのままキャラ性になってしまっており、人物としては薄っぺらで舞台放置と化していた。大物然とした外見ほど、中身には凄みや信念めいたものは感じられない。
ジオウのボスキャラはこのパターンが多いので少々残念だ。

逆にクォーツァーが平成ライダー絶対否定するマンになった功績もまた大きい。
徹底的に否定する者があるから本質もくっきりと浮かび上がる。

平成ライダーは確かに不揃いだ。
一作目のクウガと三作目の龍騎だけでも全然違う。

異なる世界。
異なる思想。
異なるライダー。
異なる人物達。

全てが全て独立した世界であり、それはディケイドが世界を繋げたことで変わった部分もあるが、それでも郡ではなく個という性質は20作品全てで揺るがなかった

この『個』はその時代に即した社会性や思想を取り込み、テーマに沿って一つの世界を徹底的に練り上げることで形作られてきた。
そして仮面ライダーやその世界に生きる者達は、その世界を全力で生きていくことで、それぞれの歴史を紡いできたのだ。
故に不揃いで、故にそれぞれが際立つ。

そしてライダーの歴史とは積み重ねだ。
昭和ライダーがあったからクウガがあり、クウガがあったからアギトがあり、アギトがあったから龍騎がある。
重ねることで許容範囲を少しずつ広げて、重なったから次の世界はまた自由な形を得られた。

そうして広がり方にすら自由さを見出した。
これらを総体として見るなら、決して美しくはないだろう。
不揃いで不格好。それを己として成長してきたからこそ、どのような枠にも決して収まらない。

バラエティ番組の企画で本気出して生まれた『G』。
動画配信という新たな時代から生み出された仮面戦隊ゴライダーと仮面ライダーブレン。
テレビドラマという殻を破ってコミカライズとして新たな世界を構築した漫画版クウガ。
舞台という流行の形式へと踏み出して生まれたカチドキアームズの斬月。

本来は舞台だけの存在が映画へと逆輸入される流れ。
漫画のキャラクターをそのまま実写に出してしまう強行突破も、平成ライダーという『枠を知らない存在』だから許される。

それぞれの最強フォームへ移った姿も、やはりそれぞれの歴史によって形作られた結晶だ。
特にタイトルロゴと化すライダーキックは、番組という名の何よりわかりやすい個性である。

何より恐ろしいのは、観ているこっちも平成ライダーだからね! と受け入れてしまう。
それは諦めや呆れの類はない。
これこそが平成ライダーだと、我々が人生と共に歩み積み重ねられてきた、最高に自由で唯一無二のコンテンツだという信頼がそこにある。

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●●●●は昭和の東映へのアンチテーゼ?

今回の映画、終盤以外で最もインパクトが強かったのは、やはり仮面ノリダーの登場だろう。
いや、正確に言えば登場はしていないのだけど。あくまで『仮面ライダーになれなかった男』だ。

あくまで一度もヒーローとしての名前は出てないのだけど、木梨猛という名称はマイナーなので本感想ではノリダーと呼ぶ。
私は以前ノリダーの登場について、かなり厳しめな否定意見を出している。

http://kamen-rider.info/zio-norider/

これを書いた当時は、まだ本作に関する情報はほぼ皆無。
平成に生きた平成じゃないライダーをメタ視点で扱う流れになるとは考えもしていなかったというのはある。

それでも、言い訳するつもりはないけれど、この所感は本作を観た後でもあまり変わってない。
どちらかというと、私の考えはあまりズレてなかったんだと確信できた。
何故なら、ノリダーはここで書いている問題のほとんどを、ものの見事に潰した上で出演している。

まず仮面ライダーとして認められていない。
当然の如く変身して戦うなんてこともなかった。

登場しているのに登場していないこの状況は、アニメ映画版ゴジラのメカゴジラを思い出した。

変身して戦わないなら元のクオリティやパロディネタは関係がない。
そもそも登場していてもライダーとして認められていないため、『安易に使わせない』という対応策が出演しながら機能している

ノリダーの性質は完全にパロディで、有り様はSDライダーに近い。
だったら出られるわけないだろという空気を、本作は根底からぶち壊している。
スパイダーバースならぬ仮面ライダーバース(オーズ的な意味ではない)を、ある意味で実行してしまった。
ここに加えて平成限定の枠もあるため、元ネタである仮面ライダー一号が出てないのに問題も回避している。

唯一こればかりは完全に誤算でノリダーなめておりました! すみませんでした! と反省せざるを得ない部分については知名度だ。
若い世代のライダーファンの多くは非公式だったノリダーの存在を知らない。それは事実だ。

前回記事で調べたアンケート結果(まさか800票以上いただけるとは思ってませんでした。大変感謝しております)では4割の人が『誰それ?』だった。

だが、そもそも知っている必要すらなかった。
変身すらせず、ただシナリオの流れでセリフを喋っているだけなのに、もう問答無用に面白い。
劇場で笑っている人めっちゃいた。私も笑った。

演技の中でごく普通にコントを成立させている。しかもソウゴはドシリアスなのに……。
ただそこにいて喋るだけでノリダーとして成立させてしまう。プロの神業を思い知らされた。
これはもう素直に参りましたと言うほかない。

ならノリダーの存在を全肯定しているかと問われれば、それはノーだ。
前回書いた記事とは全く違うベクトルで、私はノリダーについては素直に飲み込みきれなかった。

ノリダーがなぜ出演する必要があったのか。
これはまあ、出てほしい票は3割にも満たないのだから、純粋にファンサービスとは言い難い。

この事実を東映が認識していないとは思えないので、他のレジェンド出演に比べればファンサービスとしての効果は薄い
それでも出したのは平成の番外枠としてだろう。

とはいえ、ノリダーの放映開始は昭和である。
令和を跨いでもジオウは令和一号としてカウントされないのと同じで、ノリダーは分類上昭和側だ。内容も完全昭和リスペクトである。
あくまで平成ライダーの終幕を飾る存在として異質なのは否めない。

ただしノリダーの開始は昭和末期で、作品そのものとしては『平成の時代を駆け抜けた仮面ライダー(になれなかった者)』だ。
その観点として見れば枠内には収まっている。

春映画もその性質上、昭和の作風はあるものの直接的な繋がりはない。
タイムショッカーやオーマショッカーという美味しいネタすら、ヒーローショーに追いやった徹底ぶりが好きだったという気持ちはある。

また、あの場面でノリダーが必要だったかというと疑問が残る。
自分が生まれながらの王ではなく、利用されて平成ライダーから力と歴史を奪っていたのだと気付いて意気消沈する。そこへ背中を押す役の一人としてノリダーが登場した。

言っては悪いが、この役割は必要性が薄い。
ウォッチを渡す部分については詩島剛がライダーを代表して、王についての在り方はオーマジオウが大切なことを伝えた。
ノリダーがあそこにいて激励をする必要は、物語上必須ではない。

ライダーとして認められなかったノリダーだけは檻の中で、最後まで出ることは叶わなかった。
また『平成ライダーは枠に収まらない自由な在り方』だという観点からしても、ライダーとして認められなかったノリダーはそのテーマ性自体に矛盾する

ノリダーの檻とは即ち東映の許諾であり、そりゃ出れるわけがないし完全に自業自得だという話だ。圧倒的被害者面だったけど、東映からすると君は完全に加害者だよ!

そういう許容されなかった者だとしても、ライダーの世界に現れてしまった時点で『歴史の中にいた存在』として認識される。
なんせここまでメタフィクションで構成された作品のため、この解釈はそこまで不自然ではないはずだ。

いくら平成ライダーは枠に収まらず広がり続ける作品だと叫んでも『ただしノリダー、テメーはダメだ』となってしまう。
天然でボーボボのつけものみたいなコントしおってからに……と視聴した時は思っていた。

けれど、ここでもう一捻りしてみよう。
ノリダーを捕らえたのはクォーツァーであり、仮面ライダーになれなかったノリダーは、言い換えれば不揃いの不出来者として否定された。逆にブラックなどウォッチ化している面々は、歴史として認められた者達だ。

そしてそのノリダーを現在の東映はあえて出した上で、平成ライダーは枠で縛られないと声高に叫んだのである。
整理すると、ノリダーを檻に入れたクォーツァーは平成ライダーが生まれる前の東映。
ジオウ達の姿勢はそのまま現在の東映。
これ構図の上だと、平成東映が昭和東映を批判してるっ!

普通ならネーヨこんな与太話と自分でも思う。
けれど肝心要の白倉Pはアマゾンズの発表で『最近の仮面ライダーって面白くないよねっ』とか平然とぶちかます人物(これはこれでちゃんと裏の意味はあるけど)であり、正直この手の話に実績ありすぎて恐い!

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ジオウの終わりが示す平成ライダーの未来

本作における、これまでにない特徴は春映画の集合系をやりながら、ちゃんとジオウとしてのストーリーも成立していることだ。
最初に語った各劇場版の形式を融合させた手法が、これを可能にした。

ソウゴはいつものように、歴史上のレジェンドライダーと共闘することで未来をより良き形へと持っていき、きちんとした形でドライブとマッハウォッチを手に入れた
詩島剛やクリムが、このいつも通りを形作る役割を果たしている。

そうして遂に全てのウォッチを揃えて王へと即位したが、そこで常盤ソウゴが実は替え玉で真の王たる者は別の常盤SOUGOだった。
ソウゴはただ目的を達成するために、ウォズが導き利用されていただけ。
信長との出会いで語られた『歴史とは、所詮誰かが語り紡いできた物語でしかない』くだりは、そのまま『ジオウの歴史』にも当てはまった皮肉。
ちゃんと前半パートと後半パートの物語は繋がっている。

『生まれながらの王』と言われていた力はスウォルツが与えたもので、ダイマジーンを破壊したのは常盤SOUGOだった。
あれ……ソウゴがデコから言葉を飛ばして時間止めていて、スウォルツ反応して驚いていたよね?
そしてソウゴから少し離れた位置からダイマジーン壊したら、スウォルツだけでなく上から俯瞰して眺めていたツクヨミと士気付くよね? ていうかデコ文字ビームどこ消えたデコ文字ビーム。あれスウォルツが力与える前だからね、忘れてないぞ! とか色々ツッコミどころはある。

なお、未来のオーマジオウはやっぱりソウゴ本人だったので、桜井侑斗の「お前本当にオーマジオウか?」という質問も、意味があるようでなかった。
これはどちらかと言うとミスディレクションの類かもしれないけど。

枝葉の話は置いておくとして、結局ソウゴは王になるという目的を植え付けられて、歴代の平成ライダーから歴史と力を奪っていた。加古川飛流と同じく道化だ。
ただ操る者がスウォルツかクォーツァーかというだけの違いでしかない。
全ては自分が王を目指したせいで起きた悲劇。そうして打ちひしがれていたソウゴを立ち直らせたのは、歴史を奪われた側の詩島剛だった。

そして剛は全てのレジェンド達の代弁者でもあった。
彼らがウォッチを渡したのはソウゴが生まれながらの王、オーマジオウになる宿命を背負った者だったからか?
否、皆はソウゴがソウゴだったからウォッチを渡したのだ。

ソウゴはただの一度も、ウォッチを奪おうとしたことはない。
むしろブレイド達には必要なものだからと思い、返そうとすらしていた。

嘘に塗り固められたジオウの歴史。
けれど、それは問題ですらなかった。

全てのウォッチは皆、自分の意志で託したのだ。
そして常盤ソウゴもまた、その時を懸命に生きてきた不揃いの一つ。

過去の意思は嘘では欺けない。

彼の生きた歴史が本物だったから、ゲイツは誰よりも頼れる親友になった。
ウォズもまた同じ。
彼は魔王へと至る歴史書を手に、ソウゴを導いてきた。
本当にそうだろうか?

いや、最初は確かにそうだった。
計画がズレればディケイドを投入するなど、逐一修正をはかっていた。

けれど白ウォズが現れてからは、ウォズはただ導く者から、自分も歴史を掴む戦いの当事者となっていく。
そしてその中で仮面ライダーウォズの力を手に入れて、自分の力でソウゴと肩を並べた。

歴史が変わったから、本来あり得ないトリニティの歴史が創られたのだ。
この時、ウォズは祝った。
ゲイツの介入によって歪みが生じることを嫌っていたウォズが、誰も知らない歴史に辿り着いた道を、だ。

騙され心までボロボロになったソウゴを見てもなお、ウォズは我が魔王と呼ぶことを嫌ってはいないと自覚した。
自分のせいだと打ちひしがれるソウゴに、自分が誘導したからだとさり気ないフォローを入れた。
ゲイツに同類と言われ感情を爆発させたのは、その自覚が本当はもうあったからだ。

ウォズは作りたくなっていた。
ただの傍観者ではない。ソウゴに惹かれ、偽りの魔王を本当に我が魔王だと信じたくなっていたのだ。
我が魔王が歴史を創り未来を拓くことを、心から応援したくなっていた。

たとえオーマジオウへ至る未来は変わらなくても、トリニティの分岐は意味があった。
これこそ決して欺けない真実の意思なのだから。

オーマジオウが語りかける。
私は生まれながらの王ではなかった。
それでも王になりたいという意思に偽りはない。

なら何故王になりたかったのか。
それは自分のためではない。人々の幸せを願っていたから。
アナザージオウⅡを倒した時に見た皆の笑顔こそが、ソウゴの創りたい未来。

それに気付いた時、最低最悪の魔王は、真の意味で最高最善の魔王に成った。

ウォズはオーマフォームを祝い、歴史書を破り捨てる。
これこそ、真実の意思が生んだ新たな歴史が、欺くために敷かれた歴史を壊した瞬間だ。
あの瞬間にこそ、誰も知らないまっさらな未来が生み出された。

ここから未来がどこに向かうのか。
それはもう誰にもわからない。

それでも言えることがある。
歴史が変わり消えたはずのゲイツとツクヨミは再びクジゴジ堂へと戻っていた。
死んだはずのウォズは生きていた。

歴史ごと消えたはずのライダー達もまた変身能力を取り戻している。
あり得ない事象。
説明も何も成されない。

ただのご都合主義と言えばそれまでのことだろう。
だけれど、これは真実の意思が紡いだことで生まれた希望だ。

ソウゴがいる。
クジゴジ堂に皆がいる。
平成が終わろうとも、平成ライダーの歴史は紡がれていく。
希望は消えずここにいる。それでいい。

希望のない未来など、未来とは呼べないのだから。

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