どうも、ゲタライド(@ridertwsibu)です。

ゼロワンもスタートからはや四ヶ月を迎えました。
具体的に何話構成なのかはわからないですが、スタートから年明けまでのスパンで十六話。
恐らくはおよそ三分の一くらいを消化した計算になるでしょう。

そして十六話までを『滅亡迅雷.net』編とも呼べる形式でまとめています。
各話の感想も止めたことですから、ここで十六話までに出てきたゼロワンの要素を幾つかに分けて考察していきたいと思います。

第一回はゼロワンにとって最も支柱となる世界観とヒューマギアについて。
堂々と目に見える割に気付きにくい要素ではあるのですが、仮面ライダーという作品とってヒューマギアはかなり画期的な要素であると言えます。
それは何故か。
そしてヒューマギアとは即ち、ゼロワンにとって重要なテーマ『AI』を意味します。

ゼロワンにとってヒューマギアとは、そしてAIとは何なのか。
この要素の説明と定義を序盤からかなり丁寧に積み重ねてきました。
その重ねられきた事実と結論をまとめてみたいと思います。

仮面ライダーで描かれる初の正統派SF

ゼロワンの物語において主軸となるのが、ヒューマギアが流通した世界観だ。
長らく続いた仮面ライダー作品で、正統派SFは私の知る限りゼロワンが初めてである。

もちろんこれまでもカブトやビルドなどSF色の強い作品は過去いくつもあった。
それらとの明確な違いは、現実に即した技術の延長線であるかどうかだ。

例えばビルドの場合、日本を分担するスカイウォールが出現して、そこからヤバいガスとか平行世界への移動能力等が出てくる。

あらゆる乗り物や道具を使用しても行き来できないエネルギーの壁や、ガスを注入することで人を怪物に変える技術は、現実だとその基礎すら開発されていない。

カブトのクロックアップも同様だ。
そのためこれらは全てそういうものとしか言えず、SF的な考察ができない。
ジャンル的に正しく言えばSFファンタジー(もしくはサイエンス・ファンタジー)となる。

じゃあ世の中、大抵はSFファンタジーじゃないかってことになるが、実際その通りである。
ただし全てではない。
ガンダムに出てくるコロニーは、ガンダム開始前から現実可能な技術として発想は既にあった。
モビルスーツも巨大ロボット自体は理論上実現可能な段階まで達しており、現代でもその技術は日進月歩で進んでいる。

そしてヒューマギアとは人型ロボットの延長であり、だとすれば可能な技術の範疇だ。
第二話では記者ヒューマギアが、無名のお笑い芸人である飛電或人の素性を知っていた。

あの時、ヒューマギアのモジュール(耳のパーツ)は特有の青いマークが表示されており、或人の情報をネット検索していたのだとわかる(後に或人が自分の持ちネタを動画配信していたことが判明した)。
未来のAIは常時ネット接続されており、自己判断で適宜検索するという描写は、まさに現実に即した未来技術だ。

SFとは『将来的に可能となる技術が実現されたなら世界はどう変わるか?』のIFを描くジャンルだ。
もちろん衛生からバイクどーん! バッタちゃんどーん! サメちゃんどーん! が現実的な訳ないけれど、それはリアル路線のロボットアニメでも敵と会話しながら戦闘する流れがあるのと同じで、そこはあえてリアリティより演出を優先した結果であると付け加えておこう。

『ゼロワン』では正面からSFを描くため、第一話から多くの話数を世界観の解説に割いてきた。
三話目以降がお仕事編となったのも、ヒューマギアが様々な職業に携わり人々の生活にどのような影響を与えているのかを描写するためである。

主人公の飛電或人は仮面ライダーとして事件を追い戦うだけでなく、異世界を旅する読者の目にもなっていた。
(ヒューマギアが好きな割に知識が全然ないのも、視聴者目線のキャラクターであることが起因していると思われる)

そうしてヒューマギアを高度なAIとして解説しながら、同時にシンギュラリティへ達したのならどうなるかも描く。
ゼロワン世界はヒューマギアが日本中に流通し始めている世界だ。

そして同時に高度なAIが人と関わることで心を持ってしまう。
心を持つロボット自体、人によってはあり得ないと思うかもしれないが、その可能性をシンギュラリティという概念が現実に起こりうる事象として説明付けている。

一見あり得ないことが、一定の条件を満たすことで現実化する。それこそがSFであり、そうなった世界の黎明期。
ゼロワンとは、高度なAIが人の生活に密接に結び付き、自我を持ったらどうなってしまうのかのIFを描いた物語なのである。

AIに心が芽生える条件とは

シンギュラリティに達したヒューマギアは自我を持ち、人とAIの境界が曖昧化する。
そこから逆説的に人とAIの違いとは何かが見えてくる。

ヒューマギアはそれぞれに役割を与えられている。
芸人ヒューマギアなら人々を笑顔にすること。
ガードマンヒューマギアなら人々を守ること。

彼らはプログラムとラーニングされた機能によってその役割を果たす。
これがシンギュラリティに至る第一段階だ。

ヒューマギアは自分達の役割を果たすため、様々なことを学ぶ。
それはラーニングと呼ばれる機能の一つであり、人の学びとは趣がなる。
けれど、ヒューマギアはヒト型であるが故に、人間もまた人に近い接し方をするのだ。

三話で真心寿司の店主がロボットだからダメだと頑なに否定したが、店主が求めたのは人としての心。
それは言い換えると、人間と同じ水準で人であることを求めたと言える。
なので一貫ニギローは人の心がインストールできないかと求めた。

結果として店主の非効率な握り方を学び、自分なりにその意味を考えて「それが真心である」との答えを出した。
それは人間の弟子達にはついぞ理解できなかった店主の心だった。

寿司職人としてキツい修行を心がないからこそ苦にしない強みもあったが、店主が心を動かされたのは自分の気持ちを考えて理解してくれたという流れがあったからこそである。
その結果、笑顔になった店主を見て「人を笑顔にできる一貫ニギローには、本当に心がないのだろうか」と或人は疑問を持った。

俳優編の松田エンジも同じ、本場の演技をラーニングしたが、『演技は人と人とのぶつかり合い』だと信念を持つ大和田に否定されてしまう。
そうしてなぜ自分の演技はダメなのかと、人間のように形の不明確な悩みを抱き、それがシンギュラリティに達する芽生えとなっていた。

既に心を持ち始めていたヒューマギア達も実は同じだ。
一話では腹筋崩壊太郎が、自分の芸で笑顔になった人々を思い出して自分も笑顔になった。
二話のマモルは或人が腕に巻いてくれたハンカチに喜んだ。

彼らは自分の使命にやりがいを得ていた。
そして、それは自分の使命で誰かが喜び感謝してくれることに対する嬉しさだ。

シンギュラリティに至る第二段階が感情移入であると私は思う。
誰かの気持ちを読み取り、それが自分に返ってくる。
どうしたら人に喜んでもらえるのか、そう考えることは親切さだ。
誰かを思いやる気持ち、そしてそれを学び理解することがAIを人間へと変えていく。

過去の感想でも何度か書いているが、この人と機械を分けるのは他者への思い遣り、感情移入であると解釈する思想は既に過去の名作SFで描かれている。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』がその代表作として個人的にお勧めだ。

人とそっくりの違法アンドロイドを見分けて狩るハンターの物語で、人のようなアンドロイドや、アンドロイドのような心無い人間と向き合うことで『人の心』とは何かを描いている。

SF小説としても非常にレベルが高く、ゼロワン世界におけるAIの心についてより深く理解する一助になる作品である。

シンギュラリティの危険性

興味深いことに、ゼロワン世界ではシンギュラリティを必ずしも良いことであるとは結論付けていない
滅亡迅雷.netはシンギュラリティに至ったヒューマギアを狙っていたが、もっと根本的な部分である。
AIMSのメンバーはシンギュラリティによる自我の発露をむしろ危険視してさえいる。

直球でこの問題を示したのが七話の熱血教師ヒューマギアのコービー。
ブラック職場としてよく取り上げられる教育現場で、残業の温床とも言えるクラブの顧問をヒューマギアに任せるのは働き方改革としては非常に論理的であると思う。

けれど、その教師役が管理者である本物の教師の指示を無視して勝手な練習を組む。
コービーの行動は試合に勝ちたいと願う生徒達の気持ちを汲んだものであり、心根にあるのは彼なりの善意で間違いない。
かと言ってその責任を問われる管理者の意見を無視しているのも事実。

AIのシステムとはプログラムを実行することに意義があり、プログラム通りにしか動かないことに価値がある
システムとして見たコービーは欠陥品である。

九話で登場したナースヒューマギアのましろも、不破の脳検査を実施しようとしていたが、彼女にその権限はなかった。
ましろ自身は相手への思い遣りから生じた行動でありシンギュラリティの兆候であったのかもしれない。

けれど権限がないのに検査しようとするのは言うまでもなく大変危険な行為だ。
病院とは命を預かる現場であるからこそ、プログラム通りに動き、疲労や迷いでミスを犯さないヒューマギアには高い価値が生じる。
新人社員が自己判断で勝手な行動起こすのと似たようなもの。管理者からすればバグによる暴走と変わりない。

十話だと逆に、Dr.オミゴトがプログラムの強制力を越えて、重体だった不破の手術を成功させた。
ヒューマギアの感情はプラスとマイナスのどちらにも働き得ると示している。

ならプラスの方に誘導しようとしても、意図してできるものではない。
厄介なのはヒューマギアのシンギュラリティが、いつ何をトリガーによって引き起こされるのかがわからないことだ。

声優ヒューマギアは娘と同じ容姿で作られ、家では娘と同じように愛された。
娘との思い出をデータとしてインプットされ、娘と同じになるよう促された行為はヒューマギアにとってはラーニングの一種だ。
そのため彼女は自分が娘であると混同する形でシンギュラリティを起こしたが、それは娘のように愛した声優事務所の社長にとって望んでいた結果とはならなかった。

漫画アシスタントのGペン太郎は、理不尽な作業現場で使用者の漫画家ではなく同じ境遇にあるヒューマギア感情移入した。その怒りからシンギュラリティに達した。
あのまま行けば滅亡迅雷.netの介入が無くとも、ヒューマギアによる人間への反抗が始まっていたかもしれない。

この問題は実際にイズと迅にも起きていた。
滅が倒された際にイズは敵がまだ近くにいるのにも拘わらず、自己の保身より敵の大将が倒されたことを喜び煽ってしまい、逃げ遅れて破壊されてしまう。
迅は本来攻撃すべきではないヒューマギアを、怒りに任せて攻撃した。

シンギュラリティによって生じる不安定さは、ヒューマギア本来の持ち味であるプログラムによる安定した動作の精度を落とす
ヒューマギアを家族としてみる者にとっては素晴らしいことであるが、システムとして見ると間違いなく欠陥品なのである。

そして滅亡迅雷.netは極端ではあるが、この最たる例でもあった。
衛星アークは意図的に人間の負の側面を入力されて、人類は滅ぼすべきだと結論付ける。
その意思を叶えるために滅が動き、人類に多くの犠牲を出した。
AIは悪意によってもシンギュラリティに達する。

或人は迅との決戦で、『迅は人類を滅亡させるラーニングを受けた存在』として、彼もまた被害者だという視線を向けた。
それは一定の事実であり、それでも破壊せねばならない哀しみが或人を成長させる要素にもなっていくのだろう。

けれど、ヒューマギアと共に生きる社会という視点で見ると、この問題の本質は別にある。
滅亡迅雷.netのような事例を、実際に発生させたシステムとしての脆弱さこそが重要なのだ。

人とヒューマギアの関係はあくまで人が主だ。ヒューマギアは従の存在である。
これはヒューマギアに自我が芽生えることで、ヒューマギアは人を助ける存在であるという定義が、そっくりそのまま奴隷制度に変換されてしまう

ネタバレになるので深く掘り下げないが、そのモデルケースが令ジェネなのだ。
暴走の過程は歪められたものだが、動機はまさしく意思を得たヒューマギアによる奴隷解放運動だった。

この問題に対する回答を、或人は『人とヒューマギアが笑顔になる世界を作りたい』という理想論だけで一話からずっと片付けているのが現状だ。
具体的な方法が全く提示されていない以上は、目に見えている問題に立ち向かっているようで立ち向かっていない。

AIに心が芽生えることは果たして容認していいのか。
これを否定するのはイズの存在を否定するのと等しい。

ならばと肯定するなら、ヒューマギアはプログラム通りに動くシステムという特性を失う。
しかも一個の人格として人権も認めねばならない。

認めたらどうなるだろう? ヒューマギアは人をサポートするシステムではなく、人に使われる人より優れた存在になる。
人はヒューマギアに対して何を返せるのか。
何を持ってヒューマギアの納得を得て上に立つか。
人とヒューマギアの関係はどうあるべきか。

シンギュラリティによる真の問題と向き合う日が、いずれやってくるだろう。