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『描く』と『描かせる』に違いはない
私は少なくとも年数回はイラストの発注をかけているが、その度に少なくない金額を払っている。
自分ができないことを人に頼んでいるため、その金額は妥当であり、払うのを勿体なく思っているわけでもない。
しかし、もしプログラミングで自分の好む絵柄のイラストを生成できるシステムが構築されれば、私は迷わずそちらを利用するだろう。それを恥とも思わない。
AIを使ってハイクオリティで狙い通りのイラストを生成するのは、人間側のAIに対する理解力や厳密な指示が必須だ。
AIによるイラスト生成は、ただ念じればそこにポンっと画像が出てくる魔法の道具ではない。
いやむしろ、知識が伴わない者にとっては理解不能な呪文を唱えるに等しい行為だろう。
それは今私が利用しているブログシステムも全く同じ。
このサイトのデザインだって『CSS』というスタイルシート言語で書かれている。
(厳密には違うが)要するにプログラムによって生成されている。
複雑なCSSによる緻密な構成の美しいデザインは、それ自体が完全に職人技だ。
「いやいや、それはその人がCSSを自分で書いているじゃないか。AIに書かせているわけじゃない」と考える人もいるだろう。
じゃあこれを実際にAIが行うようになったら、その時に人はどう思うだろうか?
いずれデザインだってAIによる生成が可能になるだろう。
そうなれば自分のイメージを言語化して入力すると、その内容に応じたサイトのデザインをAIが生成して出力する。
そうなったとしても、ほとんどの人は『便利な世の中になったなぁ』と思うだけ。『これは人の手によって書かれたコードじゃないから駄目だ』と声高に叫んで否定する人はいないだろう。
サイトのデザインはAIで自動生成しても文句を言われないのに、イラストはAIで自動生成するのはダメなの? それ何基準? という話になる。
その間にあるのは人間の『なんとなく』の感覚でしかないのだ。
それでもしっくりこない人は、デジタルの本質を根本的に忘れている。
イラストもWebサイトのデザインも、プログラムの前には押し並べて等しく0と1の集合体でしかない。
ペンタブを使っていようがマウスで描いていようが、それらは『電子という虚構の空間に道具を使って、PC等にイラストを出力させて(描かせて)いる』に過ぎない。
線や色も『線』や『色』というデータでしかないので、線の太さや緻密な色彩を簡単に選択できる。
それらの組み合わせたデータを、『人間の視点』でイラストとか漫画とか芸術と呼んで『価値を持たせている』のだ。
だからどんな高度で複雑な作品であろうとコピペでいくらでも量産できる。
この感覚のズレが何処からくるかと言えば、創作に対する概念の歪みがあると私は思う。
人は人の手で直接何かを生み出す行為を創作だと認識している。
たとえデジタルであってもペンタブを使って絵を描くという、『アナログの延長線上』だと想像している人が多い。
逆にプログラムによって何かを生成するのは、工場生産にイメージが近く、多くの人はそこに対して『人間による創作』を見出していない。
これをあえて歪みと呼ぶのは、アナログでも同じような現象が起きているからだ。
漫画家が作品を描く上でアシスタントを雇って、背景などを担当してもらうのはよくあることだろう。
そうなると漫画とは一種の総合芸術とも呼べるはずだ。
しかし、それは全てひっくるめて『作者』の作品として世に出されて、実際にそう扱われる。
アシスタントの存在は認知していても、読者は作品に評価や価値を下す時には作者しか見出さない。
仮面ライダーゼロワンでも漫画家に対して、ヒューマギアはアシスタントの役割だった。
漫画によっては、あえてアシスタントの名前を羅列したり、巻末のオマケでそれぞれのイラストを掲載したりすることはある。
逆に言えば、そこまでやらねば読者はアシスタントの存在を創作者のメンバーとして認識できない。
当然ながらヒューマギアこそが正しく工業製品である。
アシスタントはそっくりそのまま工業製品に置き換え可能と言っているようなものだ。
私も放送当時はそこまで考えなかったが、これはこれで恐ろしい話である。
漫画の一部だって、それはやはり絵でありイラストである。
漫画家にとっては『描かせる』であってもアシスタントにとっては『描く』だ。
じゃあアシスタントの描く絵に創作的な価値はないのか?
『描かせる』に価値がないなら、それはないと言うしかない。
けれど『描かせる』の部分も読者は『描く』として認識して読んでいる。
だったらアシスタントの部分を丸っとAIに置き換えても読者にとっては『描く』になる。
また、それは何処までの範囲なら『描かせる』に該当するのか?
ぶっちゃけ漫画家がほぼ何も描かず、工程の全部をアシスタントに任せていても、それが漫画として世に出れば『作者の作品』になる。
極論、全編『描かせる』でも読者は『描く』として認知するのだ。
ゼロワンでは視聴者が不快感を覚えるレベルで、懇切丁寧にその現実を見せつけた。
結局のところ『雇って描かせる』は『描く』の一部なのだ。
だからAIに置き換えられるし、海外では既に背景等はAIに出力させて描画する時代は来ている。
人の手で描くことと、AIによる生成の境界は既になくなりつつある。
結局今現在人が抱いている忌避感とは単なる認識論でしかない。
人が『描き方の違いだけで、生み出される物に本質的な差はない』と認識が高まっていく程に、『描く』と『描かせる』の違いは人々から消失していくのだ。
しかしながら元々イラストを描くことを生業としていた人間が、その全てをAI生成に委ねてしまうのは、感覚的に創作活動の放棄とも取れてしまうのは事実だ。
それでもAIを完全にツールと割り切って利用しているならば、行為として絶対的に間違っているわけでもない。それはそういうクリエイターなのだ。
ただし、あくまでAIは人を助けるために存在である。そのAIに依存してしまうと、本来あろうとしていた自分を見失う。
だからこそ、ゼロワンは創作者の作品に対する情熱を問うたのだ。
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