どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

前回はクウガが生まれた理由や流れを書きましたが、今回はストーリーやテーマ性についてのあれこれを中心に語ってみたいと思います。
本当は前回ここも含めて解説したかったのですが、クウガの製作話があまりに長くなり過ぎて分裂となりました。
ストーリー考察側も、書き始めると(ある意味ではいつも通りに)あれよあれよと長文化したので、結果的には分けて正解でしたね!

製作話ともなればどうやっても作品内部に深く切り込む必要はありますが、今回は未視聴の方がどんな物語かを触れることも留意しておきたいなと思います。
そのため最初はあらすじ程度のネタバレで、クウガとはどのような作品か解説も含んだ紹介と感想。

中盤以降はその深いテーマ性にもガンガン触れていきます。
平成ライダーの始まりとなったクウガとはどんな物語だったのか。
時々クウガは勧善懲悪の物語と呼ばれるけれど、それは事実なのか。そもそもクウガは善悪をどのように捉えていたのか

現在の仮面ライダーに比べると、シンプルでありながらどこまでもディープ。そんなクウガの魅力を語っていきましょう。

ネタバレなしの解説・感想

仮面ライダークウガは平成仮面ライダーの記念すべき第一作目だ。
その作風はクウガ以前のライダー作品とは一線を画する。以下あらすじ。

あらすじ

時は西暦2000年。
日本アルプスの九郎ヶ岳遺跡内で古代の棺が発見される。
その棺が開かれたことをきっかけに、邪悪なる異形の古代種族――グロンギ族が復活した。
凶暴なグロンギ達は言葉も通じず、容赦なく人々を襲いだす。

冒険家である五代雄介は、同じく遺跡から発掘されていた謎のベルトから脳内にイメージ映像を流し込まれ、戦士クウガに変身。
人々の笑顔を守るため、グロンギ族との戦いが始まる。

クウガはこれまでの改造人間や悪の組織といった設定が刷新されており、ジャンル的には伝奇系が最も近いだろう。

昭和世代からのお約束や現実感の薄い部分を削ぎ落とし、現在に至る仮面ライダーの中でも特に、執拗な程にリアリティを重視した作品だ。
そのため作中では仮面ライダーという名称は使われず、クウガの呼び名すらあまり使わない。その世界観を重視した名称が与えられた。

他にも、これまでにない試みが山程ある。
怪人に対して警察はどう対処するのか。
何故怪人は一人で人間を襲うのか。

これまでは触れられなかった。もしくは様式美として処理されてきた要素に対して向き合っている印象が強い。
販促の制限上完全にとまではいかないまでも、ヒーローや怪人の要素にはできる限りの説明付けがなされている。
(むしろその後のライダーに比べると、販促よりもリアリティを優先した描写まで多々ある。今じゃ絶対できない)

このリアリティが以後のライダーに引き継がれたかと言うと、これは半分イエスで半分ノーだと私は思う。
例えばクウガは現在地点にリアルな位置と時間を設定して、そこからの移動と時間は現実的に可能な範疇を設定している。特撮によくある突然のワープを使用しない。

だが、後の仮面ライダー作品では特撮ワープを普通に使用しており、設定もおよそ現実的でないものがたくさんある。
こういう自由さもまた、後年のライダーにおける魅力の一つであり、否定すべき要素ではないと私は思う。
逆に「細けえこたあいいんだよ!」と勢い重視の面白さや、作品の作りやすさや(製作が間に合わず全話の中に二度総集編が入った)を削ぎ落としてまで、徹底した現実感を優先にしたのはクウガだけだ。

クウガは一つの物語として現実との線引きをしながらも、『向こう側』の世界ではない地続き感を目指した。
言い換えれば地続きであることを『クウガの世界』観としたのだ。
故にこのリアリティはクウガの独自性であって、以後の作品には継承されていないユニークな要素だ。

だがクウガ以後も『大きなお友達も楽しめる作品性』は常に担保されてきた。
これは言葉にすると物語的な整合性だ。
以後のライダーは、『フィクションだが一定の条件が揃えば現実的に有りそうな雰囲気』がある。
雰囲気だとしても、そう思わせられるのはストーリーの整合性を重視しているから。

そして整合性を重要視するには、一つの世界観をキッチリ組み上げて矛盾が出ないよう気を配る。
世界観のリアリティではなく、物語としてのリアリティこそがクウガの作った世界観理念なのだ。

同時に、クウガには新世代ライダーの初作品にして、初代仮面ライダーを現代でリメイクする意図がある。
昭和のライダーを意識しつつも全く別の新しい作品を生み出した。

昭和ライダーと完全に決別した作品作りを目指したことにより、クウガは一個の完結した世界観になった。
クウガの世界観を礎に、後世に生まれてくるライダー達はそれぞれ独立した在り方を重視している。

ライダーとして一つの在り方にこだわらず、群であることより一作単位の個性を大切にしてきた。
そのため、クウガが目指したリアリティとは今でもクウガだけの特権だ。

また平成一期は設定やストーリー展開、そして人間関係が複雑化する傾向にある。
その中において、クウガは比較的ストレートでわかりやすい物語だ。

テーマ性は深いが、作品としてはあまり複雑化されておらず理解しやすい。
(小学校高学年に理解できるストーリーを意識したらしいが、そこまで単純な物語は思えない……)

平成二期以降のわかりやすさに、シン・ゴジラのようなリアリティをかけ合わせた作品であり、癖は強いが性質としては非常にわかりやすい。
平成二期や令和以降のライダーシリーズを好む人が、一期シリーズに触れようとする場合でも、入門書的にオススメしやすい作品だ。

グロンギ族がどの怪人達よりも怖い理由

グロンギとは人間と相互理解を徹底して排した存在だ。
物語中では大部分を独自言語でやり取りして、あえて翻訳の字幕を付けない。
(放映後かなり経過してから、翻訳あり付きの特別バージョンは発売した)

理解不能な存在がゲーム感覚で人間を殺戮していく(というかゲゲルという名前の殺戮ゲームそのもの)。
行為としては狩りでありながら、生存競争ではない一方的な暴力。

しかも人間態になってしまうと、見分けを付けるのが非常に難しい。
今でこそ人間の姿になれる怪人は普通になっているが、グロンギ族は人間の姿を持っているのは当時だと異様だった。

私が記事を書くためにクウガの再視聴をしていたのは、コロナによる自宅待機の最中だった。
外に出るとどこにいるのかわからないが、確実に潜んでいて、突如理不尽に襲われる。対話もできなければ明確な特効薬もない。
それがどれだけ恐ろしいことか。
割と本気で外出したさが失せるぐらいに、初めてクウガを視聴した時以上の臨場感があった。

加えてグロンギは怪人の姿になっても、あえて人間に近く寄せられている。
生物的なモチーフはあっても、それは『人間+他生物』であり、人間っぽさは強く意識されてきた。

人間に近い存在が遊びで人間を殺戮する。その意図や理由が人間には理解できない。
しかも怪人でありながら、あえて人間の道具で人間のように殺人を実行する者までいた。

「バックします野郎」ことメ・ギャリド・ギである。
袋小路に追い詰められて、無機質な「バックします」の音声と共にトラックが迫ってくる。
その恐怖はあまりに現実的過ぎて、襲われる側の気持ちが想像できてしまう。
中盤辺りまでは特に直接的な殺戮描写が多い。
犠牲になった人々の人数が明確化されるのも、実際に人が死んでいるリアルさを掻き立てた。

後半に入るとバンダイから待ったがかかり、放送倫理的な規制が入る。
これによって殺害手段は怪人だから可能が増え、直接的な殺人描写はなりを潜めていく。
だからと言って怪人のえげつなさが損なわれたかと言えば否だ。また別の手法による恐怖を与えてきた。

みのり達がプールへと行く話では、同じ場所で入れ違いの殺戮が発生する。
少し運が悪ければ自分達が被害者として死んでいた。そんなことが日常で突然起こる。
東京に住んでいる限り安全な場所など一つもない。グロンギの理不尽さが強調された。

終盤だと当時の最新機器、インターネットとノートパソコンを使った殺人予告でのゲゲルが実行される。
これは今でこそ刑事ドラマやサスペンスじゃよくある手法だが、クウガの放送中にネオ麦茶事件が発生した。

匿名掲示板を使用した犯行予告であり、当時はニュースでも大々的に報道された。当時はかなり話題になった事件だ。
2ちゃんねる(現在の5ちゃんねる)を一般人に広く知らしめたことで有名である。

この時のグロンギはゴ・ジャーザ・ギ。
グロンギでありながらリクルートスーツに身を包んだ理知的な美女の姿をしており、外見は普通の人間と全く見分けが付かない。
本編内でも会話の大部分が流暢な日本語だった。

現代の生活様式を完全に理解して、最新機器さえ完全に使いこなす。
そんな者が現実で起きた事件と同じ方式で大量殺人を起こした。

しかも狙った獲物は一度目が老人の集団。二度目は(失敗したが)大勢の子供達であり、どちらも逃げ場のない場所での犯行だ。
怪人の姿で殺戮シーンがほとんどないからこそ、非現実的な部分だけを削ぎ落されて、リアルなサイコパスの殺戮が描かれている。

しかも彼女のゲゲルは回数が少ない分殺人の数は二百人を超える。
一回の大量殺戮は単純に楽しむためではない。

現実に即して考えてほしい。
例えば家にいる虫を一気に殲滅したいと思ったら、一匹ずつ潰すことを選ぶ人は少ないだろう。
バルサンなどを焚いて一発でスッキリ片付けた方が効率的だ。

彼女の大量殺人も同じ理屈。

「ザギバスゲゲルに進むまで、無駄な力は使いたくないの」
『どうでもいい殺しはさっさと終わらせて、もっと大事なゲームを早く始めたい(ネット上への書き込み)』

要するに「さっさと次のゲームに進みたいからサクッとやるね」くらいなノリ。
面倒くさいからまとめて消化するための効率化なのだ。

ドラクエだとマドハンド何度も呼び出させて画面いっぱいにしたところで、全体攻撃使って一掃。お手軽にレベルアップするようなもの。
合理的かつ無駄のないゲーム。ある意味、これ以上ないくらいゲーム感覚だと理解しやすい殺人手法でもあった。
そんな感覚で人を殺すのだけど、やり方と動機が一致しすぎて標的が人間じゃないなら、視聴者ですら割と理解度が高い。

こんな効率化を考えてまでステージクリアを目指す。
如何に無駄を削いで効率的にモンスターを倒してレベルアップするかに近い考え方。
面倒くささまで一つの要素としてゲームを楽しむ姿は、まさしく人間的だと私は思うのだ。

規制されたらされたで、執拗なまでに殺人のリアリティを追求してくる。
その中にはどうしようもない程の人間らしさも紛れ込む。

グロンギとは怪人でありながら人間。人による理不尽な暴力の体現者なのだ。

相互理解の人間ドラマ

クウガの大きな特徴は刑事ドラマ要素が多く含まれることだ。
警察が未知の怪人と相対したらどうやって対処するのか。
後の仮面ライダードライブは『刑事が仮面ライダーだったら』がコンセプトだが、クウガは『仮面ライダーの中で刑事ドラマ』をやっている。

最初は何の情報もない状況から始まり、クウガすら未確認生命体として攻撃を加えた。
そこからクウガを味方だと判断して、協力しながらグロンギ達の生態系や思想を少しずつ解明していく。

後半になるとグロンギのゲゲルはよりルールが複雑化して、殺人に明確な法則性が生まれる。
そしてクウガが強化されることで、怪人を倒す際にも条件が生じた。

ゲゲルのルールを推理しながら事前に殺人条件を潰して市民を守り、安全に倒せるポイントまでグロンギを誘導する。
バイクや銃など、必要に応じて道具も惜しみなく支給してくれる。
言葉にして整理するとよくわかるが、ドラマの中で警察が負っている役割は本当に重い。

特にビートチェイサー2000は、市民がライジングフォームの強大な力に対して強い警戒心を抱いたことで、警察上層部が受け渡しを拒否。
しかし組織的な縛りを受けつつ、刑事達の熱意は市民を守るため何が本当に必要なのか、警察としての正義と信念を貫いた。
彼らの上司である松倉警備部長も上層部を説得。ビートチェイサーは一条から五代へと受け渡された。

そして警察を語る上で、やはり一条薫の存在は避けて通れない。
五代の飄々とした性格とは正反対に、一条は堅物で生真面目な性格だ。
むしろ真面目過ぎて不器用ですらあるだろう。

日本人ではほぼあり得ないだろう冒険家という職業からも、五代の型破りな有り様が見て取れる。
対して一条は様々なことに苦悩しながらも、警察官としての正義を全うした。

最初は一般人である五代を危険から遠ざけるため、「中途半端はするな」と厳しいこと言っていた。
けれど中途半端はせずちゃんと関わることを決めた五代の協力者となり、やがては熱く硬い友情で結ばれていく。

これもさり気ない形で段階を踏んでいる。
例えば出会った当初はフルネーム呼びが多たかったけれど、メ・ギノガ・デの毒胞子で一度死んだ(と思われた)状態からの復活後は五代呼びへと変わっていった。

五代の特訓に付き合ったり、重要なアイテムを渡したり、生身でありながらグロンギに挑み危険を承知でクウガを助ける場面だって何度もあった。
ライダーシリーズでもトップクラスの射撃精度を持ち、モーフィングによって武器化される前の小さなアクセサリをライフルで次々と撃ち落とす。戦闘中だよ戦闘中。的不規則に動いてるからね?
しかも戦いの度グロンギの超人的な力に襲われながら生き延びている。重症負っても痛み止め打って動き回る。この人がある意味一番不死身だよ!
もし一条が二号ライダーになっていたら、平成ライダー一期の定説『銃使いはヘタレる』が生まれなかったかもしれない。

彼は誰より近くで『五代とクウガ』を見ていた。離れている時でさえ心は共に戦っていた。
燃える教会で覚悟を決めて、最終決戦で凄まじき戦士へと変わった――二つの大切な変身を見届けた男でもある。

相棒である一条の存在も含めて、クウガにとって警察はまさしく頼りになる協力者となった。

五代の協力者はそれだけではない。
考古学の桜子やジャン。
主治医の椿。

戦いに心が疲れても、おやっさんやみのり達。かけがえのない日常が癒してくれた。
恩師神崎の言葉が、雄介の優しさに形をくれた。
様々な者達が行動で、言葉で、彼を支え続けた。

グロンギのゲゲルはソロプレイが基本だ。
自分が楽しむだけに平気で相手を傷付ける。

対して人間同士は協調し合いグロンギに立ち向かい、残された(あるいは遺された)手がかりから謎を解明していった。

それと並行して人の相互理解を説く展開も、後半になるほど増えていく。
特に顕著なのが、人殺しを心底楽しむジャラジと並行して、口下手で上手く意思を伝えあえない幼稚園の子供達が和解する話。
二つの話に直接的な繋がりは五代雄介が解決に関わっていることくらいしかなく、それぞれは完全な別問題だ。

故にかなり直接的に『わかり合えない異種族』と『分かり合う人間同士』の対比が強調された。

少年が家出をすれば、グロンギの事件を追う手を警察に任せて雄介は少年を探して話をした。
少年の抱える漠然とした将来の不安。それは今起きているグロンギと同じぐらい大切なものだとして扱う。

ダグバがお目見えしても、怪人や世情が関わらない事件話で一話を費やして、一条とサブレギュラーの話を展開。
最終決戦一歩手前でも、ガドルとクウガが死闘を繰り広げる中で、榎田親子の問題をジャンが助けようと手を差し伸べた。
人を守る戦いとは、ただ生き延びれば万事オッケーではない。人の生活と心を守りぬくことが本当の意味での解決だ。

グロンギは自分が笑顔になるために人々を傷付け、命がけのゲゲルを敢行する。
人間は誰かを笑顔にしたくて、互いを思い遣り、自分にできる範疇で無理をする。

人間とグロンギの差は自分以外の誰かに対して親切になれるかなのだ。
そして、皆を笑顔にするため自分が一番傷付き続けた者が五代雄介だった。

青空になる五代雄介

意思疎通ができないグロンギと、人間の思い遣り。
この二つを丁寧に描いたからこそ、クウガは勧善懲悪ではないかとも言われるようになった。

後のライダー作品では、『敵には敵の意思があり絶対的な正義があるとは限らない』展開がポピュラーになっていく。
平成ライダー初期の作品でも、人間と怪人が相互理解しようと足掻く話も描かれている。
純然と敵味方を区別している作品が他にないわけではないが、全体的に見てもクウガはかなり珍しいケースとさえ言えるだろう。

そういう要素が揃っていることから、善悪が人とグロンギでハッキリ分かれているように見える。これは動かしようのない事実だろう。
だが、これがイコール勧善懲悪にはならないと私は思う。

最終話では、雄介の実の妹であるみのりが「本当は4号なんて、いない方がいいんだよ」と園児達に語った。
四号とは人間達の希望であると同時に、『暴力には暴力でしか抗えない』と認めてしまう存在でもあるのだ。

グロンギ達も自分に対抗する術を身に付けつつあるリントに対して「お前達も同じになる」と言い放つ。
警察は対抗策として様々な武装や道具を生み出して、その果てにクウガを頼らずグロンギを倒せる兵器『神経断裂弾』の完成へと至った。

理由はどうあれ、力を使って相手を屈服させる行為の肯定に繋がる。
それもグロンギ達と戦う警官の本質とは『人間を力で取り締まる人間』だ。
クウガの優しい世界だとこの危機感は伝わりにくくなってしまうが、ある意味容赦のない漫画版だと『グロンギへの対抗策』は目に見えて危険な方向へとエスカレートしていった。

そうでなくても、一度手にした力を手放すのがいかに難しいかは、人間の歴史が嫌というほど物語っている。
後日譚にあたる小説版では思わぬ(ある意味日本人らしい)方向に力の扱い方は転がっていくが、過剰な力を持って対抗する行為の警鐘は、クウガにおける重要なテーマ性だ。

実際ジャラジのゲゲルは、あまりの残虐性に狙われた学生達は怯えきり、惨殺される恐怖に負けて自殺してしまう者さえ現れた。
未来ある若者達に降りかかる不条理な恐怖と殺戮に激昂したクウガは、これまでにないような凶暴さでジャラジを痛めつけた。

なお、激しく殴られ続けるジャラジは血を流しているが、これは血糊ではなく本物の血である。
撮影の構図上殴られた振りだけだとモロにわかってしまうため、リアリティを出すため本気で殴られて口を切った。その姿をあえて放映している。
それだけ鬼気迫るシーンに仕上がっており、クウガ屈指のトラウマシーンとしても扱われている。普段大人しい人間がキレると恐いの典型例。

第一作目でしかも一話しかないようなシーンであるにもかかわらず、歴史を扱ったジオウではある理由から『絶対に出しちゃいけないヤツ』呼ばわりされた。
それだけ視聴者の記憶に強烈なインパクトを残したのだ。

ジャラジに対してここまで容赦のない暴行を加えたのは、『暴力に対する責任を取らねばならない』という意図があってのことだ。
この当時は少年法改正があった。
ジャラジの人間態は少年のような姿をしながら、人を追いつける行為をとことん楽しんでいた。

少年なら何をしても許されるべきなのか?
必ず保護されないといけないのか?
その疑問が込められているように思う。

グロンギがかなり人に近しい姿をしていて、完全に人間と同じ姿にもなれるのは、彼らもまた人と同じ種であることを示している。
相互理解不能としながらも根幹は人間と同じ。
故に古代のリントはクウガのベルトでグロンギに近付き、そして現代の人間も突き詰めれば彼らと同類になっていく。

物語全体を通しても、グロンギの暴力とはファンタジーではなく等身大の出来事として扱われた。
特に前半は明確な犠牲者の姿を容赦なく描写しており、犠牲者の数が時折明確な数値も出ている。
究極の闇では逃げ場のない中で火だるまになってもがき苦しむ人の姿も見えた。

クウガはヒーロー作品でありながら暴力を否定し続けた。
雄介の父親は戦場カメラマンで、残酷な現実を写すことで争いの凄惨を訴え、そして戦争によって命を落としている。

争いとは傷付け合うものだと心から理解している上で、雄介は戦士クウガとなって戦った。
変わっていく兄が恐いと心配する妹に言われた。俺だって恐いさと兄は答えた。

それでも大丈夫と微笑み続ける。誰かの笑顔のために。
自分にできる範囲の無茶をしてると周りを気遣う。

序盤から子供達の姿が多く描かれたのも、守るべきか弱い命であると同時に、たとえ守るためでも暴力を見せてはならない存在の象徴だったからだろう。
この矛盾をクウガはずっと抱え続けてきたのだ。

クウガの結末案の一つには、ダグバとの決戦で相打ちとなり雄介も命を落とす案もあった。
これは人々を守るためでも、グロンギに対して暴力を振るい続けた雄介はその罪を背負いきれなくなってしまう。
対外的に言えば、雄介も同じく暴力をふるった責任を取るべきという考えに基づいたものだ。

けれど、高寺Pなどスタッフからは「子供に夢を与えるべき番組で、その結末は残酷過ぎる」と反対意見が出て結末は変更された。
(その影響から石田監督は最終話の五代雄介は全部一条の夢で、本当はもうこの世にいないつもりで撮っていたとの証言がある)

私個人は死なずに旅立つ終わりで良かったと思っている。
それは何が罰で責任なのかという考え方の問題だ。

雄介は常に誰かを守るためだけに力を求めた。それでも暴力での解決に依存していく程に、身も心も怪物グロンギに等しくなっていく。
望む望まないではない暴力の代償。
あの温厚で心優しいな五代雄介ですら、怒りに身を任せてしまうと別人のように豹変する。

皆が思う。雄介には『旅に出ほしい』と。
旅に出る。それは暴力からの解放。
長く旅に出ていない事実は、ずっと望まない争いに身を浸し続けていることも意味した。

金の力を手に入れ、一度はもうこれ以上はいいやと雄介も言った。
けれど過酷になっていく戦いにいつしか更なる力を求めてしまう。

戦って、強くなって、戦って……。
どれだけ強くなれば救われるのだろう?

その果てが凄まじき戦士。
聖なる泉、人の心が涸れ果てた存在。
救いは即ち人の終わりを意味した。

皆を守りたい。
暴力を振るう。
それは別つことのできない行為なのだ。

自分の最も忌み嫌うものに依存していく。
自分が最も忌み嫌うものでしか救えない。

それは雄介にとって罰以外の何物であろうか。
責任と十字架は常に、その拳に、その脚に重くのしかかっていた。

最大の敵であるダグバは、「もっと僕を笑顔にしてよ」と雄介に言う。
暴力でしか止められない。
暴力でしか笑顔にできない。

皆の、そしてダグバの笑顔のため、雄介は凄まじき戦士になると決めた。

それでも、最後に五代雄介は伝説を塗り替えた。
優しき心を失わず、人の心を枯らさずに、凄まじき戦士の力を手にしたのだ。

けれど、それで雄介は幸福になれたのだろうか?
そんなわけがない。
究極の力を手にして、クウガはダグバと殴り合った。

ダグバは笑顔になった。
雄介は――泣いていた。

『でも、俺はこれを使ってすごく嫌な気持ちになった。大事なのは『間違えてる』ってことを伝えることじゃないかな?』

こうしたら、こう来るかもしれないだろ? そしたら、またこう! こう! ってならない?』

泣きながら殴っていた。

『さっきから五代さんの言ってること、綺麗事ばっかりやんか!』

『そ、そうだよ』

どれだけ力を得ても、起こり得ない未来に至っても、戦士の心は砕かれていた。心がある限り罪を背負う。

『でも、だからこそ現実にしたいじゃない! 本当は綺麗事が、いいんだもん! これでしかやり取りできないなんて、悲しすぎるから!』

綺麗事を愛した彼は、暴力の生む悲しみを誰より嫌う。
戦いが終わっても、その背にある十字架は失われない。本当は解放なんてされないのだ。

それでも五代雄介は全てを終えて、また旅に出た。
平和になった日本に、もうクウガ暴力の居場所はないから……。

誰かを笑顔にするため戦い続けた戦士は、けれど戦士故に、戦った代償として、相棒や大切な人達の前から去っていった。

もし雄介が救われるとしたらそれはいつだろう?
身体はもう元には戻らない。傷付いた心も、簡単には癒やされない。

弱い者を狙い撃つジャーザの残虐なゲゲルを知った時、雄介は再び怒りと憎しみを心に宿しそうになった。
けれどジャラジの時に深い後悔した彼は、空を見上げてその怒りを鎮めた。

青い空。
五代雄介はいつでも青空のような人間だった。
見上げた者を気持ちよく笑顔にしてくれるような晴れた空。

そうやって誰かを笑顔にしてきた彼を、誰が笑顔にしてくれるのか。
きっとそれは、青空を見上げる者。雄介が笑顔にした人達だろう。

だって、人と人は理解し合えるから。
優しい心には優しい心が返ってくる。

彼は暴力を振るいながら、何度も綺麗事を現実にしてきた。
暴力が罰せられるべきというなら、綺麗事だって報われていいじゃないか。

皆の笑顔をお守りのようにポケットにしまって、彼は空我――青空になる。