『アドベンチャー・ヘブン』は、国民を救済する王と、国民と同じ苦しみを生きる王の違いを描いた作品である。
『王様戦隊キングオージャー』のテレビ本編でラクレスを倒し、シュゴッダムの新国王となったギラ。
しかし、王冠をかぶれば本当の王になれるわけではない。
国民をどう守るのか。国を存続させるためなら、誰かの命を犠牲にしてもよいのか。理不尽と苦しみに満ちた世界で、王は国民に何を約束できるのか。
その問いに対するギラの答えを、シュゴッダム初代国王ライニオールとの対立を通して描いたのが、2023年公開の『映画 王様戦隊キングオージャー アドベンチャー・ヘブン』である。
32分という短編のため、人物や設定の説明に物足りなさを感じる部分はある。それでも、ギラがどのような王になるのかを短時間で鮮明に示した作品として、見応えは十分にあった。
さらにテレビ本編の完結後から振り返ると、本作で示されたギラの王道が、シリーズ最終盤へつながっていたことも分かる。
本記事では映画の具体的な内容に触れながら、『アドベンチャー・ヘブン』の感想と、ギラが示した王の資質について考察する。
『アドベンチャー・ヘブン』はギラの戴冠を描く映画
『映画 王様戦隊キングオージャー アドベンチャー・ヘブン』は、2023年7月28日に公開された『王様戦隊キングオージャー』の劇場版である。
上映時間は32分。『映画 仮面ライダーギーツ 4人のエースと黒狐』との同時上映作品として公開された。
物語は、ギラ・ハスティーの戴冠式から始まる。
兄であるラクレスとの戦いを終え、ついにシュゴッダムの王となる日を迎えたギラ。ところが戴冠式の最中、死の国ハーカバーカの案内人を務めるデボニカが現れる。
シュゴッダムでは、新たな国王が即位する際、ハーカバーカへ赴き、先祖から国の歴史を聞く習わしがあるという。
ギラはヤンマ、ヒメノ、リタ、カグラギ、ジェラミーと共にハーカバーカへ向かう。そこで待っていたのが、かつてチキューを救ったシュゴッダム初代国王ライニオールだった。
ライニオールは過去の偉大な王としてギラを祝福するのではない。
現在のシュゴッダムをギラに任せることはできないと判断し、自ら現世へ戻って再び王になろうとする。
その復活に必要なのが、ギラと同じ児童養護園で育った幼なじみ、デボニカの命だった。
大勢の国民を救うために、一人を犠牲にする。
ライニオールは、それを王として必要な決断だと考える。ギラは国を救うという目的自体を否定しないまま、誰かを犠牲にする方法を拒絶する。
本作で問われるのは、ギラとライニオールのどちらが強いかではない。
どちらの考え方が、未来のシュゴッダムを託す王にふさわしいのか。それが『アドベンチャー・ヘブン』の中心にある。
32分の短編としてテーマが明確
本作の長所は、限られた上映時間の中で、描くべきものをギラの王道へ絞ったことである。
ハーカバーカは、テレビ本編で描かれてきた六王国とは異なる幻想的な空間だ。
死者が集う場所でありながら、暗い墓地としてだけ描かれているわけではない。華やかさと不気味さ、静けさと祝祭性が同居し、「死の国」という言葉から想像する以上に美しい。
その独特の映像へ、デボニカの歌声が重なる。
デボニカを演じた佐倉綾音は、ギラをハーカバーカへ導く案内人として、物語の神秘性と感情の両方を担っていた。
初代国王ライニオールを演じた中村獅童も印象的だ。
国を救った王としての威厳だけでなく、自分こそが民を救えると確信している強さと傲慢さを両立させている。ライニオールが単なる悪役ではなく、ギラとは異なる正義を持った王であることに説得力を与えていた。
他国の王たちの活躍が限られているため、六人全員の大冒険を期待すると物足りないかもしれない。
それでも、ギラが王として受ける最初の試練を描いた映画としては、筋が通っている。
ライニオールとギラが示す二つの王の資質
ライニオールとギラは、どちらも国民を救おうとしている。
善良な新王が、国民を苦しめる残酷な旧王を倒すという単純な対立ではない。
二人の違いは、国民を救うために王が何を決めてよいと考えているかにある。
ライニオールは多数を救うために犠牲を選ぶ
ライニオールは、国民を苦しめたいわけではない。
むしろ、自分こそが国民を救える王だと心から信じている。
一人の命を犠牲にすることで多くの民を幸福にできるのであれば、王としてそれを選ぶべきだ。個人への感情より、国全体の未来を優先するべきだというのが、ライニオールの論理である。
王には、すべての人間を同時に救えない状況で決断を下す責任がある。
そのため、ライニオールの主張は単なる悪役の詭弁として片づけられない。過酷な時代を生き、かつてチキューを救った初代国王の判断として、一定の合理性がある。
自分が現世へ戻れば、国民を苦しみから解放できる。
その目的を達成するためなら、デボニカ一人の犠牲は受け入れなければならない。ライニオールにとって、それは国全体を背負う王だからこそ下せる決断だった。
しかし、その考え方では、国民の命を王が管理することになる。
誰を救い、誰を犠牲にするのか。誰の幸福を優先し、誰の人生を諦めるのか。
そのすべてを王が決める。
ライニオールが作ろうとしているのは国民のための理想郷であると同時に、王が選んだ犠牲によって成立する天国でもあった。
ギラは現実を知らない理想主義者ではない
一人の犠牲も許さず、全員を救おうとする。
言葉だけを取り出せば、ギラの主張は現実を知らない理想論に見えるかもしれない。
しかし、ギラは幸福な環境だけで育った人物ではない。
王族でありながら、その事実を知らないまま児童養護園で育った。貧しさや理不尽を身近に見て、ラクレスが支配するシュゴッダムでは、国民が権力によって振り回される姿も目撃している。
ギラは、生きていれば誰もが当然に幸福になれるとは考えていない。
世界には理不尽がある。努力しても報われないことがあり、普通と呼ばれる幸福さえ手に入れられない人もいる。
それでも、生きていれば笑えることがある。
食事を楽しみ、誰かと一緒に過ごし、ささやかな夢を見る。王が国民全員へ完全な幸福を与えられなくても、それぞれの人間が持っている小さな幸せを守ることはできる。
ギラが拒んだのは、幸福そのものではない。
国民に何が必要なのかを王が一方的に決め、救済という大義のために、一人の人生を奪うことだった。
ギラは、国民を幸福にしてやる王になろうとしているのではない。
国民が自分の人生を生き、その中で小さな幸福をつかむ権利を守る王になろうとしている。
デボニカを守ることは身内びいきではない
デボニカは、ギラと同じ児童養護園で育った幼なじみである。
そのため、ギラが彼女を守ろうとしたことは、国全体より個人的な感情を優先しただけにも見える。
しかし、デボニカがギラにとって大切な人物であることは、この物語の弱点ではない。
むしろ、国のために一人を犠牲にできるかという問いを、抽象論で終わらせないために必要だった。
犠牲になる人間の顔が見えなければ、多数のために少数を切り捨てる判断は簡単に語れる。
誰か一人が死ねば国民全体を救える。その条件だけを示されれば、合理的な選択に見えるだろう。
だが、その「一人」にも名前がある。過去があり、自分なりの人生と幸福がある。
デボニカは、計算式の中の数字ではない。
ギラにとって身近な人物であると同時に、自分の意思を持って生きている一人の人間だ。
たとえ本人が犠牲になる運命を受け入れていたとしても、王がその命を当然のように利用してよいことにはならない。
ギラがデボニカを守ったのは、幼なじみだからだけではない。
国民を王の目的達成に使う駒にしないという、自らの統治原則を示すためだった。
ライニオールが国民を救済の対象として見ているのに対し、ギラは国民を自分と同じ場所で生きる人間として見ている。
その違いが、デボニカを巡る選択によって具体的に示されたのである。
本編完結後に分かる『アドベンチャー・ヘブン』の重要性
『アドベンチャー・ヘブン』が公開されたのは、テレビシリーズの放送途中だった。
公開時点では、ライニオールやデボニカ、ハーカバーカが、シリーズ全体でどの程度重要な存在になるのか分からなかった。
他国の王たちの前に現れる死者についても、当時のテレビ本編だけでは背景が十分に説明されていない人物がいた。
その代表が、トウフの前女王イロキである。
映画公開時点では、カグラギとイロキの間に何があったのか、詳しい事情は明かされていなかった。その後、テレビ本編第37話「イロキの乱」で過去が描かれたことで、映画に登場したイロキの意味も変化した。
公開時には将来の展開を示す謎の人物だったが、本編完結後には、カグラギが王になるまでに背負った過去を象徴する存在として見直せる。
さらに、第49話「王はここにいる」では、ダグデドとの最終決戦にハーカバーカの死者たちも駆けつけた。
デボニカ、イロキ、デズナラク8世らと共に、始祖の王ライニオールも再びギラたちの前に現れる。
ライニオールは映画の中で、自分こそが国民を救う王だと考え、ギラから王座を奪おうとした。
しかし最終決戦では、ギラに代わって王になるのではない。
現在を生きる王と国民を支え、自分にできる役割を果たす側へ回っている。
ギラがライニオールの過去を完全に否定したわけでもなければ、ライニオールもギラに敗れたことで価値のない王になったわけではない。
過去の王が現在の王を支え、死者と生者が同じ戦場で未来を守る。
第49話で描かれたその関係は、映画で二つの王道がぶつかったからこそ成立したものだ。
王が民を救う物語から王と民が救い合う物語へ
本編終盤では、王たちが国民を一方的に守るのではなく、国民もまた王を救うために立ち上がった。
これは、『アドベンチャー・ヘブン』でギラが示した考え方の発展形といえる。
ライニオールの王道では、王が国民を救う主体であり、国民は救われる対象だった。
王は国民のために決断し、必要であれば犠牲も選ぶ。王が上に立ち、国民を正しい未来へ導いていく。
一方、ギラたちの王道では、王も国民も同じ世界を生きる当事者である。
王が国民を守り、国民も王を支える。誰かが一方的に救うのではなく、それぞれが自分にできることを持ち寄って困難へ立ち向かう。
ギラが映画で守ろうとした「小さな幸せ」は、王から国民へ与えられる褒美ではない。
国民一人ひとりが自分で築くものであり、王の役割は、それを勝手に奪わせないことにある。
映画公開時には、ギラの戴冠を補完する短編に見えた。
しかし本編完結後から振り返れば、王と国民の関係がどこへ向かうのかを早い段階で示した作品だったことが分かる。
短い上映時間による説明不足は惜しい
本作で最も惜しいのは、中心テーマの弱さではなく、それを支える説明の少なさである。
ライニオールは、大勢を救うためにデボニカを犠牲にしようとする。
しかし、なぜギラをハーカバーカへ呼び寄せ、正面から対立する必要があったのか。ライニオールが現世へ戻った後、具体的にどのように国民を救うつもりだったのか。
映画内の情報だけでは、十分に納得しにくい部分がある。
デボニカについても同様だ。
ギラの幼なじみという重要な立場でありながら、二人の過去は限定的にしか描かれない。ギラが彼女を守ろうとする感情を、もう少し積み重ねて見せてほしかった。
他国の王たちも、登場する以上、それぞれが死者や過去と向き合う場面をさらに見たくなる。
もっとも、これらの不足は、作品が32分であることと切り離せない。
すべてを詳しく説明すれば、ギラとライニオールの対立が薄くなる可能性もある。本作は広く掘り下げることを諦める代わりに、王の資質という一点へ集中した。
その選択が成功しているからこそ、短さへの不満がありながら、作品の中心は強く残っている。
劇場公開版と完全版の違い
『アドベンチャー・ヘブン』には、劇場公開版に加えて完全版が存在する。
完全版は、2023年12月13日に発売されたBlu-rayコンプリートパックへ収録された。劇場公開時にカットされた未公開シーンと、新規撮影された場面が追加されている。
本作の弱点は、ギラとデボニカの関係、ハーカバーカの設定、他国の王たちの描写が短いことにある。
そのため、初めて見る場合は、人物や物語の補完が加わった完全版を選ぶ価値が高い。
ただし、劇場公開版の短さにも利点はある。
ライニオールとギラの対立へ一気に進み、王とは何かという主題を短時間で提示する。説明を最小限にしたことで、寓話のような力強さが生まれている部分もある。
劇場公開版と完全版のどちらが正しいというより、短編としての勢いを重視するか、人物と設定の補完を重視するかの違いと考えるべきだろう。
考察:天国ではなく地獄がギラを王にした
ライニオールは、苦しみから解放された世界を提示する。
一方のギラは、世界から苦しみを完全になくせるとは約束しない。
生きることが苦しいなら、王が国民をその苦しみから救い上げるべきだとライニオールは考える。
しかしギラは、王だけが安全な場所から国民の幸福を設計することを拒む。
国民が地獄を生きなければならないのであれば、自分も同じ場所で生きる。
苦しみをすべて消せなくても、誰かが持っている小さな幸福まで奪わせない。誰か一人を切り捨てることで成立する未来ではなく、理不尽な現実を全員で乗り越える道を探し続ける。
それがギラの答えだった。
この姿勢は、彼が名乗る「邪悪の王」ともつながっている。
ギラは既存の秩序から見れば反逆者である。王が正しいと決めた犠牲を拒み、国のためという大義にも逆らう。
だが、その邪悪さは国民を踏みにじるためのものではない。
国民を犠牲にする正義を壊すために、権威へ逆らう邪悪である。
ライニオールが天国へ導く王なら、ギラは国民と同じ地獄を歩く王だ。
ギラを王にしたのは、王族として生まれたという血筋だけではない。
貧しさや理不尽を知り、それでも人々が笑って生きる姿を見てきた経験である。
天国しか知らない者には、地獄の中にある小さな幸福の価値は分からない。
ギラは苦しい現実を知っていたからこそ、誰かが手にしているわずかな幸福を、国のためという言葉で奪うことを許さなかった。
『アドベンチャー・ヘブン』が描いた王の資質とは、誰よりも賢く国民の未来を決める能力ではない。
国民と同じ場所に立ち、一人ひとりの人生を自分の計画へ従わせないことだったのではないだろうか。
まとめ
- 『アドベンチャー・ヘブン』は、ギラの戴冠式から始まる劇場版である。
- 死の国ハーカバーカで、ギラはシュゴッダム初代国王ライニオールと対立する。
- ライニオールは、多くの国民を救うためにデボニカ一人を犠牲にしようとした。
- ライニオールの考えには、国全体を背負う王としての合理性がある。
- ギラは、国民を王の目的達成に使う道具として扱うことを拒んだ。
- ギラは世界の理不尽を知らない理想主義者ではなく、苦しみを知ったうえで小さな幸福を守ろうとしている。
- テレビ本編完結後には、映画で示された王道が最終決戦へつながっていたことも分かる。
- 上映時間の短さによる説明不足はあるが、ギラの思想を描いた作品としては完成度が高い。
初代国王ライニオールは、誰か一人を犠牲にしてでも、多くの国民を苦しみから救おうとした。
ギラもまた、世界が理不尽であり、すべての人間を幸福にすることが難しいと知っている。
だからこそ、幸福を与えるという大義によって、国民がすでに持っている小さな幸せを奪うことを拒絶した。
ギラが選んだのは、国民を天国へ導く王になることではない。
国民と同じ地獄を生き、その中に残された幸福を共に守る王になることだった。
『アドベンチャー・ヘブン』が描いたのは、理想の世界を上から与える王の誕生ではない。苦しみのある世界から逃げず、国民と同じ場所に立ち続ける王の誕生なのである。
『アドベンチャー・ヘブン』のQ&A
Q1. 『アドベンチャー・ヘブン』はテレビ本編の何話頃の物語ですか?
ラクレスとの戦いが決着し、ギラがシュゴッダム国王へ即位する時期の物語です。映画はギラの戴冠式から始まり、王位を得たギラが、王として最初の試練を受ける内容になっています。
Q2. 映画を見ないとテレビ本編は理解できませんか?
テレビ本編だけでも物語の大筋は理解できます。ただし、デボニカ、ライニオール、イロキ、ハーカバーカを知っていると、第49話をはじめとする終盤の人物や場面の意味が深まります。完全に切り離された番外編ではなく、本編の世界へ接続された作品です。
Q3. 劇場公開版と完全版はどちらを見ればよいですか?
初めて見る場合は、未公開シーンや新規撮影部分が追加された完全版が適しています。一方、劇場公開版には32分で中心テーマを描き切る勢いがあります。人物や設定の補完を重視するなら完全版、短編としてのまとまりを重視するなら劇場公開版という違いがあります。
情報ソース
- 東映『映画 王様戦隊キングオージャー アドベンチャー・ヘブン』ゲストキャスト発表:ギラの戴冠式、ハーカバーカへの旅、デボニカとライニオールの公式情報。
- テレビ朝日『アドベンチャー・ヘブン』映画情報:映画の基本設定とゲストキャスト情報。
- テレビ朝日『王様戦隊キングオージャー』第49話「王はここにいる」:デボニカ、イロキ、ライニオールらが最終決戦へ加わったことを確認できる。
- 東映ビデオ『アドベンチャー・ヘブン』コンプリートパック:Blu-rayコンプリートパックと完全版の収録情報。