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RIDER TIME 仮面ライダー龍騎 残酷で美しい平成ライダーの物語【総括感想】

2019年4月18日

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ゼミ生の皆様こんにちは、語屋アヤ(@ridertwsibu)です。

今回は『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』を全話視聴しての総括感想です。
各話の感想とは別に、全話を通したジオウスピンオフの龍騎に感じたこととなります。
(そのため、一部各話感想とは矛盾する場合があります)

私は今回の『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』を観終えて、まず消化の仕方がわかりませんでした。
この物語をどう受け止めればいいのか……。その答えに数日を要しました。
シノビはラストのドンデン返しも含めて「あーこういうのか!」と、ストンと感想が落ちてきました。

龍騎は何かが喉元でずっと留まっている感じ。
面白かったかどうかで言えば間違いなく面白い。
良作か駄作かでいえば迷わず良作だった答えられます。
かつて龍騎が好きだった人達にも問題なくオススメできる作品です。

しかし、それでも自分の中で消化できない何かがずっと残り続けました。
何度か全てを通して見直して、ようやくそれの正体がわかりました。
これは私が17年前に感じたことと全く同じだったのです。

私はずっと平成仮面ライダーという作品を視聴し続けてきました。
そうして作られた今の感性であの頃の平成仮面ライダーを観たのだと。

『平成ジェネレーションズFOREVER』が平成仮面ライダーを愛した人達へ贈る物語だったとしたら、『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』は龍騎という作品を愛した人達へ投げかけた物語でした。
贈るなんて生易しいものではなく叩きつけるような全力投球。
結論はお前達で考えろという姿勢すら、どこかあの当時を感じます。

前置きが長くなってしまいました。
私が感じたものを、噛み砕いて具体的に説明していこうと思います。

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平成ライダーという自由あるいは狂気

私は『平成ジェネレーションズ FOREVER』以降、平成仮面ライダーと表記しているが今回はあえて平成ライダーと書く。
この辺のニュアンスはわかる人にはわかるだろうと思う。

鎧武における平成と昭和のぶつかり合いが『平成ライダーVS昭和ライダー』というタイトルだったように、我々の中で平成の仮面ライダーは平成ライダーだったのだ。
当時から現代を語るため今回は平成仮面ライダーではなく、平成ライダーとして語る必要がある。
(わからない人はふーんっと流してくれて一向に構わない)

私が初めてきちんと観た平成ライダーは仮面ライダー龍騎で、ゾルダが初めてファイナルベントをぶっ放した回だ。
クウガやアギトの存在は知っていたが見過ごしてきた私にとって、マグナギガに銃を差し込んでミサイルやら弾丸やら一斉発射して辺り一面まるごと吹っ飛ばすシーンは、あまりに苛烈でセンセーショナル過ぎた。
感想はそれこそ『僕の知っている仮面ライダーと違う』の一言に集約される。

その頃から私にとって平成ライダーはある種『自由の象徴』みたいなものになった。
日曜の朝8時半からとんでもないモノが放映している。しかも小さいお友達をメインターゲットにした番組だ。
率直に言って意味がわからない。

無論表現的な規制や守らねばならないお約束というのは当時からあった。
それでもなお『それやっていいの?』『そこまでやっちゃうのか!』が溢れてくる。

戦いが膠着してヌルくなれば浅倉威という凶悪犯罪者がライダーとして投入される。
それにも慣れてくれば仲間を次々と手に掛けるサイコパスの東條が話をかき回す。
現実世界に戻れず泣き叫びながら消滅していくインペラーの最期は、なんで朝一からこんなに陰鬱な気分で過ごしているのだろうかと本気で自問自答した。
「幸せになりたかっただけなのに」と残して消滅していく姿は、未だに平成ライダー最大のトラウマになっている。

なお、この感覚はその後のファイズやブレイドでも感じてきたことだ。
仮面ライダーという特撮の大ブランドを使って、朝から狂ったことをしている。
それが私にとっての平成ライダーだった。

平成ライダー初期が持っていた苛烈さと残酷さ。
そしてだからこそ輝く美しさ。
それらは平成ライダーが安定化していくにつれ、慣れと規制によって喪失していく。

この手の話をすれば鎧武やビルドを挙げてそんなことはないと主張する人はいる。だが、やはり同じではないのだ。

鎧武は確かに平成ライダー初期の空気感をかなり大事にした作風だった。
それは言い換えると平成一期をリスペクトした平成二期ライダーなのだ。

ビルドのラストも龍騎といくつかの共通点がある。
戦兎と万丈がやり直された新世界にて、ふたりぼっちで生きていく。
けれど『ふたりぼっち』はそれそのものが救いだ。

戦いを止めることは真司の願いだった。
しかしエンディングの真司は自分が繰り返される時間の中で、何度も迷い駆けずり回って、戦いを止めることが自分の願いなのだと気付いたことすら知らない。

真司と蓮は花鶏の前で再開するが、言葉を掛け合うことなくすれ違う。
蓮も優衣も元気で騒々しい『あの』おばちゃんもいない。
真司が過ごした居場所がなくなったことを示すように花鶏の店内で物語は幕を閉じる。
そこに救いはなく、私達は願いの結果だけを見せられて終わる。

あの時の表現できない感情。
心に重いものがずっしりと残り、どう消化していいのかわからない。
これはそのまま『仮面ライダー龍騎』を視聴し終えた時と同じ感慨ではなかったか。

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春映画の放棄と平成ライダー一期救済の拒絶

仮面ライダーディケイドが平成ライダーの世界を繋げて以降、劇場版を中心に完結した過去の平成ライダー、所謂レジェンドライダー達に再び活躍の場が与えられるようになってきた。
その中でも大団円を迎えられなかった者達に新たな戦いが描かれ、『真の最終回』とも言える展開が用意されるようになってきている。
それが『仮面ライダー4号』における乾巧であり、ジオウ本編でもブレイド編は剣崎一真と相川始はバトルファイトから開放され、本当の意味で自分達の未来を歩き出した。

http://kamen-rider.info/zio-29/ http://kamen-rider.info/zio-30/

人によってはかつての余韻を破壊する展開だと憤る人もいるが、ネットの反応を見るに概ね好意的に受け止められている。
私も真の完結編を意識した救済措置的な展開は、作品終了から10年以上経過した時間も手伝い、素直に良作として受け入れられた。

だが龍騎はあからさまにこの流れを拒んだ。
ジオウのスピンオフ作品という位置付けながら、ジオウ側は完全にサブキャラ配置で再びミラーワールドの戦いを開く。

ジオウ龍騎編ではミラーワールドの存在を己の裏表として、ミラーワールドの自分を受け入れるという新たな道を示した。
しかし本作ではそんなぬるま湯は一切許さない。

その結末までもが仮面ライダー龍騎そのものであり、さわやかな視聴後感など皆無で、またもや戦いの結末をそのままぶつけられるかのような幕引きだった。

ジオウを前提に置く以上は、龍騎という物語に対する救済でもあるだろうと考えていた視聴前の私はあまりに甘すぎた。
ジオウ側の出番は本当にアナザーライダーとその後のオーディン戦ぐらいしかない。

そして、いずれも内部で勃発しているバトルロワイアルは現実世界と直接的に繋がらないまま決着が付いてしまう。三話全てが紛うことなき仮面ライダー龍騎だ。
ディケイドで登場したアビスまで入れて、ファムと正規のライダーではないオルタナティブを除く、過去の13ライダーでのバトルロワイヤルをキッチリと描ききった。

小さいお友達への配慮などまるでない。
騙し合い、裏切り、弱肉強食の殺し合いを一切誤魔化さない。
むしろ過去ではコンプライアンス的な事情でできなかった強烈なシーンも新たに加えている。
17年前に感じた『ここまでやるのか』を17年後の龍騎もしっかり入れてきた。

しかし登場人物達の衣装や髪型などは無理にこだわってはいない。
演技も同様で、『あの頃』の龍騎を感じさせつつも年を重ねた自然な『今』の人物像を重視していた。
『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』はかつての龍騎らしさを残しつつ、新たな龍騎の物語を作ったのではない。
2019年における仮面ライダー龍騎なのだという意識を強烈に感じる。

ここまでガッツリと『仮面ライダー龍騎』が作れたのは『春映画の撤廃』が背景にあるだろう。
昨今の平成ライダーはVシネマの期間限定上映を除くと四季に合わせての上映が恒常化していた。

今年はその四季映画構成をやめて、その分のリソースをジオウスピンオフに割り振った。
これこそが仮面ライダー龍騎のメインに据えることに対する最大の英断だったと私は考えている。

劇場版としての公開にしたなら、ジオウをここまで脇に置くことはできなかっただろう。
『仮面ライダー1号』はまさに本郷猛が主人公の物語ではあったが、当時放映していたゴースト組も存在感は示しており、ヒーローとして天空寺タケルの成長に繋がる要素もあった。

また、小さいお友達に対する配慮が必要となり、やはり『いつものライダー映画』の枠内で龍騎の物語が入れ込まれることになった。
『仮面ライダー4号』はdTVによる配信だったが、その前提や下地には劇場版の『仮面ライダー3号』の存在がある。
ゆえにショッカーというライダー共通の敵と戦う中で仮面ライダーファイズの作品がピックアップされている構造だ。

この構成は、かつてのファイズにあったどう足掻いても迎えるだろう乾巧の死や、木場勇治達オルフェノク達の犠牲に対して落とし所を見つけてスッキリすることはできる。
それでも今作の龍騎みたいな『あの頃の龍騎』を現代に再構成することはできない。
(あのファイズ救済は今のレジェンドライダーを積極起用する流れを作る要因の一つになっていると思うし、4号が素晴らしい名作であることに代わりはない)

平成ライダー二期以降の仮面ライダーは、小さいお友達を中心に据えた展開に縛られなくなってきている
でなければ龍騎のようなジオウの一部分でありながらジオウを切り離した作品の制作には至れない。
かつて仮面ライダー龍騎を愛したファンに向けたご褒美として『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』はあるのだ。

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救いなき世界の救い

ミラーワールドでの戦いは、以前の戦いと様々な要素が反転している。
生き残れば願いが叶えられる戦いは、生き残るための戦いに変わった。

戦いを拒んだ男の意志を継いだ手塚は、ゲーム感覚で戦いを愉しむ男に陶酔する。
愛する一人を救うために全てを犠牲にすると決めた蓮は、戦いを止めるための行動を起こした。

そして、かつて蓮に看取られ命尽きた真司は、蓮の最期を看取り最後の一人となった。

変わらないのは元々ミラーワールドの住人である、もう一人の城戸真司と、戦いこそが己の生存意義とすらいえる浅倉威や、元々の性格からしてゲームに乗る気だった者達だ。
特に浅倉は、かつて膠着を破り積極的に戦いを回す者として神崎士郎に選ばれたのと同じように、過去の記憶を有していた

『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』には『仮面ライダー龍騎』としての救いはない。
ジオウのブレイド編みたいに城戸真司と秋山蓮が開放されたとも言い難い。
物理的には開放はされたかもしれないが、取り返しが付かないものを失い過ぎている。

しかしドラグレッダーとダークウィングのカードが空に舞い上がり消えた後、真司は微笑んで街へと歩んでいった。
二枚のカードは当然真司と蓮の二人を示しており、カードが消えたことは戦いの終わりを示している。
街の中へ溶け込んでいくのは日常への回帰だ。

これらの要素はTV本編での龍騎の終わりを別の形で描いたようなものだ。
違いは日常の中にいるのは城戸真司一人であるということ。

真司と蓮は最期に、また出会ってくだらない喧嘩をしようと語り合った。
ジオウの設定ならば、ソウゴが龍騎ウォッチを手に入れたことにより、間もなく龍騎の歴史は改変されるだろう。

他の作品では本来なら出会うはずのない戦兎と万丈が仲良くやっていたり、政治家となった火野映司の胸にアンクを思わせる赤い羽根が刺さっていたりした。
宝生永夢は医者として変わらない意思を持って患者とその家族に向き合っている。

たとえ仮面ライダーの歴史が改変されても、大事な要素はまるで運命かのようにレジェンドの中に刻まれている。
ならば変わった歴史の中で真司と蓮が再び出会い、くだらない喧嘩を始めるという流れもできただろう。
そういうわかりやすい『救い』を見せずに真司の笑顔だけで終わらせた。

なぜ、真司は最後に微笑んだのか。微笑むことができたのか。
少なくとも歴史改変のことを真司は知らないので、全てが無かったことになるとは思いもしていないはずだ。

そのため戦いの結末も反転した。
秋山蓮も浅倉威も由良吾郎も手塚海之も木村も死んでしまった。
彼らが生き返ることはない。

けれど、彼らとの思い出は無かったことにはならない。
城戸真司は全て覚えている。

浅倉だって誰かに必要とされることがある事実。
北岡とゴロちゃんの主従を越えた絆。
手塚が自分の命を救い、占いの運命を変えたこと。
木村と共に飲んだビールの味も。

秋山蓮と何度も敵対して、共に戦って、くだらない喧嘩をしたこと。
やがて記憶を封印されて、姿や名前を思い出せなくなっても、互いにまた会わなければならないと思う相手になったことを。
城戸真司だけは覚えている。

ミラーワールドの戦いは無かったことにならないし、してはならないものなのだ。
17年経った城戸真司は戦いの悲劇も楽しかった思い出も、全てをありのままに受け入れた。
だから笑って、日常へと帰っていける。

これは真司がただがむしゃらに走り続けた17年前との違い
歳を重ねて現実を受け止められる大人になったからできる終わり方ではないだろうか。

ミラーワールドの戦いがなければ真司と蓮が出会うこともなかった。
二人の出会いと繋いだ絆は戦いと切り離すことはできない。
救いなき世界での救い。

最後の反転。
それはミラーワールドと仮面ライダーの戦いが生んだ、そして今度は消えることなく確かに残った真司と蓮の絆だった。

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