どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

仮面ライダーの情報や面白そうなネタを求めてネットを彷徨っていると、(特にTwitterで)ちょくちょく目に入るのが『仮面ライダーは子供向けだから』という話です。
クウガ以降のライダーが子供向けか大人向けかで議論する時は大部分がネガティブな内容なこともありますが、どうしてもモヤモヤがあります。

私はブログだと視聴対象者という意味で、大人や子供という表現はあまり使わず、意図的に『小さいお友達』とか『大きいお友達』という表記をするようにしています。
(それだと話の本質的な意味が伝わりにくい場合はその限りではないですが)

『ぶっちゃけそんなの楽しければどっちでもいいじゃない』と言ってしまえるのが理想であり、綺麗事です。本当は綺麗事がいいんだもん!
しかし現実はクウガではなく龍騎世界で『ライダーの戦いはやめてモンスターだけ倒すべきだ!』と参加者に訴えかけるようなもの。ファイナルベントが飛んできます。言葉で。

ハッキリキッパリ言ってしまうと、『子供向けの作品を大人が楽しんでもいいんだよ』って理屈を、仮面ライダーに対して振りかざす行為が、私は好きではありません。
仮面ライダーは大人向けだというのは、なんかもう見るからになんか勘違いしている人感あるので、ぶっちゃけ大量の人達にバッシングされてすぐ消えます。
むしろ子供向けですと言って「俺はわかってるよ」感出している人の方が場合によっては火種を広げてしまう。

数多あるヒーローの中で、根本的に仮面ライダーという作品の対象層の選定と取り込み方は複雑です。だからこそ諍いが生じています。

そういう作品に対して、わざわざ子供向けを強調する理由は?
大人向け論だけでなく、子供向けが正しいという言葉に乗りかかりバッシングする人達を見て「もううんざりだ」と思っている人も、私はSNSでたくさん見てきました。
〇〇だから子供向けだ! 〇〇だから大人向けだ! と、一面だけを切り取って強調するから互いに反発が起きるのです。

君達は0と1しかないの? ゼロワンなの?
ゼロツーとか001とか他にもたくさんいるでしょ?
私は1型が好きです。Figuarts化はよ。

また、一部ですが『仮面ライダーを大人向けだという人間=子供を無視して楽しむ大人』として考える層もいます。
これは今回の考察とは根っこから考え方がズレていて、大人として子供に配慮するなんてことは、子供向けか大人向けか論争以前の問題です。
電車の中ではお年寄りや体調の悪い人に席を譲りましょうレベルな、仮面ライダー云々以前のお話をしたいわけではありません。

あくまで子供向けと大人向けの持つ意味を考えて、じゃあどこをどう読み解けばその答えは見えるのか。私はそれがマーケティングであると思っています。

マーケティングとは売り手の意図です。この作品は誰に売りたかったのか。どこに層に向けて作ったのか。
売りたい相手とは必ず視聴者層になります。当たり前ですよね。だって見ない人は玩具買いませんから。

『〇〇だから~』だけの見方では一面的にしか物事は見えません。
きちんと作品シリーズの流れに沿って、客観的な事実と事実を結び付けた上で、売り手の意図を考察する。
それが子供と大人向けの真実に辿り着くルートだと私は考えます。

前置きという名の予防線が長くなってしましたが、それでは始めていきましょう。

最初のクウガからして純粋な子供向け作品ではない

仮面ライダーがどの層に向けた作品かというのは、『平成(令和)ライダー』という大枠の中でも、時代に沿って変化していっている。
それは必ずしも『今の子供に向けた作品』だという意味ではない。

そもそも平成ライダー一作目であるクウガの時点から、仮面ライダーは純粋に子供向けのみとして作られた作品ではなかった。
そして子供向けだけに絞られていなかったからこそ、今日までの発展があった。

クウガは『子供だましの作品にしない』が大前提として製作されている。

『悪の秘密結社に改造された男』というそれまでの仮面ライダーにあった大前提を廃した。
非現実的な部分に可能な限り理屈付けをして、物語の整合性を重要視している。

現実に怪人が現れたら警察はどう対応するか。それを大真面目に考えて警察へ取材もした。

他にも、主人公の五代雄介に『今時の爽やかなイケメン』であるオダギリジョー氏を採用したこと。
これもかつてのヒーロー作品の子供っぽい様式美を排除したからこそ追加できた要素だ。

最初から作品に興味があって観る場合では、イケメンは作品要素の一つでしかない。
だがクウガ当時の仮面ライダーは、古くて終わったコンテンツ扱いだった。

父親は昔見ていた特撮ヒーローだが、母親は本当に何の興味もない状態からのスタートになりやすい。
子供が観ているから視界に入るとか、なんとなく一緒に画面を眺めるぐらいの認識から、興味を持たせるためのフックがイケメンである。
どんな形であれまず興味を持たせなければ、作品の中身に繋がらないのだ。だから当時はイケメン俳優であるだけで大きく騒がれた。

それだけ新しく斬新な作品スタイルだっただけに、当時は様々な弊害にも直面している。
グロンギの起こす残忍かつ冷酷な事件の数々は、子供に見せるべきではないと大人からクレームが何度も入っていた。
結果として後半マイルドになった部分はあるものの、作品本来のテーマ性については妥協していない。
善悪を越えて、暴力で解決することを強く否定したグロンギとの戦を描ききったことはあまりにも有名だ。

これらはどれも『子供向け』という言葉で思考停止していては絶対に生み出されなかった

では、これらの物語はどこに向けられていたのか。
ここまで重厚なストーリーや演出で作品を作れば、そりゃあオタクという人種は黙っていない。
ただし今回に限って言えば、立ち位置としての重要度はそこまで高くないと考える。

オタク層は今も昔も情報強者であり、良い作品なら自然と寄ってくるだろう。
かといって、その層に対して作品を寄せてしまうと、根幹であるターゲットが揺らぐ。
新生した作品だからこそ、あっちもこっちもではなくハッキリとした対象を持たなくてはならない。

そのため子供がメインターゲットなのは間違いないのだ。
子供に見せるからこそ、『正しさとは何か?』や『怪人と戦うから暴力を振るっていいのか?』という問題をしっかりと描いた。
販促の事情などどうしようもない部分もあるが、現実感の追求は最初から最後まで追求されていた要素だ。

そして『子供』を軸にして広がる層もその対象に含まれる。何故なら子供には意思があっても決定権がない。子供に玩具を買い与えるのは『親』だ。

仮面ライダーというコンテンツは長らく停止していた。
それを復活させてクウガを2000年に放映したのは、単に数字的なキリの良さ故にではない。

かつて仮面ライダーにハマっていた子供が父親になる。そのタイミングを意図して待った。
特撮そのものに興味のない母親は、イケメン要素が作品に触れるきっかけとなった。
練られたアクションや高いドラマ性で大人も夢中になれば、玩具の購入に繋がり易くなるだろう。

つまり仮面ライダークウガは『子供』を主軸に『ファミリー向け』作品として生み出された。
『子供向け』と『ファミリー向け』は近いようでいて天と地ほどの差がでる。『大人の視聴に耐えうる』が必須となるのだから当然だ。

大人が子供と共に楽しめる作品。
親近感や作品イメージが他より良ければ、子供に玩具を買い与えやすくなる。
親子二世帯論は常に意識されてきた仮面ライダーにおけるマーケティングの基盤だ。

龍騎や電王が広げた平成ライダーの世界

仮面ライダーの作品イメージを大きく変えたクウガだけれど、当時はまだ物語に道徳性が強く『説教臭い』という否定的な意見もあった。
これもまた番組を観た子供に何が残るか、大人が子供にどう向き合っていくべきか。視聴者の心に何が残って欲しいかを真剣に考えた結果だろう。
そういう意味でも、子供とその親の視線に合わせようとした実験的作品だった。

続編であるアギトは、クウガ以上にシナリオから『子供向け』要素を廃している。
変身ヒーローや格好いい戦闘シーンは勿論子供が喜ぶことを重視しており、シナリオも子供が退屈しない要素も意図して入れている。

けれど『子供のため』を意識するより、よりエンターテインメント性を重視したシナリオなのは事実だ。
それはクウガを上回り、シリーズ歴代最高の視聴率という結果が物語っている。

仮面ライダーに訪れた次の転機は、皆大好き『龍騎』だ。
ここで仮面ライダーという作品は一つの脱皮を果たした。

日曜の朝から、これまで人間の自由と平和を守るヒーローだった仮面ライダー達が、自分の願いを叶えるために殺し合いを始めた。
もう発想やコンセプトからして完全に子供向けのそれではない。

ごく普通にライダーの中に犯罪者がいる。
ゲーム感覚で戦いを愉しむ者もいる。
ただ幸せになりたかっただけで無残に消えた者もいる。

番組に大人からの苦情がバンバン入り、本作ばかりは初代仮面ライダーである『藤岡弘、』氏も苦言を呈する程だった。
作品を観た大人が『子供向けとは……』と真剣に考え出すレベルである。

同時に作品そのもののインパクトは絶大だった。
私が初めてちゃんと視聴した平成ライダーは龍騎であり、ゾルダが初めてファイナルベントという名の全弾発射であらゆるものをぶっ飛ばす回だ。
モニターの前で『ぼくの知ってる仮面ライダーと違う』とあんぐり口を開けて完全に引き込まれた。

反面、作品が暗くなりすぎないよう配慮して、変身や戦闘で使うアイテムはより子供受けしやすいカードゲームをイメージしたものになり、怪人もゲームのモンスターみたいなデザインとなった。
以後の仮面ライダーの変身アイテムは単純なベルトだけでなく、日常的なアイテム要素が取り入れられていく。
この一歩間違えればゲーム感覚の殺人扱いをされかねない絶妙なアンバランスさが、龍騎の独特な世界を形作っている。

そして、それはこれまでよりも広い視聴者層の獲得に成功した。
この流れを利用して、もっと広い世代に広告塔のように打ち出したのが、ゴールデンタイムに進出したTVスペシャルである。

当時私は中学生だったが、オタク仲間だけでなく普通の生徒ですらたまたま番組を視聴して、仮面ライダーの固定概念を崩されたことで興味を抱いていた。

クウガ~龍騎の三作品の流れを見ても、仮面ライダーにとっての『子供向け』に対する要素や姿勢が、明らかに変わってきているのがわかる。
その後もファイズやブレイドなど、かなりハード路線な物語が続いた。

そしてファミリー層以外にも広く周知され、視聴者層の幅も着実に広がっていたのだ。
事実として龍騎は玩具の売上も平成ライダー一期で最大値を叩き出した。

しかし、この頃の仮面ライダーは決して安定していたとは言い難い。
アギトからブレイドまでライダーが続いたのはシリーズ的に既定路線だったわけではない。

むしろブレイドの次は当初『変身忍者嵐』になる予定だったが、スポンサーの意向でライダー続投となった。
その要素を一部残した響鬼はデザインも設定も、いつも以上に仮面ライダーらしさから離れており、それでもライダーとして成立してしまう。
ここで初めて白倉Pは仮面ライダーを明確に『平成ライダーシリーズ』として意識したという。

子供向けや大人向けから話がズレてきているように思えるかもしれないが、このシリーズ化がしごく重要視されていくことになる。

そしてもう一つ起きた要因として、東映は響鬼で売上を大きく落とした。太鼓と少年の成長を見守る物語は、父親を中心とした大人にウケても、子供には全然ウケなかったのだ。

仮面ライダーを続行したらいきなり大不調に陥り、けれどシリーズ化からはもう逃げられない。
次なる転機は、令和になっても新作映画が製作される人気作『仮面ライダー電王』だ。
電王では怪人であるイマジンを桃太郎よろしく主人公のお供にして、モモタロス達の声に人気声優をあてた。

怪人にドラマ性を持たせる試みは、ファイズから生まれ創意工夫されてきたものだ。
それらの多くは人の心を持った怪人の苦悩に当てられている。
その狭間にある壁を乗り越え、人間と手を取り合う。そしてそこに生じる友情や悲劇を描いてきた。

それを電王では、ある意味安定化しつつあった怪人ドラマ路線に一石を投じた。むしろシンプルに『人間の味方をする良い怪人』ぐらいにデフォルメ化して、怪人を明るく楽しい存在に変えてしまったのだ。

下手すると作品をチープにしてしまう荒業。
だがしっかりとした個性付け、異形感がありながらも愛嬌のあるイマジンを、軽快ながら骨太のストーリーに乗せることで、子供と大人の両方から愛されるマスコット化に成功した。

実質キャラソンである挿入歌は主人公とイマジンのデュエットソングであり、物語後半からはOPテーマの歌すらかっさらった。スゲーじゃん!
今風に言えばイマジン達はアイドルのような扱いだったとも言える。

これで子供人気を取り戻すと同時に、アニメ好きのオタク層がより強く深く取り込まれていく流れができた。
元々特撮とアニメで親和性が高かったのを、よりアニメ側に寄せてきたイメージが強い作品だ。

平成ライダー二期と称されるようになるのは『仮面ライダーW』からではあるが、平成ライダーにおける歴史的な分岐点として見るならば、それは電王である。
電王が生み出した、アニメ寄りなドラマの作り込みは、現在でも活かされている重要な要素だ。

アニメ寄りの濃いキャラ付けは前作カブトの天道達が基盤になっていると考えているが、それを一種な完成形に持っていき定着させたのは電王だろう。

後続作品の『仮面ライダーキバ』がスタートしても、異例の続編となる劇場版等が制作され電王世界の広まりは止まらない。
ディケイドから始まったと思われがちなライダー作品同士のクロスオーバーも、実は電王とその後に続くキバが最初である。
(世界観的に実質リンクがない龍騎のハイパーバトルビデオなどは含めない)
現在ほどではないものの、ここから平成ライダーの安定感も目に見えて向上していく。

ディケイドが破壊し繋げたのは視聴者層

次に大きな転機――というかもはや仮面ライダー後期のレールそのものとなり、平成ライダーを今の時代へ繋げる最大の岐路となったモンスター作品が『仮面ライダーディケイド』である。
ディケイドは各世界のライダーを平行世界の形式で一つに集約した。
一見すると単純なお祭りものに見えるが、これは本当にとんでもないことである。

平成ライダーはこれまで、それぞれに独立した世界観を構築することにより、作品毎のアイデンティティを作り出してきた。
そのため作品単位での繋がりは実質存在しない。

クウガとアギトの関係は特にそれが顕著だ。
アギトは実質クウガの続編的な立ち位置だが、クウガとはあくまで別世界となっている。
これは五代雄介が守った世界を大切にしたためであり、現在で言う『クウガの世界』をそれだけ大切に扱っていたのだとわかる。

ディケイドはそうして明確に分けられていた世界線を、なんと平行世界として分けたまま扱いながらも、平成仮面ライダーという一つの世界観としてまとめることに成功した。
電王がやろうと足を踏み出したクロスオーバー路線を明確化した。これは平成ライダーにおいても前代未聞の大事件である。

いわばディケイドは、各平成ライダー作品間にあったメタ視点という名の『世界の壁』を破壊した。
そしてもっと大きく柔軟性のある『平成仮面ライダー』という名の枠で繋いだのだ。

これによって何が起きたのか。
かつての平成ライダーは世界が一つひとつ孤立していたため、次作が出る度にかつてのライダー達は過去の存在となっていく。
そうやって時代に流されていった過去のライダー達を、ディケイドは再利用可能なコンテンツとして定義し直した。

また、これによって視聴者の視点もまた大きく変わる。
ディケイドによる世界を繋ぐ形式を一番喜ぶのは今の子供ではなく、過去に子供だった大人だ。
過去のオリジナルキャストで誰が出るかをネタに一喜一憂しているのは現在でもまるで変わらない。

ディケイドはあえて本家のライダーではなくリ・イマジネーションと呼び、オリジナルとは異なるディケイドにおける平行世界のライダーとして作り直した。
これにより各ライダーは独立性を保持したままでありながらも、ディケイドの世界観へと置き直されている。

これは過去作の完全踏襲に対する上手い逃げ道でもあったが、それ以上に巧妙なバランスと展開をもたらした。
たった二話で過去作品を一本を消化するハイペースに、オファーを出しても必ず出演できるわけではない過去作の俳優達。
これらを再構成の概念が全て吸収した。

オリジナルの世界ではないから、各世界の主役ライダーは全員別人だ。
多少の設定改変やミスは『ディケイドの○○世界』だからという理屈で強引にねじ伏せる(一部流石に問題視されたものもあったが……)。

また視聴者は知らないライダーでも、ディケイド世界のフィルターを通して過去作を見ることができるので、原作知識を必要としない。
もちろん知っていればより楽しめるようにも作ってあるが、過去作を知らない初視聴者への意識は大変強い。

過去のライダーを知らない人がディケイドを視聴する。
そして各世界のライダーで気になったタイトルがあれば原作に手を出す。
ディケイドは原作未視聴者には平成ライダーカタログの役割も果たしていた。
これもコンテンツ再利用の流れを強化している。

次作W以降でもディケイドは度々作品に関わっている。
『壊して繋ぐ』の思想は劇薬であり、同時にこの後再び訪れる『平成ライダー存続の危機』に対抗する基礎作りでもあった……。

不人気の集合映画が連発された大人向けな理由

ディケイドが各ライダーの世界観を繋ぎ、遂には昭和も含む主役(と一部サブライダー)を取り揃えたオールライダー映画を生み出した。
総勢二十人以上のライダーが並び、協力し合って怪人達と戦う姿はそれだけで壮観である。まさにドリーム。

けど『夢は夢や』という現実もまたある。
現実の問題としてライダー揃えても物語の尺はこれまでの映画作品と変わらない。
ライダーが一堂に会すると一堂に会するための作品になってしまう。

MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)における『アベンジャーズ』のように2~3時間の長尺作品でシリーズ化できるなら話は変わってくるだろう。
(これをライダー作品で上手くやっているのが仮面ライダーSPIRITSだと思う)

だが、仮面ライダーの映画はむしろ通常の映画作品と比べても全体的に短い。
そのためライダー集合映画は揃えて一通り戦闘させるだけで大きく尺を使い、肝心の物語がどうしても薄くなってしまう。

集合系作品はシナリオ的にも無理が出やすく、平成ライダー本来の持ち味だった整合性やドラマ性とも相性が悪い。
本当にオールライダー出しちゃった『レッツゴー仮面ライダー』やスーパー戦隊とのコラボ『スーパーヒーロー大戦』系作品がわかりやすい例だろう。

こういうスペシャル感は、子供受けという意味では一定の効果があるかもしれない。
けれど、子供騙しの脱却から始まった平成ライダーが子供騙しに戻ってしまう。本末転倒な事態である。

そのためライダー集合系は、例外もあれど他作品と比べ視聴者評価の低い作品が多い。
(この傾向は多作品集合系枠になっていた春映画が特に顕著となる)

それでも集合系作品はディケイドから始まりジオウまで脈々と続いた。
では何故そこまで続いたのか。不人気と知りつつ続ける必要性はどこにあったのか?

先に解説した通り、平成ライダーとは親子二代のライダーファン構造を下地にしている。
親が見ていたから子供にも見せる。
親がかつてライダーチップスや変身ベルトを欲しがったから、子供にも同じ類のグッズを買い与える。そういう構図が成り立つ。

親子二代論で玩具を売る流れは大きな成功を収めたが、この構造には大きな欠陥があった。
正確には仮面ライダーシリーズがここまで長期化すると誰も思ってなかったので、当初は問題にすらされなかった要素でもある。

仮面ライダーシリーズは途中で何度か途切れている。特にBlackとRX以降は真~Jの単発作品になる。それも三作で途切れてシリーズにかなり長期的な穴が開いた。
しかもこの時期とはウルトラマンも不在で、仮面ライダーどころか特撮冬の時代とすら言われている。
するとどうなるか。仮面ライダーや特撮に愛着がない親の世代になるのだ。

東映特撮作品において、玩具の売り上げは本当に重要な要素だ。
クウガは当初続編制作の予定はなかったが、玩具の売り上げが抜群に良かったためアギトの製作が決まった。

逆にクウガの前放送枠にあたるロボコンも、当時の作品人気は低くない。平均視聴率もクウガに比べて意外と大差はなかった。
けれど玩具の売れ行きが芳しくなかったので次に繋がらなかったのだ。

平成ライダーで最も玩具の売り上げが伸び悩んだ響鬼も、事実として後半に大きなテコ入れが入った。
玩具の売上げは東映特撮においてまさしく生命線である。
(安易に響鬼を批判したいわけではなく、リアルタイム視聴者達の大部分にとって作品の急激な方向転換は純粋に大きな衝撃だった)

東映はこれまでの親子二世代戦略以外に、玩具を売り込む経路を開拓することが必須だった。
そこで選んだ路線が仮面ライダーブランドの強化なのだ。

親がライダーへの馴染みが薄くても、ライダーそのものが超有名なら関係ない! って理屈である。
ドラゴンボールに興味がない人でも、ドラゴンボールは超スゲー漫画だと知っているのと同じだ。
そして、そのためには仮面ライダーをより広くより大きなコンテンツにしなければならない。

これまでの平成ライダーは世界観の独立が、その拡散を邪魔していたとも言える。
龍騎が好き! って人が、それを想い出にしてしまったら、そこで話は終わってしまう。現行のライダーにも興味を持ってもらわないといけない。

逆に新旧問わずファンが付けば、それだけ純粋な市場規模も広がる。
単純に規模が大きくなれば、より人は集まってきて様々なメディア展開だって可能だ。

定期化された集合系映画はブランド化戦略の重要な要だった。
これはディケイドがコンテンツの再利用方法を確立した流れの発展形だ。
当初は集合させるための繋ぎ役としてディケイドは重宝されたが、次第に集合させる要因も多様になり曖昧化していった。割とよく時空が歪む。

先に散々不人気扱いしたが集合系作品にも重要な魅力がある。それはレジェンドライダー達の出演だ。
過去作のオリジナルキャストが出てきて現在のライダー達と絡みつつ変身する。
作品人気は賛否あっても、今でも出演してくださる姿勢が大変ありがたいことに変わりはない。今の子供達ではなく大人達へと向けたファンサービス要素の方が強いだろう。

また、レジェンドの登場は新規視聴者に過去作の視聴を促す効果もある。
仮面ライダーのように作品数が多いと、新規視聴者は「どれ観ればいいの?」と迷うことが多い

特に平成ライダーは世界観の繋がりがないので、最初のクウガから視聴する理由も薄い。
そこに新作映画で『この作品のキャラが登場するよ!』と言われると、「じゃあその作品を履修しよう!」となる。
視聴後に「この作品が気になる」となっても、同じ効果は発揮されるだろう。

なら現実に、このブランド化戦略の効果はあったのだろうか。
事実として、特撮冬の時代による玩具売り上げの低迷時期は訪れている。
白倉Pは仮面ライダーウィザード放送期に2014年危機を唱えており、そこが最大の山場だと語っていた。
それが平成二期で最も玩具売上が低迷したドライブと被っている時期だ。
(実際の売上最低値は翌年期ではある)

仮面ライダードライブはドライブドライバーとシフトカーの評価も(他のベルトに比べると)高くはなかったものの、それだけとは思えない程に、バンダイの売り上げは大きく落ち込んでいる。
その原因は妖怪のせいである。

超ヒット作、妖怪ウォッチの来襲だ。
元はゲームやアニメ等広いメディアで子供達を虜にしたモンスターコンテンツだった。

クリスマス商戦で妖怪ウォッチは完売だらけなのに、ドライブドライバーが売れ残る哀しき展開。
もちろん純粋な面白さによる人気も大きいだろうけれど、懸念されていた親のライダー意識が薄い時期に、他作品へ人気を持っていかれる事案が現実化したのだ。

実際の売上数字(Wiki調べ)だと、平成二期の最大売り上げであるオーズ/フォーゼ(2011年)が283億円であることに対し、ドライブ/ゴースト(2015年)は157億円。半分近くにまで下がっている。ヤベーイ。
ただし、そこまで売上が落ちていても致命傷には至らなかった。

そもそもこの数字は平成二期基準であり、平成一期だと作品単体で最も高い売上は龍騎(2002年)で139億円である。
平成ライダーの玩具売上はディケイド以降急速に伸びている。
ディケイドは放送期間の短さから単体の売上はそこまで高くないと思われるが、一年スパンだとWも合わせると前年度から約二倍に上昇した。

最底辺まで下がっても平成一期の最大値を下回ることはなし。
そのためか、ドライブの売上が落ちても響鬼のような目に見えるあからさまなテコ入れは発生しなかった。
ドライブの売上が不調だったことすら知らないファンも少なくない。

子供人気を妖怪に掻っ攫われても、ある程度売上を保持できた。
響鬼時代で味わった荒波を立てず、特撮冬の時代を乗り越えるだけの地力――ブランド力を仮面ライダーは身に着けたのだ。

仮面ライダーファンでも、コアユーザーは子供だからと大人に向けたブランディング化を無視して語る人は多い。
だが、このダメージ軽減がなければドライブには作品単位でのテコ入れや、最悪シリーズの休止といった事態が起きていたかもしれない。
少なくとも、それだけの危機感があったから東映はブランド化戦略に血道を上げた。

この戦略は評価に賛否が強い作品を何度も生み出すデメリットもあった。
新規客を得るルート開拓は相応のリスクを伴う。新しい誇りには新しい痛みを伴うとアギトもOPで言っていた。
それでも実行したのは、そうする必要があったから。

ここまで大人向けのブランド化を為せたから、平成ライダーというシリーズは昭和ライダーよりも遥かに長期化して生き残った。

特撮コンテンツでは、大人が子供から作品を取り上げて楽しんでいると何度も批判されてきた。
事実は違う。大人が買い支えられる環境が用意されたから、今も昔も変わらず子供達が楽しめていると表現した方が正しい。
仮面ライダーとは『子供を主軸にして、計画的に大人層も取り込んでいる全年齢向けコンテンツ』が現代の本質なのだ。

私が本当に言いたい子供向けと大人向けに対する理想的な回答は、この考え方をベースにして更にもう一歩踏み込んだところにある。
またその踏み込んだ答えを、仮面ライダーは私達対して、目に見える形で既に示してくれている。

後半は一度は落ち込み二度目の低迷期を味わった平成仮面ライダーが、どのような復活と発展を遂げたか。
そして仮面ライダーが仮面ライダーだから辿り着いた、他の特撮にはない唯一無二の境地を語る。

後半は下記からどうぞ。