火野映司の欲望とその代償
火野映司の死が理不尽に写る理由の一つは、彼には生き残る理由やフラグが、いくつか見えていたことによる安心感があったからではないだろうか。
まず映司にはゴーダが取り憑いていた。
そのゴーダは彼の欲望を元にして生まれたため、映司をたかが人間とは見下さずにリスペクトしていた。
裏切りフラグも同時に立っていたが、それが理由で主役が本当に死ぬというのは、仮面ライダーでなくてもかなり稀な展開だ。
またアンクならば、映司が復活するまで取り憑いておく選択肢もあっただろう。
少なくとも、今度はアンクがいつかの明日を待って映司を助ける形にすれば、もっと希望のある終わり方になった。
しかし映司はそれを拒否してアンクを追い出し、自ら死を選んだ。
まるで、こうすることが自分にとって当然であるかのように。
この理由を理解するにはアンクとゴーダ、そしてオーズの作品思想を改めて掘り下げる必要がある。
アンクとゴーダはコインの表と裏のような存在だ。
ゴーダにとって映司は自分を生み出せる程の強大な欲望の持ち主で、父親と呼んでも間違いじゃないだろう。
『歌は気にするなと言ってほしい』
『コンボを使ってみたかった』
これらから見ても、ゴーダは映司に成り代わるだけでなく、その行動をなぞり欲望を果たそうとしていた。
しかしグリードは本質的に自己中心で利己的な性質である。
ゴーダは、巨大な力を手に入れたいという部分だけに着目して、それ自体を映司の欲望と解釈した。
それでも映司が抵抗するまで捨てる気はなかった。
一緒に欲望を叶えようとしていた所からも、映司をリスペクトする意思は本物なのだ。
ではアンクはどうだったろうか?
アンクはずっと捻くれた行動で映司に反発し続けていた。
しかし、アンクは映司の『他人の命を守りたい』という意思にだけは強い信用を寄せていた。
映司が強大な力を求めるのは、誰かを助ける力が欲しいから。
行動と目的のうち、行動だけを着目したゴーダとは対照的で、アンクは映司の目的こそ重視して感化されてきた。
本作でもアンクは『自分の得にならないことはしない』と王との戦いに協力することを拒否した。
しかしすぐに交渉条件としてアイスを要求する。
これはもはや、映司を助ける理由を得るためにアイスを求めている状態だ。
アンクは映司の力を求める部分ではなく、在り方や生き方をリスペクトしているのだ。
この裏表の関係は他にもある。
ゴーダは映司の欲望によって誕生した。
アンクは映司の欲望によって復活した。
生命の誕生と死者の復活。
これこそまさに、映司を通した裏表の存在と言えるだろう。
鴻上ファンデーションでも、新しいコアメダルの開発は難航していた。
その停滞を打ち破ったのが映司の巨大な欲望である。
この時点でグリードの原料は人間の欲望だと示されていた。
もっと振り返れば、紫のメダルは人間に取り憑き、グリードとしての肉体を構成するに至った。
そもそもグリードは、セルメダルを増やす媒体として人間を使用している。
つまり人間の欲望が化物を作るという思想は、本作で生まれたのではなく本編から元々あったものだ。
そう考えると、よくわからなかったアンクの復活も同じ理屈で大方説明できる。
映司は自分の願い、つまりは強い欲望で、アンクの欠けたメダルを修復したのだ。
願っただけで復活できるなら、もっと早く復活してなければ流石におかしい。
グリード達は古代の錬金術師達によって生み出されたので、メダル再生にも恐らくは何かしらの手順を踏む必要があったのだろう。
そして映司は序章の段階で、アンクの復活方法はもう見つかっていると比奈に答えた。
だが、その時に至ってもアンク復活は実現できていない。つまりは実行できない理由があると考えるべきだ。
また、たとえアンクの復活まで届かなくても、そこに至る手順で実行可能なものがあれば先にやっておこうと考えてもおかしくない。
つまり映司はアンク復活における最後のトリガーこそが、ゴーダを生み出せる程に巨大な自分の欲望でアンク復活を願うことだった。
アンクの復活方法を誰よりも強く探し求めていた映司は、けれど最後の最後でアンクの復活に踏み切れなかった。
そこにあるのはゴーダ(誕生)とアンク(復活)の差だ。
例えば、人間が子供を産む場合には様々なリスクはあれど、それらは一定の手順や注意を払えば、特殊ケースを除いて命懸けの行為にはならない。
あえて機械的に言うと『誕生』にかかる一般的なコストは、高いかもしれないが法外という程ではないのだ。
では、復活はどうか。
そもそも生命復活は生命操作技術として確立されていない。
人間なら重体からの回復は、生命誕生よりもずっと複雑で困難な道になることは珍しくない。
例えば、心臓等の臓器移植は現在の医療技術が凄まじい域に達しているからこそ可能になったことで、本来の自然界だけではまず有り得ない事象だ。
不可能を可能にしているから、そこには莫大なコストが生じる。
そしてコストとは犠牲とも言い換えられる。
臓器移植の手術は、医者が時間を犠牲に技術を習得する。
必要な機材は、誰かの時間と、様々な素材を犠牲にして制作される。
そして移植する臓器は、別の誰かの臓器が犠牲になる――。
『楽して助かる命はない』
火野映司が、そして本作ではアンクが言った台詞だ。
これは現実に即した言葉だからこそ重みがある。
それをあえてアンクの口から言わせたのは、彼に自覚を促すためでもあるだろう。
即ちアンクの蘇生には、誰がどういう犠牲を払う必要があったか。
例に出した臓器移植は、大変な医療ではあるが、大前提として患者はまだ生きている。
対するアンクは既に死んだ存在だった。少なくともアンクはそう自覚していた。
これは決して軽い話ではない。メダルの塊が『死』を自覚することで自らの『生』を意識できたのだから。
その重みを、視聴者もまた受け取っていたはずだ。
ならば、アンクは誰がどれだけ生き返って欲しくても、生き返った時点で『死ぬからこそ生きている』という本編の結末を破壊する。
矛盾させないのなら、今度は絶対に覆らない生命の死を覆すことになる。
『死』を覆すのに必要な犠牲。
命一つに対する犠牲。
それは最低限、同じ命でなければ釣り合いは取れない。
ならばアンクの復活を願った時点で、映司の死はもう決まっていたも同然なのだった。
けれど、映司は再びアンクに会いたくて復活の方法を探していた。
入れ違いで自分が死んでは、その願いは果たせない。
それでも映司の性格柄、最悪の場合は自分を犠牲にしてでも復活させる覚悟があったに違いない。
だから事前の準備は進められていた。
王の攻撃を受けた映司は、自分がもう助からないだろうと悟った。
そして、さながら自分の臓器を誰かに渡すようドナー登録をするように、映司は自分の命を犠牲にしてアンクを復活させたのだ。
『楽して助かる命はない』と理解しているアンクだから、映司が自分を復活させた張本人だと知ると、すぐそれが映司の死に直結する行為だったと察せられた。
映司もまた、自分の命を引き換えにした最後の願いだったから、自分が助かる道を否定した。
もっとちゃんと自分の命も欲しがれと、知世子さんばりに思う人だっているだろう。
けれど、彼は自分一つの命で、女の子とアンク、二つの命を救ったのだ。
それは本来の摂理に反するかもしれない。
反するけどちゃっかりやったのだ。だから、映司はちゃんと欲しがったと私は思う。
欲張って、二つを手に入れて、映司は過去の後悔にも打ち勝った。
タトバのイメージソングで、過去の後悔には勝てないと歌っていることからも、映司にとっては非常に大事なことである。
彼は自分で言っていたように、大事な願いを全て叶えている。
映司は、ゴーダに理解できなかった本当の欲望を満たして、ようやく心が救われたのだ。
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